陋屋に住む自称お姫様のサトーさんの話

なばな

秋、サトーさんの家にモンブランを持っていく

 サトーさんの家は町外れのちょっとした坂の上にある。こぢんまりとした一軒家で、二階に上がると眺めがいい。海を見下ろすことができる。風が気持ちいい。

 ちょっとした欄間が葡萄と狐の透かし彫りだったりして可愛らしい感じの家だが、とにかくボロい。長い間手入れがされておらず、鉄製のアール・ヌーヴォー様式の小さな門扉は錆びついて動かないし、開かない窓はあるし、外壁と扉に塗った白と緑のペンキははげているし、屋根には草が生えている。知らずに一見すると、廃屋だ。

 中に入るともっとひどい。物が溢れて雑然としている。たとえば、古い雑誌の山なんかは、湿気て黴びて、下層のほうはきのこと虫の住処となっており、最下層は土になりかけていた。ついでに言えば、床板も朽ちて柔らかくなっていた。

 不必要なものは袋に入れてまとめて積んであって、なんとかしようとしている形跡は見て取れるが、状況に努力が全く追いついていない。

 かろうじて、水回りと寝台は生活空間が確保されているが、台所の惨状は察して欲しい。


 この荒屋の主のサトーさんだが、何者かというと、サトーさんの言葉を信じるならば、お姫様だ。サトーさんはことあるごとに、「だってわたし、お姫様なのよ?」と言っている。

 見た限りは、女性の高齢者だ。色は抜けて白い。すっと伸びた首に小さな頭が乗っているところなんかは、お姫様っぽいかもしれない。

 年齢は分からない。訊く機会を逸した。ついでに言えば、名前も分からない。表札に「佐藤」と書いてあるので「佐藤」なんだろうし、郵便物も「佐藤」で届くけれど、どうにも偽名くさい。だけど今更「本当の名前は何ですか?」とも訊くに訊けない。


 サトーさんとのところを訪ねるようになったのは、叔母の頼みだ。

 独身だった叔母が養護施設に入所したので、その手続きやら何やらで見舞いに行ったところ、「わたしのことはいいから、おひいさまの様子を見てきてくれ」と頼まれたのが、始まりだ。


 坂道を登る。手に下げ持ったケーキの袋が傾かないように気を付ける。今日のケーキはモンブランだ。

 海からの風が頬を撫でる。

 道の脇に蔓延っている葛が、ところどころまばらに赤紫色の花を付いていて、けやきの葉は色づき始めていた。金木犀の香りが漂ってくると、そこがサトーさんの家だ。玄関先に金木犀の花が咲いている。

 サトーさんの家に着くと、玄関先の鐘をカランカランと鳴らして、返事を待たずに入る。

 日中のサトーさんは大抵居間にいて、庭を眺めながらソファでうたた寝をしている。手元には詩集かなんかが転がっている。


「サトーさん、来ましたよ。今日はモンブランですよ」

 声を掛けるとサトーさんがうっすら目を開く。

「モンブラン」

「そうですよ」

「まあ、まあ、まあ、モンブランはいいわね」

「おいしいですよ」

「まあ、嬉しいわ。お茶を淹れてちょうだい」

「はい、お茶をご一緒しましょう」

「うふふ。あなたが来てくれると、お茶がご一緒できていいわね」

「それはようございました」

 サトーはなんていうか、人にものを頼むが上手い。極々自然に用事を言いつけられてしまう。


 サトーさん家の居間は台所とひと繋ぎになっていて、大きな窓が庭に面している。窓からはそのままテラスに出ることができて、テラスから庭に降りることができる。

 窓には白いレース編みのカーテンがかかっているが、日に焼けて古びてなんだか黄ばんでいる。

 ここまで読んでいただければお分かりいただけるであろうが、サトーさんの家の庭の様子も散々なものだ。一言で言えば、雑草に埋もれている。

 テラスの柱には葡萄を這わしてあったり、煉瓦の花壇や石畳の遊歩道、蔓薔薇のアーチ(の残骸)なんかがあって、元はそれはそれは素晴らしい庭だったんだろうなという気配はあるのだが、今はもう雑草の海の中だ。

 雑草の海の合間にりんどうの深い青が垣間見えたり、コスモスのピンクが散らばっている。


「サトーさん、お茶が入りましたよ」

「まあ、いい香り。ありがとう」

「どういたしまして」

 サトーさんの向かい側に座って庭を眺める。サトーさんがお姫様という話にうっすら信憑性が漂うのは、このティーセットとかが一式揃っていて、なんかどうもいい品っぽい感じがするところだったりする。透き通るような薄い白い磁器に、青い花の絵が書いてある。

「あなたの持ってきてくれるお菓子はいつもおいしいわ」

「ありがとうございます」

「でもね、そろそろトーコさんの作ったポテトパイも食べたいわね」

 トーコというのは、くだんの叔母のことだ。

「トーコさんの作ったポテトパイは、それはもう、絶品なのよ。滑らかで、香ばしくて、甘くて、しつこくなくて」

「叔母が聞いたら喜ぶでしょう」

「あなたにも是非召し上がって欲しいわ」

「ええ、是非いただきたいです」

 風が吹く。金木犀が香って、ポプラの木が黄色い葉を落とす。雑草がざわめく。雑草、カヤやススキやアワダチソウなんかだ。

「今日は満月なんですって」

「晴れるといいですね」

「早く夜が来ないかしら」

 サトーさんの声はいつも日暮れを待ち侘びている。早く、早く、早く、疾く夜よ来い、疾く時よ過ぎよ、全て朽ち果てよ。

 サトーさんは今宵、日が落ちて青く染まった空に浮かぶ月を、この雑草だらけの庭から見上げるのだろう。


 空を見上げると、薄く刷毛ではいたような雲が伸びていた。

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