目覚め

かまつち

目覚め

 真っ暗だった。目の前は暗闇に包まれ、何も見ることができない状態だった。身体の感覚はなく、四肢の内の誰かを動かそうにも、動いているのかどうか、本当に四肢があるのかも分からなくなっていた。意識だけが闇の中にあった。


 私は、何故、このような状態になっているのか、直近の記憶を探ってみることにした。しかし、何故だか、今に至るまでの記憶がなかった。


 今日のことが何一つ思い出せなかった。それ以外のことは思い出せたのだが、今日、何があったのかということだけが、思い出せなかった。


 今いる空間、これが夢なのか、現実なのかということさえ、分からない。この、普通ならありえないはずの空間で、まるで、私は現実にいるかのように、はっきりと意識を持っていた。


 徐々に、徐々に、一つの感覚が湧き上がってきた。それは全能感だった。脳の中が、あの、ミントを口に含んだ時の、爽快感に包まれるとともに、自分の中で、今まで生きてきた中で、感じたことのないような心地良さと、自信、喜びが満ちていた。


 私の中の不安は、無理矢理、この快感に、押しのけられていった。私がつい先程まで、暗闇に対して抱えていた、不安や疑問は、まるで些細なことのように感じられて、ついには、それを無視してしまったのである。


 私は、この時、体の感覚がなく、動けるような状態ではなかったので、ただ快感を受け取るだけの者となっていた。そこには、痛みも、苦しみも、不幸もなかった。一生この瞬間が続けば良いのにと思った。


 私が、この気持ち良い感覚に、しばらく浸っていた時、ゆっくりと変化は訪れた。脳の中の爽やかな感覚、それが牙を剥き出した。脳に快感をもたらしていたそれは、今度は、不快な感覚をもたらしたのである。


 まるで脳を蝕む害虫のように、それは、私を苦しめ始めた。爽やかさと、不快感の混濁により、苦しみを明確に感じることはなかったが、自身の思考が、打ち消されていくという感覚が、次々と起こってきた。


 私は、僅かな苦しみよりも、思考の消失に恐れ、その恐怖により悶えていた。しばらくの間は、爽やかさが続いてくれたので、脳に苦痛が起こっても、この二つのものが相殺してくれていたので、何もなかったが、この爽やかさは薄れていき、苦しみが表面化されていった。


 私の中の苦しみは、私という人間の思考を、さらに引き裂いていき、私から思考する力を奪い去った。もはや、まともな思考を連続させて、紡ぐことはできず、断片的なものしか紡げなくなった。


 苦しみに悶え、自我が削られていく、この瞬間を、長い時間、感覚的には、長い時間、耐え続けてきた。消え去ることのない、苦しみ、それを受け取り続けることしかできない私の心は、どんどん消耗していき、動かすことのできない体を、強引に動かそうと試み続けていたが、それもやめてしまっていた。ただ、泣いていた。


 実際に涙を流していたかは、もう覚えてはいないが、悲しみが湧き上がり、泣いている時のような気持ちだった。


 そこには、怒りや悲しみはなかった。死への、存在の消失への苦しみに、ただ怯えていた。いつになれば、このような苦しみから解放されるのかを、考えていた。


 無意味に、ひたすら、助けて下さい、助けて下さいと、手を組んで祈るかのように、真剣に念じていた。




 次の瞬間、視界が刺激される。私の視界には、薄暗い、青が広がっていた。私は気付けば、海の中に沈んでいた。


 先程よりも、明るくなったとはいえ、やはり、周りのことは、何一つわからなかった。しかし、もう一つ変化があった。


 暗闇の中にいた時の、あの、意識だけがあるという、異質な感覚がなくなっていた。苦痛はいまだ続いていたが、少しは落ち着いていた。


 私は、この海の中から抜け出そうと、体を動かそうとした。しかし、体を動かすことができなかった。ひどく怠かったのである。熱を出した時の、あの感覚に似ていた。


 私の体は、海の底へ、底へと沈みつつあり、体を動かし、上へ行くことができない私は、焦りを感じていき、動かない体を動かそうと、必死にもがいた。


 それでも私にできたことというのは、体の一部を動かすこと、右腕を上に向けることだけだったのである。


 私の中から、抵抗の意志が消えていくのが分かった。沈みゆく感覚に、身を任せようとした。その時だった。


 私が諦めて、目を閉じようとした時、そこには鬼がいた。一つの、赤い鬼の顔が、私の左方にあった。その鬼の顔というのは、とても大きなもので、距離がそれなりにあったように思えたのだが、すぐ近くにあるかのような錯覚を覚えた。


 その表情は、恐ろしいものに感じられた。私は、鬼の存在に怯え、その場から、離れようと、それでも動かない体を、動かそうとした。私には、その鬼が、私に裁きを下そうとする、恐ろしいものに思えた。


 私は、その裁きが、とても怖く、鬼から逃げようとしていた。裁きの内容が何かは、分からなかった。それでも、今よりももっと苦しいこと、恐ろしいことだというのが、直感的に分かった。


 その強大な存在から逃げることは、不可能だと気づいていたのに、それでも逃げようとしていた。


 私がもがいている間も、鬼の顔は、こちらを見ていた。その表情は、変わることなく、険しいもので、私により深い恐怖を植え付けようとしているようだった。


 私は我慢ができず、ついに逃げることを諦め、両手を組み、額に当て、鬼の顔に向けて、許しを乞いた。


 私は、謝り続けていた。ごめんなさいと、繰り返した。何度も、何度も。ほんの少し、時間が経ち、変化が生じた。


 私は、鬼に謝り続けて、疲れて、ただ鬼の顔を見つめるだけとなった。私は、呆然と鬼の顔を見つめていた。その時、鬼の顔の左右、暗闇の奥から、二本の手が現れた。


 その手は、徐々に、こちらの方へと伸びてきた。二本の手は、水を掬うのと、同じ形を作り、こちらはやって来た。


 それらの手は、私の背中へと、当てられた。その次に、両の手は、私をゆっくりと上へ持ち上げていった。優しさを、慈愛を感じられるような動きだった。


 ゆっくり、ゆっくりと、私の体は、持ち上げられ、水面へと近づいていった。体に残る苦しみも、感じられないほど、私は、その優しさに思いを馳せていた。


 とうとう、水面が近づいてきたのか、やんわりと、光が見えてきた。水面全体に光が広がり、明るくなっていった。暖かさ、それが身に染みていった。


 やっと、やっと救われるのかと、私は安堵し、目を閉じて、意識を失った。




 目が覚めると、そこは、真夜中の暗闇に包まれた、自分の部屋であった。私は、うつ向けになって、うつむけになって、気を失っていたようだ。


 ふと、前方に伸ばされていた手の方を見てみると、そこには、たくさんの錠剤が置かれていた。私は、その時、思い出した。


 私は、この錠剤を、致死量いっぱい、飲み干して、死のうとしていたのだった。それで気を失い、先程の夢、もしくは幻覚を見ていたのかもしれない。


 胸の奥から突然込み上げてくる感覚が引き起こされ、私は、近くにあったビニル袋を持って、そこに、込み上げてくる内容物を吐き出した。


 頭痛がひどく、私は、今度は仰向けに、寝転がり、あの幻のことを思い出していた。あの怒りを、優しさを。


 あともう少しだけ、その時がやって来るまで、生きてみようと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

目覚め かまつち @Awolf

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説