Life of Compassion

入月純

第1話

 七海ななみは俺が三十歳の時にできた子供だ。


 妻は当時二十七歳で、職場の後輩だった。

 俺達は付き合いだしてからたったの三ヶ月で七海を授かることになり、思わぬ妊娠に妻は取り乱していたけれど、俺は産んで欲しいと頼み込んだ。


 とはいえ妻にも堕ろす意思は取り立ててなかったみたいで、彼女はあまりにも突然の妊娠発覚に冷静ではいられなかっただけらしい。

 妻が仕事を辞めたのは妊娠七ヶ月目のことで、それからは当然俺の収入だけで生活していくことになる。


 その時点ではまだ入籍もしていなかったので、とりあえず結婚式は後回しにして、先に籍だけは入れてしまおうという話になり、晴れて妻は相川あいかわ性を名乗ることとなった。


 入籍までが結構大変で、妻の実家に挨拶に行った俺を、初対面の父親はいきなりぶん殴った。ドラマや映画の世界みたいなことが現実でもあるんだなと俺は痛みよりも驚きが大きくて、「すみません」と頭を下げたものの、確かに妊娠してから挨拶に来るなんて非常識なのかもしれないなと思わなくもないが、それでもいきなり殴られる筋合いはないんじゃないかという疑問も頭を過ぎり、多分表情は不満一色だったはずだ。


 ただ、結婚を認めるも認めないもなくて、もう妊娠四ヶ月になっている妻のお腹はまだぱっと見では膨らみもわからないけれど、それでも確実に生命はそこに宿っていて、義父は終始俺を睨みつけながらも渋々結婚を承諾した。


 義母はというと、なんというかおっとりとしていて、良く言えば柔和な、悪く言えば我関われかんせずえんといった雰囲気の女性で、俺が旦那にぶん殴られている時も、おろおろしながらも特に止めに入るような素振りも見せなかったし、一方で、自分の父親が夫になる人間を殴ってる横で、妻はテレビを観ていた。


 この家族とは一生合わないなと、落胆というか失望みたいな感情を抱いたファーストコンタクトだったが、それでも結婚するなら関係性を築くことは避けられず、俺は必死で彼らの機嫌を取った。

 実に苦痛な日々だった。



 その後も仕事は忙しく、妻のフォローも大変だった。


 もちろん妊婦である妻に家事を強要できるわけもなく、俺のフォローをしてくれなんて言えないし、仕事が終わって帰宅した俺は食事を作り、洗濯やら掃除も全てこなした。


 妻はニトリで買った九万円のソファーで一日中寝転んでたけれど、これから出産という大イベントを迎えるのだから仕方ない。子供が生まれてからが本当の勝負というのは避けて通れぬ事実であり、育児に忙殺されるのは目に見えているのだから、せめて今の内に英気を養ってもらいたいとも思っていた俺は、一切の家事を拒否する妻に対してて特に腹も立たなかったし、むしろ体調を第一に考えてほしかったので、妻の分の食事を作ることも、毎日味付けに文句を言われることも、洗濯や掃除のやり方に苦言を呈されることも然程ストレスには感じなかった。


 幸い、職場でのストレスもほとんどなかったというのが大きいかもしれない。

 俺はスーツ販売店で勤務しているのだが、本社から売上を責められるようなこともなかったし、同僚も良い人ばかりで恵まれていた。それこそが家事と仕事の両立に成功していた最大の理由なのだろう。


 程なくして妻は娘を産む。出産直後こそ愛おしそうに娘の頭を撫でたりしていたけれど、妻はあまり子供が好きじゃなくて、娘にも特別関心がなさそうだった。


 彼女は「名前、どうする?」と訊いた俺に「なんでもいいよ」と返した。


 なんでもいいってどういうことだよと憤りそうにもなったけれど、今はまだ心も体も疲弊しているんだろうし、責めるのも悪いなと思った俺は、色々考えた末、娘に七海という名前をつけた。


 七は妻の名前から一文字取って、海というのは広大で全てを包み飲み込めるような、そんな大きな人間に育って欲しいからというのは建前で、単純に口に出した時の「ななみ」という名前の響きが可愛いと思ったからだ。


 七海はすくすくと育ってはいくけれど、妻は母乳をあげる以外のことはあまりしてくれなくて、家事はやはり俺が担当することになった。

 七海のおむつを替えたり風呂に入れたり着替えさせたりと、完全に父親になったんだなという実感を抱きながら俺は結構その状況を楽しんでいた。


 嘘だろってくらいの音量で毎日のように夜泣きする七海をあやすのも苦ではなくて、ようやく泣き止んで泣き疲れたのかすぐに眠りに落ちてしまう七海の顔は天使と見紛うほど美しく思えて、俺は俺の子供として生を受けてくれた七海と神様やら仏様やらに、そして七海を産んだ張本人である妻に感謝した。


 七海が四歳の時に妻は出ていった。マッチングアプリだかで知り合った男と一緒に暮らすから別れると言われ、妻の名前が記入された離婚届を渡される。


 俺は自分の名前を書き込み、その日の内に役所に提出する。

 妻が荷物をまとめる姿を七海はぽかんとした顔で見ていて、泣くこともなければ話しかけることすらなかった。


 俺は父親として二人の最後の場面をなにかしら感慨深いものへと演出してやるべきなのかとも考えたが、二人の表情を見てそれは不要だと悟る。

 恐らく、お互いに相手への執着がないんだろうなという想いが伝わってきたからだ。


 四歳の少女なんて、母親に甘えたい盛りじゃないんだろうか。いや、甘えたくな子供なんていないだろうし、やっぱり子供に母親は必要なはずだ。だったら、俺達は離婚なんてするべきじゃなくて、ここは俺が頭を下げてでも妻を引き留めるべきなんだ。


 そんな風に思ったのは一瞬で、俺も七海とおんなじような顔で妻の作業を手伝うことなくボーっと見ているだけだった。


 別れの挨拶もなく家を出ていった妻を俺と七海は見送って、バタンと閉じられたドアの音を聞いて、なんとなく二人で目を合わせる。で、笑う。

 なんで笑うんだよと俺は言う。

 だってお父さんが笑うんだもんと七海は言う。


 俺達は大事な家族を一人失ったけれど、でも大事にする家族は一人でも十分だと思っていた。お互いに。


 こうして、俺はシングルファザーとして、幼稚園に通っていた娘を保育園に転園させ、片親デビューを果たした。

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