甘党探偵月影ましろ
月見十五夜
プロローグ 少女と狼と少年
ほんの二、三年昔のこと。
しかし、黎明館は世界規模でパンデミックが流行したと同時に廃れていった。
パタリと客足が途絶え、パンデミック収束後も黎明館の従業員たちは復帰することは叶わず。
現状、海辺には広大な廃墟ホテルーーかつての黎明館が聳え立っていた。
「はぁ……!はぁ……!」
廃墟と化した黎明館には、時折肝試しをする為に人が複数人で訪れることもあったが、少女はひとりだった。
パンデミック後の経営が上手くいかず、この広大な廃墟ホテルを押し付けられかけている事実上の現オーナーだった。
「私にホテル経営なんてムリだってば!」
林檎は今まで普通の学校に通わされていた。ホテル経営のこともわからないことだらけである。時々祖父母や両親に言われて少し料理や部屋のシーツの取り替えをして手伝うくらいだった。
「それ以上に今の状況がムリだってば!」
負の遺産を押し付けられかけている林檎は、それでも責任感で学校帰りにちょくちょく黎明館の偵察に来ていた。立て直しが無理なほど荒れ果てていても、やはり建物や土地の管理責任は今後の自分にあるのだから。
しかし今日、驚くことに林檎が黎明館に入った時には既に別の人物が居たのだ。
肝試しに来たような、ただの人間ではなく、狼のマスクを被った変な男。
現在、林檎はその男に突然追いかけられ、外に出られず黎明館の中で逃げ戸惑っている。
「どうしよう……もうすぐ陽が落ちちゃう」
今日もほんの少し偵察する気だった為、学校が終わった後に徒歩で立ち寄ったが、この思わぬトラブルで夕暮れまでに無事に家に帰れるかどうかも危うくなってきた。
逃げ込んだエントランスホールの窓から夕焼けが差し込んでいる。両サイドに付けられたカーテンなどはボロボロになっていたが、部屋から見える夕焼けの美しさが色褪せることはない。
「綺麗……」
海に微睡むように沈む夕日に見惚れた林檎は無意識のうちに呟く。そんなことを言っている場合ではないのだが、景観に圧倒されて自然と目を惹きつけられていた。
しかし、その時間に水を差すようにエントランスホールのドアを狼男が乱暴に叩く音が響いた。
林檎は再び慌てて走り、反対側の通路の奥にあるエレベーターのボタンを何度も押す。幸いにも電気はまだ通っていたようだ。階に到着したエレベーターに林檎は慌てて駆け込んだ。
あの狼男は何者だろうか。狼のマスクを被っているにしては、本物のように一体化しすぎているような。
仲間がいるかと思ったらそうでもないようで、1匹否、1人で林檎を追いかけて来ている。
一先ず安全……とは言い難いが、静かなエレベーター内で林檎は冷静さと落ち着きを取り戻した。
しかし、屋上に近い階にエレベーターが止まりドアが開いた瞬間、林檎は再びパニックに陥った。
「なんでいるの!?」
狼男がエレベーターの向こう側に佇んでいる。手には先程までなかった斧が握られていた。
この階はエレベーター付近以外は真っ暗だ。降りるのに戸惑いを感じてもおかしくはない筈だが、林檎は目の前の怪異から逃げる為にエレベーターから飛び出した。
寝室が並ぶ階の為、幸い廊下には障害物はない。林檎は再び少し落ち着きを取り戻すと、手探りで真っ暗な廊下を歩き始めた。
鞄の中にあるスマートフォンのライト機能のことを思い出し、明かりを付けようとした矢先。
「え?」
鍵が壊れている寝室の暗闇から、白い手が伸びてきて林檎を中に引き摺り込んだ。
悲鳴を上げた林檎と影は取っ組み合いになり、林檎が寝室の時計と思われる物を掴み、影を殴ると影はくぐもった悲鳴を上げ、影が林檎の腕を掴む力が緩んだ。
「だ、誰!?誰だかもこっちは知りたくないけど!」
物理攻撃が効いているようだ。幽霊とか、ではない。しかし暗がりで明かりもない状態でそれは誰かと確認することは困難だった。
林檎の恐怖心が和らぎ、今度は鞄で影を殴り飛ばして寝室から逃げ出した。
今度こそスマートフォンのライト機能を使い、暗い廊下を照らして見つけたエレベーターのボタンの反応を急かして何度も押す。
狼男の次は謎の影に襲われた。影の方は肝試しに来た人間だろうか。
(確かにパンデミックが終わる前後で廃墟化が進んで、このホテルが心霊スポットになっているって知ってはいたけれど……!!)
エレベーターの中で友人に緊急メールを送る。電話をした方がいいかもしれない。けど、関係ない人を直接巻き込むべきだろうかと、林檎は僅かな時間で思い悩んだ。
再び競り上がる怖い気持ちを押し殺しながらも、林檎は冷静に状況を対処しようとする。
エレベーターは最上階のスイートルームに辿り着いた。
先程のエントランスホールよりも外の景色の見晴らしが良い、かつては最上級の高級感が溢れる寝室だった場所。
再び窓から見える景色に見惚れていた林檎は、何度もドアを叩く音にハッと振り返る。
その部屋の閉じたドアを、狼男が斧でこじ開けていた。
林檎は下の階よりも落ち着いた様子で狼男と対峙する。
(影に物理攻撃が効いたんだから、この狼男も人間だ……と思う?)
狼男にはホテルに入った直後から何度も追いかけられているが、影は一度きりで殴り飛ばした後に追いかけてくる気配もなかった。
林檎がこれからどう対処すればいいか決め込んでいると、ベルの音が近付いてくる。
これは、自転車のベルの音だ。
「え……!?」
林檎に飛び掛かろうとしていた狼男が遠吠えをした刹那、自転車は狼男が突き破ったドアから勢いよく飛び出して狼男を轢き倒した。
「物理が効く、ってことはこの狼男は人間……?」
「いいや、人間じゃないよ」
自転車に乗っていた人物がUターンブレーキをして止まると同時に、狼男は跡形もなく光の粒子と化して消えていった。
何故か部屋に甘い香りが微かに匂う。自転車に乗っている人物ーープラチナブロンドの少年が、林檎味のロリポップを舐めながら林檎の生徒手帳を渡してきた。どこかで落としてしまっていたらしい。
「初めまして、高坂林檎さん。正確には初めましてじゃないけど。……さっきはどうも」
「あ」
黎明館内で林檎が会った人物は、さっきの狼男と目の前にいる少年しかいない。影が人間だったとすれば。
少年は脇腹を少し痛そうに摩っている。
「いてて……。自転車のライトが必要だったから、悪いと思ったけど乗って来ちゃった。ボクはライトを持ってくるのを忘れた……と思ってたんだ。そっか、スマホはそういう機能があったね」
胸元の校章、黒のラインが入った白いニットベスト。御伽高校の制服だが、林檎は少年を学校で見たことがない。プラチナブロンドなら目立つ為、学校で一度でも見たら印象に残っても残る筈だが。
『僅かだけど
「大事に至らなくて良かったよ。被害が最小限で済むからね。帰ったら報酬の甘いスイーツを食べよう」
プラチナブロンドの少年は自転車に跨ったまま、籠の中にいるモフモフとした不思議な生物と会話をしていた。その小動物は白い猫にも見えるし、白い犬にも見えて、白い兎にも見えなくはない。
「ーーというわけで、ボクはこれからスイーツを食べに帰るから。キミを家までは送らないけど、途中まで後ろ、乗ってく?」
唐突な出会いと提案に、高坂林檎は戸惑いを隠せずにいたが、抱えていた不安や恐怖心は狼男の消失と共に消え去っていた。
陽が海に溶け込み、黎明館の辺りは既に薄暗い。外に出る頃には辺りは完全に暗くなっているだろう。しかし、色々と説明してもらいたいことがある。消えた狼男のこと、人語を喋っている小動物のこと。それらに関わりがある少年自身のこと。
突然現れた異質な少年を不審に思いながらも、林檎は初めて自転車の二人乗りを経験し、黎明館を後にした。
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