第十話 楽園の跡地で

楽園の跡地で-1

「いい景色ね」

「僕はこれから、この中を馬車で引き回されるんですよ……」


 真面目なヴィンセントが、冗談とも本気ともつかないため息をついた。

 ノインはまた、カーテンの隙間から外を覗く。


 空は晴れ渡って明るく、時おり穏やかな風が吹いている。

 戴冠式にはこれ以上なくふさわしい日だ。

 王城前の広場や、そこから続く大通りまで、人だかりがあふれんばかりだった。人々の顔には不安も見られるが、それより期待で生き生きしている。


「みんなが新しい王さまに期待できるって、いいことじゃない」


 ひと月ほど前、ヴィンセントは正式に王位についた。その戴冠式が今日で、王城での式のあと、ヴィンセントは馬車で王都を一周し、人々にお披露目される予定となっている。

 すでに衣装を整え、式の開始を待っているヴィンセントは、緊張からではない様子で緩く目を伏せた。


「今日を、僕が手放しで喜ぶのは気が引けます」


 ヴィンセントの心境は、ノインにも想像できた。


 国王の交代は、円滑にとはいかなかった。玉座を下ろされていた前王は譲位を拒否し、彼の承認を得ず事を進めたヴィンセントを、反逆者として糾弾した。ヴィンセントとともに困難を乗り切った大臣たちは取り合わなかったが、問題は貴族たちである。一部の貴族は自分たちの立場が脅かされることを恐れ、宮廷はヴィンセントに付く者、前王に付く者、静観しようとする者で、分断された。


 隣国との問題が片づき、滅びの予兆が消えたとあって、貴族たちの中には、以前のような『楽園』が戻ると期待する者が少なくなかったのだ。彼らにとっての王の交代は平穏を揺るがすものであって、抵抗は強かった。

 一理はある。問題が消えたなら、今まで通りの体制に戻っても、さしあたり支障はない。


 そんな貴族たちを、ヴィンセントは冷ややかな目で一蹴した。


『国の滅亡という危機に何ひとつ成し得なかったあなた方に、今後何ができるのですか?』


 ノインは、ヴィンセントの態度に少しだけ驚いた。彼は決して強気な性格ではなく、王妃から理不尽な言葉を浴びせられても理解を求めたように、相手に怒りをぶつけようとしない。それがこのときは、怒気を抑えようともしていなかった。


『いくら、かつて『楽園』と呼ばれようと、これから何が起こるかはわからないのです。国を守るつもりのない者に、未来を任せるわけにいきません』


 かつて無力で、それを嘆くばかりであったからこその、今のヴィンセントの思いと覚悟が滲む言葉だった。

 ノインは陰から様子を見ていて、そのときにもう、このひとが王だ、と思った。


「王位を奪い取ったことを気にするなら、新しい国を、よい国にしていくしかないわ」


 国王の座を譲らなかったヴィンセントの弟は、王権の象徴であった王冠と王笏を壊し、双方にはめ込まれていたダイヤモンドを砕いた。大粒のダイヤモンドは、もともとひとつの原石だったものを、ふたつにわけて王冠と王笏を飾っていたものだ。

 貴重な大粒の原石を、わざわざふたつにわけた傲慢さ。ふたつとも所持することで、王の絶対性を示していたという。


 それが砕け散った。


 だから今日これからヴィンセントが戴く冠は、まっさらの新しいものだ。


「そうですね。今まで、何もできなかった僕の後悔も、弟の憤りも、この国の安寧で、償っていかなければ」

「いい王さまになるわ」


 今日のヴィンセントは、戴冠式のために、国王に相応しい盛装をしている。

 王冠と王笏の破壊でこれまでの王権が潰えたものとみなし、その装いも伝統的な王の衣装とは少し違うらしい。


 詰襟の軍服が基調となっているが、使われているのは純白の生地で、ボタンは白銀。膝上丈の上衣は、裾に金糸で知恵や平和、愛情、幸福などを象徴する植物や星座が刺繍されている。スラックスも靴も白く、肩にかかるローブも輝かんばかりの白だ。


 それは、アッシュグレイの髪に月色の瞳と、色彩が淡く、繊細な顔立ちのヴィンセントによく馴染み、彼を神々しく見せていた。


 この美しいひとは、きっと、みなに愛される王になる。


 ノインは目を細めて、ヴィンセントを惚れ惚れと眺めた。

 でも少しだけ、今日までほとんど独り占めできていた彼の美しさが、みなのものになってしまう、という残念さもある。


「あなたも一緒に、国民の前に出られたらよかったのに」


 ヴィンセントの手袋に包まれた手が、そっとノインの手を取った。


「仕方がないでしょう。誰ともしれない人間が急に出てきたら、みんなびっくりするわ」


 ノインの存在は、ともに奔走した大臣たちにはよく知られ、信頼されているものの、そのほかの貴族たちには『魔女だ』と明かしたのみで、素性もつまびらかにされていない。国に焼かれた村の生き残りというのは難しい立場であって、急に現れても、国を憎んでいる人間だと思われるのが普通だ。

 今は、ヴィンセントや、彼をすぐ近くで支えてくれる大臣たちに、受け入れてもらえるだけでいいと思っている。


「わたしには、マナーのレッスンもこれからだし……」


 ノインはため息をつきつつ自分の体を見下ろした。

 市井で暮らしていくなら何も問題はなかったのだが、ヴィンセントのそばでとなれば、身につけねばならない作法が山ほどある。

 ヴィンセントのほうを見れば、彼はあいかわらず、ただ立っているだけでも優雅さが滲み出るようで、果たして自分が彼のようになれるかは、あやしいところだ。

 ヴィンセントは、ノインの嘆きを聞いて、明るく笑った。


「何を笑っているの」

「あなたに負担をかけるのは申し訳なく思いますが、僕のためだと思うと、嬉しくて」


 そうして彼は、その月色の瞳に真摯な光を宿し、笑みを消して、真剣な顔つきでノインをじっと見下ろした。


「これから僕は、人々が平和に暮らせるよう、力を尽くします。それがこの国を一度滅ぼし、そして新しく生まれさせた僕の、王としての責任です」


 ヴィンセントが一度言葉を切る。ノインは黙って彼を見つめ返し、彼の本当に言いたいことを待った。


「でも、ノイン。あなたについては、僕が、ひとりの人間として、責任を取らせてください」


 ノインの手を取っていたヴィンセントが、ノインと指を絡め合わせて繋ぎなおし、その手を祈るように、うやうやしく額に当てる。


「僕のそばにいると、選んでくれたこと。僕はあなたが、あなたを僕にくれた代わりに、僕という人間のすべてで贖ってゆきます」

「……っ、ちょっと」


 ヴィンセントが美しい所作で流れるようにひざまずく。ノインが慌てるのを視線で制して、月色の瞳の澄んだ輝きをまっすぐに向けてきた。


「僕をひざまずかせるのは、ノインだけです」

「……うっかり思い上がりそう」

「僕についてだけは、思い上がってかまいませんよ」


 ふわりと微笑んだヴィンセントにはもう、地下牢で縋ってきたときのような頼りなさはなかった。ひざまずいていても、その姿、まなざし、気配、すべてが気高くさえある。


 でも、その瞳にある親しみが、ノインから彼を遠ざけない。

 ノインは小さく笑い、繋がれたままのヴィンセントの手を軽く引いた。


「ねえ、これはこれで悪くない気分ではあるんだけど、でもね、わたし、贖うとかそういうのじゃなくて……」


 ノインに引かれたヴィンセントが立ち上がる。不安そうではなく、どこまでも優しい目をして、ヴィンセントはノインを見ていた。


「一緒にいたいと思ったのよ。とっても単純だけど、それでいいじゃない」


 もう王らしい雰囲気を身につけはじめたヴィンセントよりも、ノインのほうはまだ戸惑っている。こんなことになるなんて、本当に、想像もしたことがなかったのだ。

 ノインをここに留めているのは、ヴィンセントに向けた想いひとつで、そんな自分もまた、ノインは完全に受け入れきっていない。

 けれど、ヴィンセントがノインを求めるまっすぐ純粋な想いが、戸惑いやためらいをすり抜けて、その奥にあるノインのまっさらな気持ちに届く。


「誰かに、生きる理由になってほしいって言ったあなたの気持ちが、今はわかるの」


 ノインは笑みを消して目を伏せ、ヴィンセントと繋いでいた手の指に、少し力を込めた。


「あなたに望まれていると、わたしは自分が確かにここにいるんだって感じる。ひとりでどこへでも行けていたころは、そういうことを思ったことさえなかった」


 かつての自分を不幸だとか、そんなふうには思っていない。あのころとは生き方が変わってしまったというだけだ。


「誰かの存在を通して、自分の居場所がわかるっていうのは、心許ない気がしているのよ。でも同じくらい、ヴィンセントに求められるのが嬉しい」

「いつか、あなたが心の底から安心できるように、僕が努力します」


 ヴィンセントは、関節が白くなったノインの手を優しくほどいて、その爪先を包むように持ち上げた。そこに誓いの口づけを落とし、それだけでは物足りなかったかのように、目を閉じて頬をすり寄せる。

 彼の穏やかな表情を見ていると、ノインの気持ちも鎮まってゆく。


 いつかヴィンセントに自分のすべてを預けて、安心しきった心地になれる日が、きっと来る。


 その予感が、ノインの唇をほころばせた。


「陛下、お時間です」


 扉の外から声をかけられ、ヴィンセントが名残惜しそうにノインを放した。これから王としてお披露目されるというひとの、甘えたまなざしが愛しくて、ノインは思わずくすりと笑う。


「ノイン、また、あとで」

「ええ。頑張ってきてね。今日のこと全部、ちゃんと『記録』するから」


 ノインが胸元に触れて言うと、ヴィンセントはちらとそこに視線を落としたあと、美しく微笑んでうなずいた。


「ご期待に応えましょう」



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