【株式会社 季節ゴロシ】

しろおび

第1話 逃げた獣と出会った青年

『今日のトップニュースです。』


 男性キャスターが疲れた様子で口を開く。背後のモニターには、燃えるように赤い数字が大きく映し出されていた。スタジオの冷房が効いているにもかかわらず、どこか蒸し暑さを感じさせる空気が漂っているのがわかる。


『本日、日本の最高気温が再び更新されました。埼玉県で記録されたのは……42.5度』


 彼の声が響いた瞬間、画面には熱波で揺らめく道路や、枯れ果てた草木が映し出される。焦げるような太陽の光に晒された地面は、異常なまでの暑さを物語っていた。視聴者にその異常性を訴えかける映像は、じりじりとした不快感を引き起こし、まるで画面越しに熱が伝わってくるようだった。


 キャスターは原稿を軽く握りしめ、一瞬、言葉を止める。隣に座るコメンテーターに目を向けると、彼女もまた額にうっすらと汗を浮かべ、無表情のまま小さく頷いた。


『また、ですね』


 コメンテーターの女性が深いため息をつきながら言う。その声には明らかにうんざりした気配が滲んでいた。


『今年に入って、もう何度このニュースを聞いたことか……』


『毎年、こうなってしまいましたね』


 キャスターは肩をすくめながら疲れた笑みを浮かべる。


『気温が記録を更新するたびに、驚きすら感じなくなってきました』


『それが一番怖いことですよね。記録更新が当たり前になって、誰も異常だと思わなくなっている。でも、これだけ温暖化が進んでいるのに、実際の対策がほとんど進んでいない現状……どうしていいのか、分からない状況ですよね』


 コメンテーターはさらに言葉を続けようとしたが、その声にはすでに諦めの色が滲んでいた。彼女はテーブルに肘をつき、ぼんやりとテレビカメラへ視線を向けている。異常事態が日常になっていく感覚に、どこか疲れ切った雰囲気が漂っていた。


『皆さん、暑さにはくれぐれもご注意ください』


 キャスターはわざとらしく笑って締めくくった。


『42.5度……これでは、外に出る気力もなくなりますね!』


 コメンテーターは軽く頷き、番組は次のニュースへと移っていく。スタジオの静寂の中には、無力感が広がり、誰もが次に何をすべきかを考えられなくなっているようだった。


 そんな重い空気がテレビから流れる中、一人の少女が自宅のリビングでそのニュースを見つめていた。彼女は無表情のまま画面を見ているが、その指先は淡々と制服の袖を整えている。夏服仕様のセーラー服に包まれた少女の腰には、長く鋭い剣が携えられていた。それは彼女の日常の一部であり、どこか異様な静寂を漂わせていた。


 長い黒髪は後ろでしっかりと結ばれ、ポニーテールが軽く揺れている。少女はテレビを消すと、ため息をつきながら玄関へと向かい、扉を開けた。


 玄関の扉がゆっくりと開くと、そこには異質な光景が広がっていた。


 少女が住むワンルームの社員マンションは、まるで空中に浮かぶ島の一部であるかのように宙に浮かんでいた。そして、同じようなマンションがいくつも周囲に点在している。まるで空に無数のブロックが配置されたかのように、大小様々なマンション群が異様なバランスで立ち並んでいる。


 彼女の足元には硬い大地ではなく、柔らかく揺れる空島の表面が広がっている。足音がかすかに響く不安定な地面は、まるでいつ崩れてもおかしくないような感覚を覚えさせる。周囲には、他のマンション群が浮かぶ無数の島々が見え、赤、青、黄が混ざり合った空がすべてを包み込んでいた。


 それらの島々は、長くねじれた橋でゆるく繋がっており、どの島も独自の形状をしている。近くに見える島もあれば、遠くの霧に覆われた島もあり、その先に何があるのかは定かではない。


 風は吹かず、音すらもないこの空間は、異様な静けさが支配している。それでも少女は特に驚きもなく、淡々と歩みを進めた。ここは彼女にとって日常の一部であり、異常でありながらも彼女にはすでに「いつもの景色」だった。


 空島の端に立ち、遠くに続く橋を一瞥する。彼女の目には、この異様な世界も特別なものとして映ることはない。空が不気味な色で渦を巻いていようが、島が不安定に浮いていようが、彼女にとってはすでに「いつもの景色」だった。


 少女は、無言のまま橋を渡り始める。その先に待つものは、一体何なのか——彼女の足は、迷うことなくある島へと進んでいく。


 橋を渡るごとに、周囲の景色が変わり始める。橋の下には色とりどりの霧が漂い、まるで地面が見えないかのように幻想的な光景が広がっている。霧の中で光が乱反射し、地面も空も境界があいまいになっている。橋の上を歩く少女の足元には、浮遊する細かい光点がちらちらと舞い上がる。


 橋が徐々に本社の島へと近づくにつれ、その巨大な建物がますます壮大に、威圧的に見えてきた。建物は空中に浮かび、複数の層が不規則に重なり合っている。外壁は流動的なデザインで、まるで風に吹かれて変化するかのように見える。空は不気味な色で渦を巻き、そこに浮かぶ島々も不安定に揺れている。


 本社の入り口には、『株式会社 季節ゴロシ』と書かれた大きな看板が掲げられている。


 少女は迷うことなく、その本社の入り口をくぐり、建物の中へと入っていく。扉がゆっくりと開くと、内部は広々としており、人工的な明かりと冷たい空気が彼女を迎え入れる。内部の装飾も奇妙で、様々な色や形が組み合わさっている。天井には無数の光点が浮かび、建物全体が静かに波打つような感覚を与えている。


 フロントには何人かの受付係が忙しそうに働いている。少女はそのうちの一人に社員証を見せる。受付係は少女を見て少し驚いた表情を浮かべた。


「あら、董香とうかちゃん。珍しく早い出社ね」


 受付係に董香と呼ばれた少女は、にこやかに笑顔を見せる。


「どっかの誰かさんの部隊が、夏獣かじゅうの討伐に失敗しちゃったらしくて招集されたの」


「また、第五部隊が! それで第七部隊が尻拭いすることになっちゃったのね……」


 受付係は董香に同情するような目を向ける。彼女の言葉には、疲労と共感が込められており、現場の厳しさをうかがわせる。少女、董香はその言葉に微笑みながらも、どこか冷静で落ち着いた表情を崩さずに返答する。


「うん、まぁ、仕方ないよね。仕事だし」


 その言葉に、受付係はさらに深いため息をつきながら頷く。少女はそのままフロントを通り過ぎ、広大な本社内部へと足を進める。


 エレベーターに乗り込み、17階の司令室へと向かう。エレベーターの扉が開くと、近未来的な機械が整然と並ぶ広大な空間が広がっている。正面のモニターには、この異次元空間の全域を示す地図が映し出され、いくつかの地点が点滅している。その点滅は緊急を告げるような不穏な信号だ。


 司令室には数十人の社員が忙しそうに働いており、その中で一人、目立った制服を着た男が正面のモニターに視線を注いでいた。彼の姿は周囲の喧騒とは対照的に、厳粛で威圧感を漂わせている。しかし、格好や雰囲気とは対照的に、男の表情は穏やかであった。


 董香はその男に敬礼をし、しっかりとした声で声をかける。


「司令官、第七部隊隊長の董香です。指示を仰ぎに参りました」


 男は軽く頷きながら、険しい顔で答える。


「待っていたよ、董香。また第五部隊がやらかしてくれた。しかも、かなり深刻なミスだ。状況は一刻を争う」


 董香はその言葉に嫌な予感を抱く。これは単なる夏獣の討伐失敗といった軽微な問題ではない。直感的に、これは予想以上の重大な事態が発生したのだと感じ取る。


「はぁ……一体、あのバカは何をやらかしたのですか?」


 司令官は深刻な面持ちで応じる。


「うん、実にやばい事態だ。どうやら、夏獣の一匹が現世に逃げ込んだらしい」


「はぁ!?」


 董香は思わず声を荒げてしまう。その驚愕の事実に、董香の心は一気に動揺する。


「そうだ、実にまずい。現世にそのような存在が放たれれば、多大な被害が予想される。下手をすると、世界はより大混乱に陥るだろう。地球温暖化どころの話ではない、地球の沸騰化現象が現実となるかもしれない」


 司令官の言葉が重く響く。董香の心に不安と焦燥が募る。今までの任務とは比べ物にならないほどの重大な問題が、目の前に立ちはだかっていた。


「ただでさえ、最近の夏獣の勢力は増しているというのに……なんでこんな面倒な仕事を増やすかなあ……」


 董香は頭を抱え、肩を落とす。その表情には深い疲労と苛立ちが浮かび、心の中でため息が漏れるのを感じた。自分の力だけではどうにもならない現実が、現実味を帯びて迫ってきていた。


 司令官の男は優しく微笑みながら、董香の頭をぽんぽんと軽く撫でる。その手の温かさに、少しだけ安堵の気持ちが広がる。


「董香、そんなに愚痴を言わないで。綾人あやとも必死に頑張っているんだ。どうか、手伝ってやってくれないか?」


「わかりました……その代わり、ボーナスは弾んでもらいますよ?」


 董香は決意を固めながらも、ちょっとした冗談を交えてみる。自分が引き受けるべき責任の重さに、微かに意気込みを感じつつも、多少の気晴らしを求めていた。


「もちろんだとも。それに、久しぶりの現世だろう? ご両親にも会ってきなさい」


「はい、ありがとうございます」


 司令官の言葉に、董香は感謝の気持ちを込めて頷く。彼の配慮に少しだけ気持ちが軽くなり、任務に向かう決意が新たに固まる。董香は、任務を果たすために準備を整えながら、心の中で覚悟を決めていった。



 ♢♢♢



『今日のトップニュースです。』


 リビングで一人の青年が、ぼんやりとテレビ画面を眺めていた。そこには、毎日のように報じられる猛暑のニュースが映し出され、日本の最高気温が再び更新されたことが取り上げられている。キャスターが深刻そうな表情で、その影響を詳細に語っているが、青年の表情には疲労と苛立ちが浮かんでいた。


「また暑いのか……もう部活行きたくねぇな」


 青年の口からこぼれたぼやきは、誰に向けられたものでもなかった。時刻は午前8時。高校は夏休みだというのに、彼はこれから空手部の朝練に行かなくてはならない。窓の外から流れ込む熱気が、その気持ちをさらに重たくする。


 重いため息をつきながら、青年は渋々立ち上がり、2階の自室へと戻った。部屋の隅に置かれた道着を見つめ、しばらくそのまま動かずに立っていたが、やがて観念したように道着をバッグに詰め込む。


「嫌だけど、行くか」


 冷えた飲み物やタオルもバッグに突っ込み、準備が整うと玄関のドアを開ける。しかし、その瞬間、まるでサウナの扉を開いたかのように、灼熱の空気が体を包み込んだ。


「クソ暑いな……」


 思わず吐き捨てた言葉に、誰も反応する者はいない。舗装された道路は太陽の熱でゆらゆらと揺れ、目に入るものすべてが遠く歪んで見える。青年は肩に背負った重たいバッグを調整し、自転車にまたがってペダルを踏み込んだ。


 道は人影が少なく、蝉の声だけがやけに大きく響いていた。学校へ向かういつもの道も、今日は特に長く感じる。息苦しい熱気がまとわりつき、頭の中までぼんやりしてくる。汗が額をつたって、青年は何度もハンドルから片手を離し、腕で雑に拭った。


「こんな日に練習とか、誰だよ計画したやつ……」


 やがて、青年は通学路の先に、妙なものを見つけた。道路の真ん中に、何かが転がっている。それは……イルカのように見えるが、明らかに普通のイルカではない。


「……なんだよこれ、イルカ……じゃねぇよな」


 青年は自転車を止め、怪訝そうな顔でその生物に近づいた。近くには海もないし、そもそもイルカがこんな場所にいるはずがない。だが、横たわっているその生物は、確かにイルカのような形をしている。だが、よく見ると、左右に8つの目がついており、口には鋭い牙が並んでいる。その姿に、青年は思わず息を飲んだ。


「……なんだこれ、なんでこんなものが……」


 傷だらけの体を横たえるその生物は、かすかに息をしている。どこか苦しそうな様子で、体中に傷があり、動ける様子はない。しかし、その不気味な8つの目のいくつかが、青年をじっと見つめているように感じられた。


 青年は言葉を失い、その場に立ち尽くしたまま、目の前の異形を凝視していた。

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