第2話 出会った青年は飲み込まれる

 青年の目の前に横たわっているのは、未知の生物だった。イルカに似た流線形の体をしていながら、その生物は異様なまでに鋭い牙を露わにし、頭部には不気味に並んだ八つの目が、じっとこちらを見据えていた。体は全体に無数の傷を負い、血が乾いたかと思えば、まだところどころから滲んでいる。周囲の静寂を破るのは、青年の荒い呼吸と、生物がかすかに漏らす断続的な息遣いだけだった。


「……なんだこれ、なんでこんなものが……」


 その言葉は、声に出して発したものなのか、心の中で呟いただけなのか、青年自身にもはっきりとはわからなかった。目の前に横たわる生物が、ただの「生き物」ではないと本能が告げていた。肌に張りつく冷たい汗と、微かに震える手――青年の胸中には恐怖と好奇心がせめぎ合っていた。


 かすかに息をしている生物の、いくつかの目が静かに青年を捉えている。まるで彼の動きを監視しているかのように。そしてその目の奥に潜む感情が、単なる苦しみだけではないことを青年は感じ取った。――痛み、苦しみ、そして……怒り。圧倒的な怒りの波が、ゆっくりと生物の体全体から漂ってくるのを、彼は肌で感じた。


「――――――――ッッッッ!!!!」


 突然、獣が轟音のような叫びを放った。空気が震え、青年の耳に鈍い衝撃が走る。その声は低く澱んでいて、この世のものとは思えない異様さを持っていた。悲しみではない、何かに対する圧倒的な怒り――それは、まるで青年自身に向けられているかのような鋭い憎悪だった。


「ひっ……!」


 青年は無意識に短い悲鳴を上げ、恐怖に足がすくんだ。その場から逃げ出すつもりで尻餅をつき、アスファルトの上を手で掻きながら必死に後退った。しかし、視界の片隅には、未だに生物の複数の目が自分を追っているのが見えた。その視線が離れることはない。


 人々のざわめきが徐々に大きくなっていく。恐怖と戸惑いが交じり合い、誰もがその場から逃げたいと思っているのに、視線はあの異形の生物に釘付けになっていた。「目をそらせ」と脳が警告を発しているのに、誰もがその場を動けないでいる。何か言葉にできない恐ろしい力が彼らを支配していた。


「なんだあれは……」


「お、おい……逃げた方がいいんじゃねぇか?」


「け、警察! 警察を呼べ!」


 動揺が口々に飛び交い、混乱は瞬く間に群衆全体へと広がっていった。しかし、その混乱すらも、次の瞬間、全ての人間の意識から吹き飛ばされた。


 生物が、突然その巨体を震わせた。

 動けないはずの、傷だらけで息も絶え絶えの生物が――まるでその限界を振り絞るように、痛々しい体を無理やり引き起こし、頭を持ち上げたのだ。周囲にいた人々の恐怖は頂点に達し、一瞬でその場が静寂に包まれる。誰もが、まるで時間が止まったかのように生物の動きを見守るしかなかった。


 そして――次の瞬間だった。


「……!」


 青年は恐怖に固まったまま、その口を見た。生物が、八つの目をぎらつかせながら、大きく口を開けた。喉の奥深くから、黒く濁った血が吹き出し、その裂けた口の中には、無数の鋭い牙が露わになっている。地面に染みる血と同時に、生物は青年へと向けて突進した。


「――――!!」


 叫び声を上げる間もなく、青年はその巨体に飲み込まれた。獣の巨大な口が、彼をあっという間に包み込み、次の瞬間、彼の体は視界から消えた。まるで虚空に吸い込まれるように、青年の存在はその場から一瞬にして消え去ったのだ。


「――――――――ッッッッ!!!!」


 生物の雄叫びが再び辺りに響き渡った。その音は、空気を震わせ、周囲の建物さえも揺さぶるような迫力を持っていた。その瞬間、人々は現実に引き戻された。これ以上この場所にいてはいけない――本能的な恐怖が、一斉に群衆を駆り立てた。悲鳴と混乱が交錯する中、彼らは無我夢中でその場から逃げ出した。誰もが己の命を最優先にし、互いを押しのけながら走り出していく。


 その混乱の中、警官3人が群衆を掻き分け、現場へと駆けつけてきた。目の前に広がる光景に、彼らの足は一瞬止まった。暗闇の中にそびえ立つようなその異形の姿は、現実のものであるはずがない。まるで悪夢から引きずり出されたかのような怪物が、そこに横たわっていたのだ。


「な、なんだあれは……!」


 最前に立つ警官が思わず呟く。あまりにも現実離れしたその生物に、彼らもまた恐怖に押しつぶされそうになっていた。手に握った拳銃が、何の役にも立たないと感じるほどに、絶望的な状況だった。


 しかし、その次の瞬間、生物が警官たちの方へと突進を始めた。まるで、獲物を見つけたかのように――!


「う、撃て!」


 初めに指示を出した警官が声を張り上げる。指先が震えながらも、3人の警官は一斉に拳銃を抜き、生物に向けて引き金を引いた。あたりに響く銃声。しかし、その銃弾は生物の体表にあたり、まるでゴムのように弾かれるだけだった。黒い体表はどこか粘性を持っているようで、銃弾を受け付けている気配が全くなかった。


「だ、ダメだ! 拳銃が効かない!」


 弾丸の無力さに愕然とした警官の声が震えた。あまりにも絶望的な状況に、彼らの理性はすでに限界に達しつつあった。目の前にあるのは、常識では測りきれない「何か」――人間が到底勝ち目のない存在。警官たちの顔に浮かぶ焦りと恐怖が、その場の緊張感をさらに増幅させた。


「し、市民の避難を最優先にしろ! コイツは私が引き受ける!」


 一瞬の混乱の中、最初に指示を出した警官が、再び声を張り上げた。彼の声には恐怖が滲んでいたが、警官としての使命感がそれに勝っていた。自分が囮となることで、少しでも市民を安全に避難させる時間を稼ごうと決意したのだ。


「わかりました!」


 他の警官たちはその言葉に即座に反応し、2人目の警官が市民を誘導し始める。3人目もまた、緊張した表情のままそれに続いた。群衆を安全な場所へと逃がすことが、今彼らにできる唯一の役目だと理解していた。


 最初に指示を出した警官は、覚悟を決めていた。自分が囮となり、できるだけこの異形の生物の注意を引きつける――それが今、彼にできる唯一のことだった。

 拳銃を構え、全ての銃弾を撃ち尽くす覚悟で引き金を引く。銃声が鳴り響き、その弾丸は生物の体に次々と当たるが、やはり効果は全くなかった。


 それでも、警官は撃ち続けた。生物は、彼の意図通り、こちらに意識を集中させた。八つの目がぎらつき、鋭い牙を剥き出しにして、警官を狙い定める。本能的な怒りと憎しみが、その動きから感じ取れた。彼は、あの怪物にとって、いまや標的だった。


「……くそっ……!」


 生物が巨大な体を揺らしながら、警官に襲いかかる瞬間、彼はその猛スピードに驚愕する。だが、逃げることはしなかった。仲間たちや市民が安全に避難するまで、自分はここに立ち続けなければならない――その一心で、生物の攻撃を何度か躱す。


 だが、次の瞬間――。


「……ッ!?」


 鋭い痛みが両腕に走った。生物の巨大な口が、彼の拳銃を握っていた両腕に食らいついたのだ。その牙が肉を引き裂き、骨を粉砕する感触が、恐怖と共に全身を駆け巡った。彼の視界が一瞬暗転し、激しい苦痛が脳を焼き尽くす。


「わぁぁぁああああっっっッッッツツ!!!!」


 警官は絶叫を上げ、その場に倒れ込んだ。地面に広がる血の海。彼の腕からは絶え間なく真っ赤な血が噴き出し、その量は恐ろしいほどだった。彼の目に映るのは、自分の体が激しく震え、命が徐々に削られていく様子。そして――。


「……!!」


 生物が再び、その鋭い牙を警官に向けた。まるで断末魔の声すら、相手に届いていないかのようだった。次の瞬間、生物は警官の体に覆いかぶさり、その牙を深々と突き刺す。肉が引き裂かれ、骨が砕ける音が、あたりに冷たく響き渡った。


 彼の命はその場で途絶え、残されたのは、無惨に引き裂かれた体だけだった。


「ああぁぁああああ!!」


 残された二人の警官の精神は、仲間が無惨に殺される光景によって限界を迎えた。彼らは恐怖に圧倒されながらも、必死に理性を保っていたが、その最後の糸は今、完全に切れた。胸の中に湧き上がる怒りと無力感が混じり合い、彼らの行動はもはや本能的なものとなっていた。


「よくもぉおお!!」


 一人の警官が拳銃を構え、先ほどから何度も無力だと分かっているにもかかわらず、再び引き金を引いた。銃声が鳴り響き、弾丸は再び生物の粘ついた体表に弾かれる。だが、彼はそれでも止まらなかった。怒りと絶望が、彼の判断力を麻痺させていた。まるで、仲間の仇を討つかのように、突撃した。


 しかし、その結末は最初の警官と同じだった。生物は牙を剥き出しにし、瞬く間にその警官をも襲った。肉が引き裂かれ、血が飛び散り、彼もまた無残に命を奪われた。


 最後に生き残った警官は、目の前で次々と仲間が倒れる姿に耐えきれず、その場に崩れ落ちた。手の震えは止まらず、心臓は激しく鼓動し、冷や汗が頬を伝う。彼の頭の中では、ただ一つの言葉が繰り返されていた。


「終わった……」


 そう呟いた瞬間、生物の視線が彼に向けられた。その鋭い目が、彼の命を次に狙っていることを明確に示していた。生物は、最後の獲物を仕留めようと、地を這うようにして警官に近づいていった。警官は逃げることもできず、ただその場で怯えながら、迫り来る死を待つしかなかった。


 ――その時、信じられないことが起こった。


「……ッ!?」


 生物が警官に襲いかかる寸前、その巨大な首が突然、すっぱりと切り落とされた。異様に重く響く音と共に、首が地面に転がり、瞬間的に生物の動きが止まった。生物の体からは、大量の鮮血が吹き出し、アスファルトの上に広がっていった。


 警官は呆然とその光景を見つめていた。何が起こったのか理解できないまま、目の前で死を迎えようとしていたはずの自分が、突然助けられたことに混乱していた。


「……誰だ……?」


 警官の前に、空から一人の少女が降り立った。まるで天使か何かのように、彼女の姿は神秘的でさえあった。少女は、手に鋭い長剣を携えており、その剣は血に染まっていた。彼女が、生物を一瞬で倒したのだ。


「ごめんなさい……遅くなりました」


 少女はそう言いながら、静かに警官の方を見つめた。その言葉は、優しさと同時に、どこか悲しみを含んでいた。彼女が何者なのか、なぜここに現れたのか、警官は何一つ理解できなかったが、その場に立ち尽くすしかなかった。


 風が静かに吹き抜け、戦いの幕が一瞬のうちに閉じたことを知らせていた。

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