第10話 覆面ボクサー

横浜ボクシングジム。


 ジムのロッカールームには、汗と革の匂いが染みついていた。木製のベンチに腰を下ろし、じんは疲れた体を癒やすように深く息を吐き出す。天井の古い蛍光灯が微かにちらつき、ジムの喧騒が遠くから響いてくる。そんな中、大橋会長が笑みを浮かべながら近づいてきた。

「迅よ!」会長は親しげに肩を叩き、軽い声で言葉を続けた。「この五年間で、ガチなスパーリングで隼人はやと以外の選手には負けたことないだろ。顔面にパンチを受けたことすら一度もない。お前のスピードなら、最速でタイトルも取れるよ!全力でアレンジするから、挑戦してみないか!」


 迅は黙ったまま、足元を見つめた。汗で湿ったTシャツが、背中にぴたりと貼りついていた。大橋の言葉は耳に届いていたが、心の中では別のことが渦巻いていた。


「十年もジムに通って、スパーリングしかやらないボクサーなんていないぞ!」大橋はさらに声を強めた。

「二十八なんだから、今が一番いい時だと思う。絶対いける!遅くなると不利になるぞ!」


 しばらくの沈黙が続いた後、迅はようやく重い口を開いた。「覆面ボクサーってアリですか?」

「はっ? 何を言ってるんだ……」大橋が眉をひそめ、驚いた表情で問い返す。

「顔を世間に晒したくないんです。ほら、万が一、奇跡的にタイトルが取れちゃったりしたら、外を歩きにくくなるので……」迅は、軽く笑いながらおどけた口調で答えた。

 大橋は苦笑し、首を振った。「プロレスじゃないんだから、覆面ボクサーなんて前代未聞だし、顔面の保護になる……認められない可能性が高いだろうな……」


「そうですよねー。やっぱり。すみません。変なこと言ってしまって……」


 大橋は腕を組んで少し考え込んだ後、呟く。「でも、目だけ隠すぐらいだったら交渉できるかもしれない……相手が承諾してくれればの話だが……」


「目だけですか……でも、もしそれで相手が納得してくれるなら、ぜひやらせてください」


 迅は内心、プロデビューやタイトル獲得には興味がなかった。彼の目標は、あやの復讐を果たすこと。それ以外はどうでも良かった。ボクシングは、あくまでもさそり刺青いれずみを入れた男たちを叩きのめすための手段に過ぎない。

 顔が世間に知られると、復讐に支障をきたす恐れがある。迅は水面下で静かに力を蓄え、狙った相手を一撃で潰すための準備をしていたのだ。

 しかし、大橋やトレーナーの大島には恩がある。覆面の提案は、彼らへの譲歩であり、同時に迅自身が最終的にこの話を流すための策でもあった。


 だが、大橋は迅の想定を超えて、真剣に動き出してしまった。「わかった。調整してみるよ。お前の噂は業界でも有名だ。やりたいと思っている選手は多い。目の周りだけ隠す案で交渉してみるよ」


「は、はい。ありがとうございます。ぜひお願いします。それでは、今からバイトなので、失礼します」 迅は、心の中で、まさかの進展に驚いた。


「タイトル取れたら、バイトなんてやる必要なくなるぞー」


 迅は微笑んで軽く会釈し、ロッカールームを出た。会長に言った「バイト」は嘘だ。迅は既に株式トレーダーとして莫大な財産を築き上げていた。プロボクサーとしての収入には全く興味がない。彼の人生の目的は、すべて彩への復讐に向けられているのだから。


 *   *   *


 一ヶ月後、迅の期待を裏切り、ボクシング史上初の覆面ボクサーとして、迅がデビューすることが正式に決まってしまった。覆面は、目だけを隠すシンプルなデザインだ。バッドマンのような姿だろう。

 初戦の相手は、世界ライトヘビー級十位の剣城剛けんじょうつよし

 迅は試合に全く興味を持てなかった。あくまで強くなるためのトレーニングの一環。彼の真のターゲットは、あの日、自分と彩に暴力を振るった男たちだった。


『待っていろ……必ず……』さそりの刺青が迅の脳裏に浮かび、心の声が溢れた。

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