第2話 戦うマネージャー(影との戦い)

2年分のブログをざっと拝見しての、第一印象というか読後感は「彼女たちは戦っている」ということでした。

中央大学日本拳法部(のブログ)スタイルを堅持することで「中央カラー」を顕示する。これだけでも忍耐の要ることです。

人は、あるパターン・様式の中で、何も考えずに生きることを快適と感じる反面、必ず自分のスタイルや自分の好みを表出したり、自分独自の感性を公用文に適用しようとするものです。大学日本拳法のブログ(公器)でありながら、自分のお気に入りの喫茶店(の数々)を列挙して、個人的な食べログにしてしまったりとか(別の大学日本拳法部のブログ)。

そんな、人間が自然に持つ「色と欲」を一旦、殺し(個性的な私情を矯め、豊かな感性や詩情を押さえ)、部活(を行う選手・OBや、その様子・景色)にそれら(個人の特性・徳性)を再投入して、独自の(特異な)、しかし公的な(普遍的)文章(記録文)に昇華させる。彼女たちのブログに見ることのできる・私が感じた、そんな努力をして「影との戦い」と呼ぶのです。

○ 全体は部分の総和に勝る

数人のマネージャーの個性を殺しながらも、それを再変換して活かしたログ(航海日誌・業務記録・通信日誌)の数々が、一つの力(強力な存在感)となる。

7人の協力で強力な存在感を示さんとする日本拳法(団体戦)の如く、複数人のマネージャーによる完成された個々人の力が、ただの記録文を文学という別の次元に変える。

(複数の)マネージャーによる「全体は部分の総和に勝る」戦いであり、成果であり、精華(物事の真価とすべきすぐれたところ・光彩)と言えるでしょう。

○ マネージャーとはパーソナリティー

  マネージャー【manager】

  ①支配人。経営者。管理人。監督。

  ②学校の運動部などで、選手の世話をする人。

  ③芸能人のスケジュール調整や渉外などの世話をする人。

    広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店


これまで、(大学日本拳法部の)マネージャーとは「学校の運動部などで、選手の世話をする人」としか考えていなかったのですが、今回、彼女たちのブログを拝読したことで、それプラス「ラジオのパーソナリティー」と同じ役目も持つのではないか、と考えるようになりました。

ラジオのパーソナリティーとは、聴者からの便りに綴られた様々な体験・目撃談・感想を、パーソナリティーが自分の感じ方・考え方と言葉によって、ラジオを聴く多くの聴衆に、よりわかりやすく・より印象的な体験にする、という役割を持っている、と私は考えます。

ですから、リスナーからの手紙をただそのまま読んで、ステレオタイプのコメントをする人を「パーソナリティー」とは呼ばない。「パーソナリティー」と自称するからには、その人独自の「①人格。個性。或いは、性格とほぼ同義で、特に個人の統一的・持続的な特性」と、それを表現する個性(パーソナリティー)を具備している必要がある。

そして、そんな彼や彼女独自の視点による「特殊な」コメントは、何万人もの視聴者に賛同され、感動・感銘を与える「普遍的な」コメントとなる。

  

彼女たち在来種純粋日本人のブログにおいて、極めて僅少ではありますが、彼女たちの私的感想・観点によって書かれている部分があります。

それら彼女たちの(個性という)フィルターを通して記述された事実とは、同じ事実でありながら異なる位相を読者である私たちに提供してくれている。

マネージャーというパーソナリティーによって、私たちは2つの異なる事実を見る(識る)のではなく、2つの観点からの事実を知るのでもなく、もう一つの位相という思惟を与えられるのです。時を刻む・時間が進むという喪失感を感じさせる「時計」は、自分の中に時間が蓄積されているという充実感を与えてくれる「時計」となる。これが異なる位相ということです。

これが「パーソナリティー」の役割ともいえるのですが、これはともすれば、単なる私情や私論・フェイクとなってしまうので、結構難しいのですが、彼女たちはさり気なく行っている。強く「公」を意識しながら、物事をよく見てよく感じてよく考えて「私的に」現実を把握する、という内面的運動能力(鍛錬)の為せる成果といえるでしょう。

つまり、彼女たちは激しい運動をする選手たちに負けないくらいの、内的・形而上的な厳しい鍛錬を日々行っている、ということなのです。(北村透谷「内部生命論」)

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ラジオのパーソナリティーに関しては、今年の6月初めて聴いた、NHK「眠れない貴女のために」のパーソナリティーでいらっしゃる和田明日香さんのイメージが強い。

つい先頃(2024年9月1日)の放送(誰にも言えない秘密のコーナー)でも、こんな「パーソナリティーぶり」を発揮されていました。

はしょって話すと「中学時代3年間3回、ある女性から(恋を)告白されたが、自分に自信がなく、『彼女を幸せにできない』という気持ちから断ってしまった。」というお便りが、「誰にも言えない秘密」コーナーにあった。

これに対して、和田明日香さんはこんなことを(かなり控えめに)仰ったのです。

「告白する方(女性)は、幸せにしてもらうつもりで交際を申し込むわけではない。」と。

まあ、和田さんも商売でラジオやられている手前、穏便・曖昧な話で濁らせておられましたが、これがプライベートな話であれば、かなり立腹されていらしたのではないだろうか。

「男なら、自分に自信がないなんて考えるより、恥を忍んで(3回も)告白してくれた女性の気持ちを察してやれよ !」、或いは「男ならはっきりと断るべきで、曖昧な態度でだらだら女性の気持ちを引きずるべきではない。」なんて。

そんな考え(妄想)をリスナーである私の心に湧き起こさせてくれたという点に、彼女のパーソナリティーとしての役割があるというか、存在感を感じました。


○ 「明月や池をめぐりて夜もすがら」

北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」において、(ほんとうの)文学とは、その文学(作品)の持つ実質的な利得(その小説を読むと、その時代背景がよくわかる。様々な徳になる情報が満載。面白おかしく楽しめる、等々)でその価値が判定されるべきではない。

その小説を読むことで、読者の心の中で様々な疑問や人生における懐疑や内的葛藤が生じ、それと戦うことで読者の内面的世界が広がる・豊かになる。

単に面白おかしい、実利がある、というものではなく、それを読むことで、自分の精神的畑が耕されることで、大きな精神的収穫を期待できるようになる。

そういう「空の空を撃つ」効用について、透谷はこの一文で述べているわけですが、その一例として「明月や池をめぐりて夜もすがら」という、芭蕉の句を取り上げているわけです。

この句とは、単に月や池や森を鑑賞することで得られる爽快感という実利(ばかり)でなく、池の周りを何度も歩くことで得られる哲学的思索(内面的葛藤・形而上的戦い・批判精神)の効能についても訴えているのです。

何度も池を回ることで、自分の内に生じてくる哲学的思索・思惟・思念といった、心の景色こそが、現実の月や池という(美しい)景色よりも貴重ではないか、と透谷はこの一文で訴えたのです。


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