汚泥のぬくもりは
部活に行けなくなった。
そのうち、学校にも行けなくなった。
心配した母が医者に連れていって、「軽度の鬱」と診断された。
原因は分かってる。
毎朝起きて、布団の中でぼんやりと天井を眺めるの繰り返し。夕方ぐらいでやっと起きる気になって、リビングに顔を出すと、作られてから何時間も経った朝ご飯がラップに包まれている。それをもそもそ食べて、なんとなくテレビを付けて、それで少し経ったら母が帰ってきて、今日も学校に行けなかったね、とか無理しないで、ちょっとずつ治していこうね、とか話して夕食を摂る。大した量も食べ切れないから、小学校1年生が使うような小さな食器に、小さく盛られたサラダやスープを食べて、薬を飲んで、それでまた眠る。
その繰り返し。何度も何度も同じ日を過ごす。
ずっと倦怠感に付きまとわれていた。
脳をかじられているような気分だった。
布団の中が世界で1番優しかった。
きっと、堕落している。
◇◆◇
その日は何故か、早く起きることができた。朝日がちょうど登るところで、あんまりに綺麗だったから外に出て見てみたい、と思った。
何日ぶりか、はたまた何週間ぶりか。
外はもう、すっかり冬だった。乾燥した空気の中、朝日だけが暖かかった。呼吸するたびに喉の奥がツン、と痛くて、すぐに体も冷えてしまった。
久しぶりに走ってみたくなった。もっと近くで朝日を見たいと思った。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
走った道に、吐いた息が残る。白くて薄い息。それもすぐに消えて、また私を追いかけるように現れて、繰り返す。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
体温が上がってきて、鼻水が出てきた。それをずっ、とすすって、また走る。少し濡れているらしい道路に太陽が反射して、眩しかった。
「はっ、はっ、はぁっ、はぁっ」
熱い、熱い、熱い。指先が、肺が、身体が熱い。頬に当たる風がピリピリと痛む。
「はぁっ、はぁっ、う、は、っ、あは、ははっ」
笑いが込み上げてくる。あまりに苦しくて、痛くて、熱くて、寒くて。わけが分からない。足を止めて、それで少しずつ、よろよろ歩きながら笑う。
「あは、ははは、はっ、はは、あはははは!」
朝日はもう、その姿をしっかり現していた。絶対的な美しさとともに、人々の日常を照らし出す。
「あはははは、あはっ、ははは、あはは!」
すべてを塗りつぶす太陽は眩しくて、遠くて、絶対に追いつけない。分かりきったことだ、太陽は誰にも追いつけない。
触れることすら叶わないし、触れようとすれば灼けて死んでしまうから。
「あはははははははは、あはははははははは!」
分かりきったことだったんだ。
「あははは、あはっ、……ぅ、ううう」
分かりきったことなのに。
「うううう、ァ、ウウ」
私は、一生藍染糸に勝てない。努力でどうにかすれば、なんて甘い希望を持って、中途半端に彼女に近付こうとして、それで灼かれてしまった。
私を殺す彼女は、この世とは思えないほど美しかった。誰の目から見ても明らかなヒーローだった。すべてが完成されていて、私の理想の姿をしていた。
藍染糸に憧れて、藍染糸になろうと、藍染糸に勝とうとした。
私なら勝てるんじゃないかと思っていた。どこかの少年漫画のように、努力したら報われると思っていた。
幼稚な幻想。
吐き気がする。
あの日、藍染糸は私を殺した。殺してくれた。今後一生、テニスを続けるのであれば、常に絶望し続けなければならない壁として。私に身の程を教えてくれた。あの日確かに、『介錯』をしてくれたのだ。あれは確かに、藍染糸の優しさだった。
諦めが悪かった。私の、都合の良い脳が。ありもしない夢を作って、ふけらせて、まんまとそれに騙されて。さっさと諦めて、「好き」という気持ちだけでテニスをすれば良かったのに、「勝たなきゃ」と、自分の首を絞めるような真似を。そんなことしたって、何も楽しくないのに。
光に目が眩んだ。分からなくなっていた。潰された目で見る世界が、あまりに心地よかった。このまま死んでしまえたら、と何度も思った。
「ウウウウ。っふ、うあ、あああああ」
間違いなく、私は死にぞこないだ。
迷子のように声を上げる。道端にうずくまって、声を上げて、涙も鼻水も流して。目に染みる光は眩しくて、明くて、そして憎らしい。何もかも灼いてしまう光が羨ましくて妬ましくて、自分も、と手を出してしまった。身の程を知らなかった。
私は一生藍染糸に勝てないんだ。私は一生、藍染糸がいる限りテニスで1番になれないんだ。1番を目指すなら、また彼女に殺されなくちゃならない。
そんなの、もう嫌だ。
テニスが好きだった。「やりたい!」と心から思えた。いろんな戦い方を知るのが楽しかった。自分の成長が目に見えて分かって、すごく嬉しかった。
応援の声が好きだった。試合前の緊張感が好きだった。グリップを巻き替えるのが好きだった。ボールの打球音が好きだった。新品の練習着の匂いが好きだった。履き潰したシューズの紐を結ぶのが好きだった。
私はテニスが好きだった。
「ああああ、っあ、ああああ…………」
忘れていた。
私は、勝つことよりもテニスをすることが好きだったんだ。
もう1回、好きになりたい。
そのために、また――――――。
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