這い寄る混沌の不確実性

@asdddd

第1話

その男は浅黒い肌をした、研究者には珍しい、明朗快活な好青年だった。


誰とでも分け隔てなく付き合い、話しかけられればいつの間にか心をひらいてしまう。


そんな爽やかな空気をまとった青年だった。


ここ――マホロバ社設立のPSI研究所――における成績も優秀で、いくつかのプロジェクトは彼に委任されていた。


私はといえば、齢六十にもなろうかという白髪の研究者で、この道一本で生きてきた。この褐色の青年を副リーダーに迎え、この研究施設の中核プロジェクトを推し進めてきた。


量子力学の不確定性原理における観測者問題。その原因となる、脳のメカニズムが解明されつつあった。


脳の中の意識が指向性を向けた時、世界は不確定から確定へ相転移する。


生命には、確かに、混沌たる宇宙の姿を秩序立てる力があったのだ。


オカルトの分野と断じられてきた超能力開発もこれにより活発となった。この研究施設もそのためのものだ。


研究もいよいよ佳境。数人の超能力者を生み出し、世間に公表しようと、そういう流れだった時だ。


「宇宙の中心には、白痴の王が座する。この宇宙は白痴の王が見る夢に過ぎず、また、あなたたちの研究結果が示すように、原初の宇宙、本来の宇宙は混沌としているのが真だ。あらゆる可能性が同時に存在し、何事をも確定させられない。ゆえに無限の可能性が同居している混沌。それが宇宙だったのだ。生命が現れ、その瞳を天へ向けるまでは」


今、私は、くだんの褐色青年と向かい合って座っている。


お互いにソファに座し、間にコーヒーなど置かれてこそいるが、コーヒーはすでに冷めきって、二人の間の空気も冷めきっている。


私は沈黙し彼は喋り続ける。


「マホロバ社は、もとは白痴の王アザトースを信奉していた。今もしているが、愚直に信仰対象へ直接会いに行こうなどとしている。それがマホロバ社が超能力開発に熱を上げる理由だよ」


男は冷めきったコーヒーをすすった。まずそうに顔をしかめる。


「つまり…なにがいいたい?」


私がかろうじて問うと、青年はにこやかに言った。


「手を引け」


それはつまり、私の権限でもって、マホロバ社にここまでのプロジェクトの失敗をでっちあげろということだ。


私はこの道に愚直に生きてきた。研究者として真摯にありたい。


「それは脅迫のつもりか? 副リーダーの君に何が出来る」


「警告と、忠告だよ。単なる」


男は更に続ける。


「神とは生命ではない。死すること生きること叶わず、つまり生きても死んでもいないのだ。その有り様は現象に近く、宇宙と同様、混沌が本質だ。無限の可能性を持つが、ただひとところに確定することができない。人によって観測されてしまえば、我々神は、定義を与えられてしまうのだよ」


「我々…? 君は、なんなのだ?」


「ニャルラトホテプ。ナイアルラトホテップ。這い寄る混沌。なんとでも呼んでもらって構わない。神は不確実性の存在。私もその例に漏れない」


私の全身は、実を言えば、この男と二人きりになったときから震えていた。


コーヒーを飲まないのはそのためでもあった。


「私はきっと、神と生命の間に位置する存在だろうか。だからこうして君に語りかけることもできる。無数の神々を生命が観測した時、あるいは無数の神々が生命とのコンタクトを望んだ時、彼らの集合無意識から具現されたのが私だ。本質は混沌だが若干の秩序も帯びてはいるが、本物の神と言えるか怪しいところもあってね」


男は私のコーヒーまで口につける。


「なぜなら、私の思考、意思、それらは全て、無数の神々が無意識に思ったことであったり、生命が神に対して捧げた祈りであったりするのだ。自分の意思が自分の意思でない感覚というのは、笑えるぞ」


何も笑えず、私は男の醸し出す空気感に震えるのみだった。


「夢を見るというのは神ならざるものの特権でありながらかの白痴の王は神にして夢を見ているのだ」


彼は、言う。真剣味の増した声で。


「人が彼を観測してしまえば、全て混沌は秩序立ったものとなるだろう。その時世界がどうなるかに興味はない。私がそれに対してどう思うかも、結局は私でない神の思考なので、私がそれに対してどうこう思うことは虚しいことだ」


そう言いながら、ただ一言、彼はこう言った。


次の瞬間には彼は消え去っていた。


「どうか、そっとしておいてはくれないか」


その言葉は果たして、這い寄る混沌の数少ない本音に聞こえたが、あるいはいつものごとく、彼の主人の考えを彼が自分のものと思い込んでいるだけに過ぎないかもしれない。あるいはまた、そう感じさせるため計算して放たれたものかもしれないし、別の混沌が感じている感情をやはりこいつは自分のものと錯誤して発しているのかもしれない。


真偽は、相手が混沌であるがゆえに定まらない。


だが、それでも、感じてしまったのだ。


この強大なる混沌に対する、定まることならない、という在り方への、同情を。


それでもなお、この宇宙から可能性が消え全てが確定することを避けんと欲する、彼自身の魂を。

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