はだかの少年 2
『七族の都』『緩衝地帯』『文化の混沌』……さまざまな形容で呼ばれるこの都市の名は、ドラグニール。
周囲六ヶ国のほぼ中央、交通の要衝に位置し、どの国にも属さない自由都市だ。
『七族の都』の名の通り、
必然的に、文化の摩擦によるトラブルが多発することになる。
そのようなトラブルを和解に導き、種族間の相互理解を深めるために日々奔走しているのが、スペクタクル・ジューンら異種間調停士なのである。
屋敷の外へ出て扉が閉まるやいなや、黄丹が、ずっと止めていた息を吐き出すような勢いで口を開いた。
「いくらアルファだからって握手のとき立ち上がりもしないのは非礼ではないですか? 先生に対して!」
「人狼は耳がいいのだぞ」
黄丹を黙らせておいて、ジューンは歩き出した。
人狼の屋敷は、敷地の中央にある中庭に向かっては開放的なつくりになっているが、外から見れば一面の壁である。出入り口のほかには、上階に小窓がいくつかあるくらいで、ほとんど中をうかがうことはできない。
人狼街は狭い道をはさんだ両側がそんな屋敷なのだ。このあたりを歩くと、切り通しの迷路をさまよっているような感覚に陥る。両方の壁が高いため、昼でも薄暗い。
ときおり通る者は人狼ばかりだ。人族の少女と単眼人の女性の二人連れ、のように見えるジューンらはここでは明らかに異分子で、じろじろと視線を浴びせられた。
人狼街を抜けるといっぺんに視界が広がる。
黄丹はここまで来ればもう大丈夫と口を開いた。
「いくらアルファだからって握手のとき立ち上がりもしないのは非礼ではないですか? 先生に対して!」
「一言一句くりかえさずともいいだろうに」
ジューンは苦笑したが、黄丹はごく真剣な顔だった。
「それだけでなく、彼は先生に嘘をついたでしょう」
「ほう、そう思うか」
「ひとを殴ったくらいで謹慎二ヶ月はありえないと思います」
ジューンはうなずく。
「そうだな、嘘だろう」
「なんでそんな意味のないことをするのか理解しかねますが……いやがらせでしょうか」
「きっとD・D氏は事態を長引かせてうやむやにできればよいと思っているのだ」
黄丹は言っている意味がわからないといった怪訝そうな顔になった。
「なんで長引くとうやむやになるんですか?」
「単眼人のキミには想像しづらいことだろうがね。人狼は個人レベルでの小さなもめごとは一ヶ月でだいたいなくなってしまうのだ。ムーンダンス。あれで発散されてしまうのだな」
満月の夜に狼に変身し、群の総出で野を駆け、野生を解放して夜を明かすことを人狼のムーンダンスと呼ぶ。
群や国の単位ではそうもいかないがね、とジューンはつけくわえた。
「理解しがたいですね」
単眼人のもめごとは事実と道理をもとにするため、どれだけ小さな問題でも、きっちり決着をつけないかぎり何年たってもなくなることはない。
「人狼ならば一ヶ月でいいところを二ヶ月にしたのは、単眼人はしつこいという評判があるからだろう。何ヶ月にしようが意味がないとまでは理解していなかったようだが」
「パックのアルファともあろう者がそんな姑息な手を……」
黄丹の声が低い。まだD・Dに対して怒りが残っているらしい。
「それがわかっているのに抗議しなかったのはなぜですか?」
「抗議する資格があるのはボクらではない。当事者の藍鉄氏だろう」
法に触れているわけでもないし、下手に指摘してへそを曲げられたら話がこじれる。当事者の心情に配慮しながら話を進めることが調停士には求められるのだ。
黄丹は不満顔だ。道理に合わないやり口にも譲歩しなければいけないというのが気に入らないのだろう。
とつぜん春風が来た。周囲の物音が一瞬聞こえなくなるほど強く、通りを吹きぬけていった。身につけている物を風にさらわれそうになったいくつかの短い悲鳴が通行人のあいだから起こる。
ふたりの髪の毛が、その風にもてあそばれて乱れてしまった。
黄丹は櫛をとりだして、自分より先にジューンの髪の毛を整えながら、
「法官や警察みたいに、調停士にも相手に言うことを聞かせるための法的な権力が必要では? そうすればもっと合理的に問題が解決するのに」
「そうなったらボクは調停士をやめるだろう。肩書なしの相談員にでもなるかな」
ジューンはしれっと言った。
「えっ? ど……どうしてですか!?」
「黄丹、ボクの理想はわかるね」
「それは、七族共栄ですよね」
「そのために必要なのは?」
「いつもおっしゃっています。各種族の相互理解です」
ジューンはうなずいた。
「当事者の主体的な話し合い、言葉によるコミュニケーションこそがそれに至る道なのだ。そのためには、あいだにいる者が強い力を持ってはいけない」
黄丹に聞かせるのと同時に自分をいましめているような口調であった。
「理想はそうかもしれませんけど……」
と黄丹は言った。
「現実的に二ヶ月はまずいです」
危機感の感じられる声であった。
「なぜかね?」
「だって、案件が終わらなかったら報酬が入ってこないじゃないですか!」
「あ……」
ジューンは、黄丹に言われてはじめて気づいた顔になった。
黄丹は咳払いして、あらためて確認するように聞く。
「――先生、現在うちの事務所が手がけているほかの案件は?」
「ない」
「ということは収入のあては?」
「ない」
「ほら! 大変じゃないですか! たくわえだってほとんどありませんよね。ほうぼうの支払いはどうするおつもりですか」
ジューンは困り顔になった。金の計算はあまり得意ではない。
「ま、まあ、次の依頼が来るかもしれないし、来なくてもキミへの給金はきちんと払うよ」
「どうやってですか?」
「何も食べなければそのぶんのお金が浮くだろう」
「無茶を言わないでください。たしかにお給金は大事ですが、先生のお体はもっと大事です! 病気にでもなったらどうするおつもりです!」
「ならないと思うがな」
と、香ばしい匂いがジューンの鼻をくすぐった。立ち止まる。巻きワッフル屋台の前だった。薄く焼いたワッフルを円錐に巻いて、中にいろいろな具を入れた食べ物だ。
ジューンの腹が鳴った。口の中に唾液が分泌される。ジューンは屋台のほうへふらふらと引き寄せられていく。
「おう、うちの店のワッフルは安くてうまい! 種類も豊富だ! そこのお嬢さん、財布のひもをゆるめていきなよ!」
店主が二人に声をかけてきた。ジューンと同じくらい若い子供に見える。が、ジューンもこの店主も成人しているのだ。
子供にしか見えない店主は妖精である。妖精は、幼いころは人族と変わらず成長するが、十代くらいで体の変化が止まり、それ以降は若いまま不老なのだ。
ジューンの年齢は……秘密だが、黄丹よりは上なのである。この店主にしても、実は老人ということもありえるのだ。
「ボクはハチミツがけを。キミは何がいい? おごろう」
「わたしたちはお金がないという話をしていたはずですよね?」
「食べなければだめだという話だっただろう」
そう言われれば黄丹に返す言葉はない。それでもジューンのおごりは固辞して、各自支払いということになった。
黄丹が選んだ具はキュウリ、にんじん、タマネギの三種のピクルスだった。単眼人らしく野菜ばかりだ。
「まいど! そら、うまいぞ」
受けとって、二人は巻きワッフルを食べる。
ハチミツが垂れそうになるたび、顔と手の角度を変えながらジューンはワッフルを食べていく。ちょっと食べづらいが甘くておいしい。
その脇でポリポリと音をさせてピクルスワッフルを食べている黄丹。
食べ終わると、指についたハチミツを舐めながら、ジューンは食べているうちに少しずれた眼鏡を手のひらで押し上げる。
「先生、少し顔を上げてください」
ハンカチを手に黄丹が言った。
「うん」
ジューンが言われたとおりにすると、黄丹はかがみこんでジューンの頬についたはちみつを丁寧にぬぐった。
黙っておとなしくしているジューンを見るとまるきり子供みたいだ。
黄丹と別れて帰路に着いた。
ジューンが住んでいるのは多種族雑居のスケイル地区である。自宅、兼、調停士事務所があるのだ。
この地区の住民たちが財布に入れているお金の平均額は、きっとほかの地区と比べてもかなり控えめだろう。そもそも財布を持っていない人も含めればもっと下がる。
それで推測できるとおり、このあたりはあまり治安がいいとはいえない。一見それなりの秩序が一帯をおおっているものの、端のほうからそのおおいがはがれやすい。
だがジューンはこの地区が好きだった。走っていく子供たちの一団を見よ。人族、樹精、単眼人……さまざまな種族の子供がわだかまりなくいっしょに遊んでいる。なんとすばらしい光景ではないか。
自宅に近づくころにはすでに日は落ちて、西の空に余光がほの白く残るばかり。道のすみや家のかげに宵闇がわだかまりはじめている。
路地に入ると人影が絶えた。街灯などというものは大通りくらいにしかないので、すでにこのあたりは夜の領域だ。
自宅はすぐそこである。
ジューンは足を止めた。
妙な物音が聞こえてきたからだ。人が泣いているような、そんな音。
出どころをさがして、自宅の玄関ポーチの階段に人影を発見した。誰かがそこに座っている。
はじめは鮫人かと思った。だが、いくら鮫人でもパンツくらいは穿くだろう……すくなくとも地上では。
その人影は――全裸だった。
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