陰陽師トドオカの蒐集ノート

武井稲介

幻想怨霊・人魚

「立派なお宅ですなぁ。さぞお高かったんじゃないですか?」

 その陰陽師は家の中を見回しながら、出されたお茶に手をつけることもなく、持参した袋に手を突っ込んでスナックのようなものを食べている。静かなリビングにサクッサクッと小さな音が響く。

 リビングに、平安装束の陰陽師、そしてスナック菓子。現実味のない、奇妙な取り合わせだった。

 特に平安装束は、いくら北海道とはいえこの夏に暑くはないのかと思う。頭部と指先くらいしか肌の露出がない。

「戸建てとはいえ北海道の郊外ですからね。東京に比べたら、手が届く金額でしたよ。リフォーム費用を含めても。なにしろ、子供は自然の多い環境で育てたいですから」

 妻は緊張を滲ませた様子で言った。僕はその様子を見て、

「むしろ、北海道まで来て頂いて申し訳ないです、トドオカさん。大変だったでしょう」

 と言い添えた。

「ご足労をおかけしています」

 と妻も頭を下げる。

「旅行はどちらかというと好きですからね。北海道は食事も美味しい。帰りには、家族に海の幸を買っていくつもりです」

 この人に家族がいるのか……。もちろん、見た目から受けるトドオカ氏の年齢からするといても不思議はないのだが、家族団欒の姿は想像しづらい。

「その……トドオカさん。早速、話を聞いて頂きたいんです。僕たち、本当に追い詰められているんですよ」

「最初に、確認して頂きたいことがあります」

 緊張のあまり早口になる僕とき対照的に、落ち着いた様子でトドオカ氏は切り出した。

「私、どうしても一度関わった仕事は最後までやり通さないと気が済まないタチでしてね……。途中でやっぱりやめたい、なんてことは通らない。それを改めて認識して頂きたい」

 トドオカ氏の言葉に、隣に座った妻がぎゅっと手を握りしめるのがわかった。

 僕たちだって、こんな得体の知れない相手に仕事を頼むことはしたくはない。それでも、今すがれる相手は他にいない。

「ほら……あなた方も、そういう経験ってあるでしょう。人生には差し支えないけれど、どうしようもなく気になるものって。そうですね。例えば……そうですね。食堂で出された食事に虫が入っていたとして、食べてしまっても問題はない。でも、気になるでしょう?」

 いや……。それはどうだろう?

 食事に虫が入っているのを気持ちの問題みたいに言われると、それは違うと思う。

 本当のこの男に頼んでもいいのでだろうか?

 その時、男が食べているものがスナックではないことに気付いた。

 さくりと軽快な音を立てて囓っているのは、虫だ。何かの幼虫であろう、クリーム色の芋虫を菓子のように口に運んでいる。

 やはり、この男、どうかしている……。

 僕の背筋に、どうしようもなく不快な悪寒が駆け抜けた。この奇妙な陰陽師に仕事を頼むのは、今からでもとりやめたほうがいいのではないか。北海道の郊外まで足を運んで貰ったのに、今からキャンセルするというのは失礼な話だが、それでも事態が悪化するよりはいい。

「もちろんです。息子のことは、私が守らなければならないんです」

 だが、妻が先に応じていた。

「わかりました。奥様。このトドオカが責任を持って家に取り憑く霊を払いましょう」

 つい今まで疑っていたのに現金なもので、トドオカ氏が自信に満ちた様子でそう請け負うと僕はほっと胸を撫で下ろした。

 これで、家族を苦しめる悪霊を退治することができる。

「そのう……トドオカさん。やはり、この家には悪いものが憑いているんでしょうか?」

 妻が、不安そうに言った。

「前の持ち主に不幸があったとか、そういう風な話があるのでしょうか」

「それなんですが……先生に調べて貰いました」

「先生?」

 首を傾げると、トドオカさんはああ、と応じて

「いえ、先生というのは私が勝手に読んでいるだけで無職の友人なんですが、事情通でしてね。調べて貰いましたよ、このお宅に、あるいは土地に曰くがあるのかどうか」

「あるんですか!」

「いえ……それが、何もないんですよ。前の持ち主から、明治時代の開拓まで調べ上げましたが何も事故や事件はありません」

「良かった……」

 妻は胸元に手を当てて嘆息する。

「良かったですか?」

 トドオカさんはにこりと笑みを浮かべた。

「土地や建物に曰くがないということは、あなたがた家族に原因がある可能性がでてきますが」

 絶句する僕たちを見ながら、トドオカさんは綱のように太いミミズを捕りだして、ちゅるるっと音を立ててすすり上げた。

「ははは。意地悪を言いましたね。そんなに緊張することはありませんよ。原因があると言っても、落ち度があるとは限りません。霊とはそういうものですから」

 僕たちが何も答えないのを見て、トドオカさんはふんと息を吐き出して、

「一番被害が激しいのは、息子さんの部屋でしたね」

「はい。最初に霊を見たのも息子で、被害を受けるのも息子です」

「そのう……息子が何か祟られるようなことをしたんでしょうか?」

「そうとは限りませんよ、奥様。言った通り、悪霊が発生しやすい土地ではないのです。何かのかみ合わせがたまたま悪かった可能性もある」

 そういうものなのだろうか。そんな、たまたま運が悪いだけで、悪霊が発生するなんてことがあるのだろうか……。

「霊が出る部屋に案内しますね」

 妻が立ち上がったのに連れだって、僕もトドオカ氏を案内する。

「一番激しいのは、息子の部屋なんです」

「なるほど。これは被害が激しい。物理的に作用するタイプの霊ですか」

 階段を上るにつれて、霊がつけた傷跡があからさまになる。何か、獣の爪でひっかいたような傷が階段、壁、天井とところ構わず走っている。

 トドオカ氏は階段を上りながら、ノートを取りだしてメモを取り出した。衣装にそぐわない、現代的な大学ノートだ。

「二階に近づくにつれて被害が出るのですね。家の外で霊的現象が出ることは?」

「はい……何度かは。いずれもこの家に越してきてからで……一番激しいのは交通事故で、それ以外は息子が怪我をしたことが何度も」

 妻は、僕たちの寝室にある仏壇にちらっと視線をやった。

「なるほど。よくわかりました、奥さん」

「そちらが、息子の部屋です」

 部屋に足を進めたトドオカ氏は、眉をひそめた。

 部屋の中は、ぐちゃぐちゃなのだ。ぐちゃぐちゃというのは、単に散らかっているという意味ではない。およそ人の手で行われたとは思えない。部屋の中、その物という物がかき回されている。まるで、猛獣が暴れていった後のようですらある。

 信心深いとは言えない我々夫婦が陰陽師にすがるのもこういうわけだ。

「なるほど……こういうタイプですか」

 部屋の中央には、小学二年生になる息子がいる。

 息子も部屋と同じように傷だらけで、全身の各所に包帯を巻かれている。

「ショウちゃん、こちらのおじさんにお話聞かせてあげてくれる?」

 妻が息子にそう話しかけたが、すっかり無口になった息子はイヤイヤをするように頭を振って俯いた。

「そんな様子じゃ、何もわからないじゃないか。話してあげなさい」

「これ……肉食獣の噛み跡ですね」

 無言で息子に近づいていたトドオカ氏が、息子の傷跡を示していった。かゆみがひどいのか、息子はよく包帯を解いてしまっているのだ。

「それも、ネコ科やクマ科ではない大型の肉食動物のものだ」

「はい?」

「詳しく話を聞かせてくれるかな」

 僕の相づちには答えず、トドオカ氏は傷のついた床に膝をついて息子に目線を合わせて問いかけた。

「いったい、君は何に襲われているんだい」

 息子は、少々戸惑った様子で許しを乞うように妻に目をやり、それからおずおずと、

「おじさん、信じてくれる? 僕を襲ったのは、人魚なんだ」

「人魚……か」

 トドオカ氏は呟いて、

「珍しいですね」

「人魚が、ですか」

「人魚伝説は世界中にあります。デンマークのアンデルセンも書いたのが有名ですしね……ただ、人魚伝説は北海道にはあまり伝承していません。現在北海道にある人魚像は近年のものです」

 陰陽師なのに、妙なところに詳しい。

「このあたりは、明治時代になって開拓された土地だと聞いています。ですから、住んでいる人もみんな越してきた人ですよ」

 妻はそう言うが、そんなことと幽霊現象になんの関係があるのかもわからない。

「学校で、みんなと話したんだ。このあたりには、人魚が出るって。人魚は怖い顔をして、人間を食べるんだって」

 トドオカ氏は息子の言葉に頷いてみせてから、

「部屋を変えることは試してみましたか?」

「はい」

 妻が応じる。

「でも、息子がいる部屋に現象が起きるので……。息子の部屋を家の中で変えてみても、あまり変わりません」

「よくわかりました」

 トドオカ氏は、満足そうに頷いて再び息子に向き合った。

「ねえ、学校の授業で地域の歴史について調べたことはあったかな? もしくは、そうした資料館や博物館にいったことは」

 と息子に問いかけた。

「はい……。遠足で、その、地域の歴史を」

「どんなことが書いてあったかな」

「昔の話だよ」

 息子は、真剣な表情でトドオカ氏を見つめていた。

「昔の人が、木を切り出して、街を作った話だよ」

「オーケイ。わかりました」

 トドオカ氏はどういうわけか、疲れたような顔で息を吐き出した。

「結論から言いましょう。原因は幻想怨霊・人魚。その正体は……私の尾てい骨です」

 その言葉がキーになったかのようだった。

 部屋に暴風が吹き荒れ、砕けた窓からランドセルが飛んでいく。家がまるごと竜巻に飲み込まれたかのようだ。寝室に置いてあったはずの真新しい位牌が飛んできて壁に突き刺さった。妻が慌てて息子に走りより、抱きしめる。

 風の中心に姿を現したのは、天井につかえそうな大きさの人魚だった。ただし、シルエットは人魚でも姿は我々が知っているものとは大きく違う。上半身はつるりとした皮膚に覆われているものの顔立ちはオオカミのように鼻先が突き出して、鋭い牙が見え隠れしている。両腕は不自然なまでに大きく、鋭い爪が生えている。一方で下半身にはうろこがなく、先端近くまでぬめりとした皮膚に覆われている。

「こいつが、お子さんに取り憑いていたんですよ」

 トドオカ氏は、僕たちをかばうようにして前に出た。それを見た人魚は激しく吠えかかり、飛んだ唾の飛沫が床を濡らした。

「これは、人間によって追い立てられた野生動物の怨霊……。正確にはその幻想怨霊です。本来は、強大な力を持つほどの存在ではありませんでしたが、複数の不運が重なりましたね」

 話している間も、暴風が吹き抜けている。トドオカ氏が身につけている衣服が吹き飛んだ。それを見た僕たちは息を飲む。トドオカ氏には、本来あるべき胴体がなかった。

 それどころか、ほとんど全身がない。宙に、頭と両手だけが浮いている。それがトドオカ氏の本来の姿だった。妻は、ガクガクと震えながら息子を必死で抱き留めている。

「トドオカさん……あなたは」

「ご婦人の前でこんな恥ずかしい姿で申し訳ない」

 トドオカ氏は、これまでと変わらない口調で言った。

「人魚の説明を続けましょう。不運の一つは、幻想怨霊の種となる存在がたまたまこの土地にたどり着いたこと。もう一つは、息子さんがたぐいまれな感受性を持っていたこと……。息子さんは遠足でこの土地の歴史を学び、ショックを受けられたのでしょう。我々日本人が土地を開墾し、野生動物を追い立てて、ニホンオオカミを絶滅させてまで住む土地を拡大したことをね」

 息子が学習してしまった、北海道の歴史。それは自然との闘いであり、野生動物を相手にした生存競争。

 その過程で退けられた動物のことを、息子が気に病んでしまったのがこの怨霊の原因だというのか。

「人類の歴史においてはごく当然のことですが、ごく当然のことを小学生が受け容れられるときは限らない。きっと夢に見るほどに苦しまれたのでしょう。その結果が、この醜い幻想怨霊です」

 トドオカ氏はくくく、と笑い声を漏らした。

「よく見ると、野生動物への解像度が低い。きっと、息子さんなりに考えた、野生動物の姿なのでしょう」

「なんでもいいです! そいつを退治してください!」

 僕が叫ぶと、トドオカ氏は妻のようにくるりと頭部を回して

「では、退治しますよ」

「えっ」

「できるんですか」

 風にかき消されないように、怒鳴るようにして言う。

「はい。この怨霊は、幻想怨霊といった通り元々大した力はないし、恨みそのものではなく今になって『恨んでいたのだろうなぁ』と思っていた程度のものです。だから、姿形もいびつ。その頭部はニホンオオカミ、腕はクマ、全体の骨格はアザラシという作り物でしかない。人魚という名前の由来はアザラシですね。アザラシは足が短いので、損壊が激しいアザラシの遺体は人魚に見えるという話があります。まあ、その程度の情報が集まってできた幻想怨霊というわけです」

 何より、とトドオカ氏は続けた。

「私という本物のモンスターを既に見てしまった今、こんなものに本気で怯えることはできないでしょう?」

 トドオカ氏の手首だけの右手が動いて、人魚の鼻先を撃ち抜いた。悲鳴を上げた人魚はみるみる小さくなって、床の上でぴちぴちと跳ねる小さなアザラシの姿となった。

「これで、怪異現象は二度と起きないはずです。起きたとしても気の持ちようなので、地元の神職にでもお祓いして貰えばいいでしょう」

 トドオカ氏はアザラシをつまみあげると、

「ひっ」

 そのままバリバリとむさぼり始めた。

 ガタガタと震える僕たちに対して、

「いえ、これは好きで食べているものではなくて……」

 どこか的外れなことを言ったトドオカ氏は、

「ああ、あったあった。これを探していたんですよ」

 怨霊の亡骸から取りだしたのは、人間の尾てい骨だった。



「本当にお代はいいのですか?」

 空港まで見送りにきた僕が聞くと、トドオカ氏は頭を振った。

「元々は、私の尾てい骨が犯した不始末ですから」

「トドオカさん……あなたは……」

 トドオカ氏は少し迷っていた様子だが、あなたならいいでしょう、と一人で頷いて、

「実は、私は一度都市伝説になった身でね。肉体が四散して同じくトドオカの名を持つものが、各地でヤクザやら殺し屋やら、いろんな悪事を働いているんですよ」

 さらりと告げられた真相は、僕の想像からは大きくかけ離れたものだった。

「都市伝説になった……というのは?」

「私、これでも昔はちょっと名の知れた存在でしてね。その結果、噂が一人歩きしていろんなエピソードが生じてしまった……その結果、噂にボディを奪われてしまった」

 トドオカ氏の話は、やはり十全には理解できない。

「できれば身体を回収したいんですがね、今の一部だけの私では逆に取り込まれかねない。だから微少なパーツから回収して少しずつ力を取り戻そうとしているんですよ。今回、尾てい骨が手に入ったのは僥倖だった。やはりトドだから北海道に縁があるんですかねぇ」

 この奇妙な陰陽師の言うことは、最後までよくわからない。だが、不思議と僕はこの男に好感を持つようになっていた。

「もし、肉体が取り戻せたら、また、北海道にきてくださいよ。北海道グルメをごちそうしますから」

「ふふ。それもいいですね。ただ……あなたにおごって貰うことはできそうにないですが」

「はい?」

 トドオカ氏の瞳に爛々と燃えるような輝きがあった。

「始めたことはキッチリとやり遂げないと気が済まない……という話は、忘れてはいませんね」

「? ええ、もちろん……」

「ですから、あなたという霊も処分します」

 何を言っている?

 僕が霊なんて、そんなわけ……。

「自分が死んだことに気付いていないタイプの霊でしたか? まあこういうタイプは無害だし、子供が成長すれば勝手に霧散するからどっちでも良かったのですが……最初に約束しましたからね」

 気付いていませんでしたか?

 トドオカ氏はそう追撃した。

「奥さんも息子さんも、あなたの声に返答したことは一度もありませんでしたよ」

 そんなわけが……。

『息子のことは、私が守らなければならないんです』

『何度かは。いずれもこの家に越してきてからで……一番激しいのは交通事故で』

『寝室に置いてあったはずの真新しい位牌が飛んできて壁に突き刺さった』

 ああ……。

 私は、北海道に越してきてまもなく。

 交通事故で……。

「安心してください。あなたの死は、悪霊が絡む案件ではありません。奥様にも息子さんにも、悪い影響はないですよ。男の子が怪我をして帰ってくるのもよくあることです」

 トドオカ氏の、大きく開かれた顎が僕の視界を閉ざそうとしていた。

「待ってください! どうか、息子が卒業するまで……」

「ダメですよ」

 トドオカ氏の言葉は、氷のように冷たかった。

「私、一度始めたことは最後までやり通すタチなんです」

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