過去2 ②立ち止まっても止まらない世界

 ずっと戻ることはないと決めつけていた故郷に帰ってきて、一つだけわかったことがある。

 思っていた以上に平常心を保てている。

 最初に一番心を乱すであろう場所を訪れたからかもしれない。

 あの時は止まらなかった手足の震えはもう止まっていた。


 帰ってきて二日目。

 普通に街の中を歩きながらそんなことを思う。


「ヒュー! うそ! 何してんの!」


 突然声をかけられて足を止める。

 パン屋の裏口から飛び出してきた人物が、赤ん坊を抱きあげながらも俺に寄ってきて顔を覗き込んできた。


「エセル」


 やめてくれ、という思いでその名前を口にすれば、彼女は一歩引いて、それでもまだ半信半疑な様子を崩そうとはしなかった。

 

「本物、よね? そっくりさんとかじゃなくて」

「証明はできないけど一応本物」

「あははは、一応って!」


 笑い上戸なところは昔から変わらない。

 幼い頃から知る昔馴染の一人だ。


「エセルの子か?」

「そう下の子。もうすぐ半年」


 エセルが抱いている子に視線を向けて尋ねれば、そう返答が返ってきた。

 俺がここを去ってから生まれた子か。


「父親似だな」

「やめてよ! 女の子なんだから!」


 産着がかわいい色だから性別はわかっていたが、率直な感想に物言いを付けられれば閉口するしかない。

 娘が父親似というのはそこまで嫌がられるものだったのか。


「悪い」

「本当に」

「そのドニは?」

「パン焼いてる。あ、せっかくだから買ってきなさいよ! 昔よりかなりの進歩なんだから」


 エセルの夫も幼馴染の一人だ。

 兄弟が多いそいつドニはエセルの生家に婿入りして稼業のパン屋を継ぐために修行中だったはず。


「売れるものを作れるようになったのか」

「昔から努力家なの知ってるでしょ、うちの人!」


 赤子を抱いていない方の手で背中を思いきり叩かれてしまった。



「うあ! ヒュー! え! マジ!本当に本物!?」


 ちょうど商品を陳列していた幼馴染は俺の姿を認めるとそんな叫びをあげた。

 夫婦で同じリアクションだと小さくため息を吐いてしまう。


「どれを焼いたんだ」

「お、おお、買ってくれんのか! えーと、これ! 今日はこれ! これが俺作!」


 興奮した様子のドニに、店内にいた客が少し引いているのがわかる。

 気持ちはわからなくもないから、少しは落ち着いてほしい。


「じゃあ、それを」

「あと、これも、それと、これ」


 次から次へと指をさされて、横からエセルが紙袋にそれを納めていく。

 いいコンビネーションすぎて文句を言いにくい雰囲気になっている。


「ちょっと待て、そんなに食えるか」

「あ、そうか」

「大丈夫よ、若いから」


 ドニは気づいたのか、少しだけテンションを落としたがエセルの勢いはとどまるところを知らない。

 結局両手いっぱいのパンを購入させられた。


「エセル、友人割引しねーの?」

「お金持っている人からはきっちり取り立てる!」


 ……好きにしてくれ、もう、そんな気分で正規料金を支払って店を出る。


「ヒュー、またどっか行くのかよ?」

「いや、しばらくは……どこにも」

「じゃあ、また来いよ! 今度は試食してもらうからさ!」


 歯を見せて笑うドニは昔から何も変わっていない。単純明快で気持ちがいいほど素直な奴だ。

 横で赤子を抱いたまま、笑っているエセルはすっかり商売人になってしまったな、という印象。


「また来てね! 上客は歓迎だから」

「ああ」


 もう少しだけ街をぶらつこうと思ったが、一度戻った方がよさそうだ。

 自宅へと踵を返した。

 


 * * *



 明るい時間に見る自宅は、夜に見るのと違って何だか息を吹き返したような雰囲気だった。

 外の物干しに洗濯物が干されているから余計にそう思ったのかもしれない。

 

「洗濯、物?」


 抱いた疑問をそのままに家に入った瞬間に、違和感を覚えた。

 つい一昨日帰ってきた時に感じた重々しい雰囲気が薄まっているような、そんな感じで。

 首をひねっていると、家の奥にある階段を何かが駆け下りるような物音と、こちらに向かってその物音の主が近づいてきた気配があった。


「……あ」


 息を切らせて、こちらにやってきたその人物は俺の姿を見て大きく深呼吸をしてゆっくりと頭を下げた。


「おかえりなさい」

「あ、ああ」


 セフィだ。

 どこか虚空を思わせる目はそのままだが、何だか軽快な雰囲気を纏っている。

 肩まで伸びた髪を一つ結びにして、どこからか出してきたと思われるエプロンを身に着けているその姿は少しだけ印象が違っていた。


 おかえりなさい、か。確かにここは俺の家だ。


「ただいま」


 が正解なのだろう。

 下げた頭を上げて、少しだけセフィが笑ったようにも見えた。


「ケインは?」

「出かけています。図書館にと言っていました」

「ああ」


 調べ物をすると言っていたから、それだろうと思い当たる。あの学者に頼まれたとかなんとか。


「セフィは何を?」

「お世話になっているので、せめて掃除ぐらいはと思いまして……」

「ああ」


 言われて、違和感が何なのか気づいた。

 帰ってきた時に感じたのは、締め切った家の中の淀んだ空気だった。今はそれがない。よく見れば床も天井も壁も、積もっていた埃はいつの間にかなくなっていて、磨き上げられているのがわかる。


「もしかして、洗濯も?」

「あ、……はい、勝手なことをしてごめんなさい……」

「いや、いい。却って悪かったなと思って」


 無駄に広い家だ。

 掃除も洗濯も重労働だろう。

 宿代替わりとしては過分な気がする。


「あ、これ、良かったら食べてくれ」


 手に持っている紙袋を示せば、セフィが手を伸ばした。

 持ってくれるのだろうか。

 三つあるうちの一つを渡す。


「……いい匂い……」

「昔馴染の店で買わされたんだ」


 言いながらもキッチンへと先導する。

 調理台――これも綺麗に磨かれている――の上に紙袋を載せ、セフィに持たせた一つも置くように促した。


「あ、そうだ、昨日、食事美味かった。ありがとう」

「あ、はい……、よかった、です……」


 まただ。表情に変化はないし、口調はぼんやりしているが、セフィは少し笑っているように思えた。


「昼食に、召し上がられますか?」

「あー、そうだな」


 この大量のパンを少しでも消費しなかればならないな、と。

 ケインとセフィがいるから何とかなりそうなものを、一人暮らしだったら間違いなく廃棄やむなしだったかもしれない。あの夫婦、特にエセルの方は一体何を考えているんだろうか。


「セフィもよければ」

「はい、ありがとう、ございます……」


 お礼を口にするものの、紙袋を遠巻きに見ているだけで動こうとしないセフィを見て、水道で手を洗って、パン袋を覗き込んだ。

 適当に二つ選んで手に取ると、横から皿が差し出された。セフィだ。


「どうぞ」

「ああ」


 セフィの気配は希薄で、意識していないと動いたことに気づかず驚かされてしまう。

 落ち着けと小さく息を吐いて、ありがたく皿を受け取った。

 まるで亡霊のようだ、と考えてすぐに否定する。かなり失礼な考えだ。

 横目で彼女の様子を窺えば、袋を覗いてパンをじっと見ている姿が目に映った。


 雰囲気でわかる、とケインは言っていたが、何となくそれが理解できるような気がした。

 あどけなさが残る顔立ちは無表情だが、何となく楽しそうなのはわかる。

 大量のパンを目の前にして、どれにしようかと目を輝かせている、そんな幼い少女がいた。


「ケイン様のお帰りだぞー」


 何となく微笑ましい気持ちになっていれば、突然ケインがキッチンに現れた。


「って、ヒューもいたのかよ!」

「悪かったな」

「いや、家主が居て悪いってことはないけどさ。何それ?」

「パン。昔馴染みに大量購入させられた。食ってくれ」

「貰ったんじゃなくって買わされてんのかよー」


 にやけながらもケインもセフィの横に並んで袋の中の物色をはじめる。


「へえ、すげえ数。セフィはこれ」

「勝手に決めないで」

「これ好きだろ?」

「食べたこと、ない」

「旨いやつ! 食っとけ」


 ケインの登場で一気に騒がしくなる。

 だが、不快な感じは一切しなかった。


「そっちがいい……」

「小っこい頃から言われてただろ、早い者勝ち。これは俺の」


 微笑ましいを通り越して、あまりに横暴なやりとりな気がしたが口を挟まずに二人のやりとりを眺めるだけに留めた。

 

「じゃあ食うかー」


 上機嫌でパンを皿に盛ったケインが俺の方を向いてそう言った。

 勝手に食べればいい、と口を開きかけたら、食堂の扉を指さしてケインは続けた。


「食卓は皆で囲むもの、だろ」


 ケインとセフィの両者の視線を受け止め、俺は何となく勢いに押されるように頷いていた。



 食事の恵みへの祈りを捧げて、目の前のパンを手に取った。

 見た限りでは店で売られているパンと何も変わらない。あいつは本当に腕を上げた、でいいのか。

 大昔に試作品と言って出された外側が真っ黒で、中身が生だった酷い出来のパンを思い出して少しだけ懐かしさに浸った。

 そんなドニが自信をもって店に並べるパンを作れるようになるなんて、感無量だ。

 そして、エセル。最後に会ったのは、多分葬式だったと記憶している。

 あの時、俺は正気ではなかったと自覚がある。エセルも遠巻きにしていて声をかけてくるようなことはなかった。

 あれは気遣いであり、見放した気持ちもあったのだろう。

 あの時にも、エセルは赤子を抱えていた。そして傍らに歩きはじめたばかりの小さな子どもがもう一人。

 また新しい命を抱いていた幼馴染は、変わっていないようで、先に進んでいるように思えた。

 俺が立ち止まっても、彼らは自分たちの生活を送っていく。


 取り残されたような気もしていた。

 ここ一年ぐらい、俺は後退しているのではないだろうか。


「焼きたてだから、余計に美味い」


 ケインがそんなことを言って、先ほどセフィから問答無用に奪い取ったパンを半分セフィに分け与えている。代わりにセフィの皿にある他のパンを奪い取っていたが。

 子どもかこいつは。


「美味しい」


 かみしめるように、セフィも言う。

 俺も手の中のパンに噛みつく。普通に食べられるし、ドニが作ったものだと思えば旨さもひとしおだと思った。

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