ラブコメ主人公で女の子からよく告白されるんだが、身の回りで殺人が起きまくるミステリ主人公の少女と出会ってしまった

@Miyazawaaaaaaaaa

第1話

プロローグ


 あの公園は、柔らかな秋の日差しに包まれていた。木々の葉は色づき始めたばかりで、風に舞う枯葉が静かに地面を覆っていた。風はまだ冬の冷たさを含まず、心地よい柔らかさを残していたが、空気の中にはどこか切ないものが漂っていた。季節の移ろいが、夏の終わりを静かに告げているようだった。

 僕は、その公園の片隅で、夢中になって絵を描いていた。幼い手にはクレヨンの欠片がしっかりと握られ、画用紙に描かれた人々が手を繋ぐ輪の中心には、大きなハートが浮かんでいた。それは、幼いながら僕が感じていた「愛」や「平和」を、そのまま表現したものだった。まだ言葉にできない感情が、クレヨンの色彩を通じて少しずつ形になっていく。そんな瞬間が、僕にとっては何よりも楽しかった。

 周囲の音は、僕の意識の外に追いやられていた。風が木々を揺らす音も、遠くで響く子供たちの笑い声も、僕の耳には届かず、ただ目の前の画用紙とその上に広がる色彩だけが僕の世界を満たしていた。指先がクレヨンを動かすたびに、紙の上に新たな色と形が生まれ、それが僕の心をさらに豊かにしていくように感じた。

 ふと、視界が暗くなった。驚いて顔を上げると、そこにはひとりの人が立っていた。その姿は秋の日差しを背に受けていて、長い髪がそよ風にたなびき、光を受けて輝いていた。僕はその人物に、一瞬で心を奪われた。髪の動きは、風景に自然と溶け込むようでありながら、どこか非現実的な美しさを放っていた。

 しばらく、その人は無言で僕の絵を見つめていた。髪の間からのぞく瞳は、穏やかな光を宿しているようで、同時にどこか冷ややかさも感じさせた。その視線が、まるで僕の心の奥深くを見透かすように鋭く感じられ、僕はその場で動けなくなってしまった。クレヨンを握った手が、自然と止まっていた。

 やがて、その人は口を開いた。声は、風のように静かで柔らかく、しかしどこか重みを帯びていた。

「その絵、とても素敵ですね。私に売ってくれませんか?」

 その言葉が、僕の胸の奥に響いた。驚きとともに、僕は内心喜びを覚えた。自分が描いた絵が誰かの目に留まり、評価されたということが、何より嬉しかった。

「本当に?」

 僕は戸惑いながらも小さな声で問い返した。その人は、優しい微笑みを浮かべて頷いた。その笑みはどこか神秘的で、僕をさらに魅了した。僕はその微笑みに引き寄せられるように、差し出された千円札を受け取った。新札の冷たい感触が、僕の手に現実感をもたらしてくれたが、それよりも、自分の描いたものが誰かに認められたことが、僕にとって最大の喜びだった。

 その人は僕の絵を手に取り、柔らかい声でこう言った。

「これで、この絵は私のものですね。」

 僕は無意識のうちに頷いていた。自分の絵が誰かの手に渡るというその瞬間が、幼い僕にとって特別な意味を持っていた。

 だが、その瞬間、すべてが崩れ去った。絵を手に取ったその人は、突然、何の前触れもなくそれを引き裂き始めた。紙が裂ける音が、静寂を切り裂くように僕の耳に響き、胸に鋭い痛みが走った。目の前で、僕が描いたハートが無残に破り捨てられ、人々が繋いでいた輪が、まるで存在しなかったかのように消えていく。

「えっ……」

 僕は言葉を失った。手足が動かなくなり、ただその場に立ち尽くすしかなかった。破られた紙片が風に舞い上がり、空に吸い込まれるように高く舞っていくのを、僕はただ呆然と見つめていた。絵が引き裂かれるその瞬間、手を動かしているその人の動きには、何の迷いも見えなかった。

 僕の中で何かが崩れ去っていく音がした。胸の奥にあった温もりが一瞬で冷たい虚無へと変わり、ただ立ち尽くすしかなかった。何が起こったのか理解できないまま、僕はただ呆然と立ちすくんだ。

 破り終えた紙片をゴミ箱へ投げ入れたその人は、何事もなかったかのように立ち去っていった。その背中は徐々に小さくなり、やがて木々の向こうに消えていった。

 僕はその背中を、いつまでも見つめていた。胸の奥で、何かが静かに変わっていくのを感じた。憎しみ、悲しみ、そしてその裏に潜む複雑な感情。それは、まだ幼い僕には早すぎる感覚だったのかもしれない。だが、その瞬間、僕の中で何かが目覚めた。

 あれが、僕の初恋だった。






恋せよ!宇野レンボ!


はちゃめちゃ!未知の女の子たち!


 僕の名前は宇野恋慕。十六歳。どこにでもいる普通の男子高校生だ。転校するのはこれで何度目か数えるのを忘れたが、毎回のように新しい環境には慣れない。それでも今日こそは、初日の遅刻なんて避けたかった。なのにどうだろう、腕時計の針は無情にも刻々と時間を進めている。焦りの気持ちは心の奥で渦巻いているのに、足は妙にゆっくりとしか動かない。

 新しい通学路は静かだった。街路樹は冷たい朝の空気を揺らし、時折その枝葉がかすかな風にざわめいている。通りにはほとんど車も人影もない。冷たく張り詰めた朝の空気が、僕の頬をかすめていった。空は薄い青に染まり始め、日の光がゆっくりと地面に伸びる影をさらに引き延ばしていく。僕はふと立ち止まり、石垣に軽く背を預けた。呼吸を整えたかった。だけど、心の中はどこか落ち着かなかった。

 そんな時、視界の端に異様なものが映り込んだ。遠くから、まるで違う世界から飛び出してきたかのような鮮やかなピンク色が見えた。それは明らかに、この静けさの中に似つかわしくない派手な色だった。思わず視線を引きつけられ、僕はそちらの方向を凝視した。そこには、ピンク色の髪を風に舞わせながら、まるで嵐のような勢いで走ってくる少女の姿があった。

 彼女は全速力でこちらに向かって走ってくる。しかも、その口にはトーストが咥えられている。僕は一瞬、目を疑った。実際にこの目で見ているはずなのに、どこか現実感がない。ピンク色の髪の毛が風に舞い上がり、彼女の体が不規則に揺れるたびに、その髪が陽の光を反射して、まばゆい光を放っているように見えた。

 しかし、その瞬間、僕の中で警鐘が鳴った。彼女の動きには明らかに危うさがあった。焦りにまかせたような不安定な走り方。重心は前に傾きすぎていて、足元がふらついているのが見て取れた。鞄は背中で大きく揺れ、今にもバランスを崩しそうだ。僕の心臓は一気に早鐘を打ち始めた。

 もしこのまま突っ込んでこられたら? 彼女は間違いなく僕にぶつかるだろう。その衝撃で僕は転倒し、トーストは無残にも地面に散らばる。そして彼女は「ぶつかったんなら謝りなさいよ〜!」なんて軽い感じで言ってくるに違いない。登校を終えたのちにも、その責を問われ、転校初日から周囲の生徒たちに注目されてしまう。それは、僕にとって最悪の事態だ。

 だが、ここでさらに最悪なのは、その後の展開だ。彼女と僕は、ぶつかったことをきっかけにして、因縁のような関係を持つことになるだろう。僕は嫌でも彼女と話す機会が増えていき、やがて彼女は僕に何かしらの好意を抱くようになる。「実は、あなたのことがずっと気になっていたの……」なんて言われたら、どうすればいい? そんな展開は、想像するだけで身震いする。僕には彼女の期待に応える自信がないし、そんな複雑な人間関係は御免だ。

 だから、何としても彼女とぶつかるわけにはいかない。僕の平穏な高校生活を守るために。この一瞬の接触を避けることが、今の僕にとって最大の使命だ。

 彼女が近づくたびに、僕の体は硬直していった。考えろ、どうすればいい? 頭の中でいくつものシナリオを描き出すが、どれも有効な手段には思えない。彼女はあまりに速すぎる。交差点の向こうから、ピンク色の影がぐんぐんこちらに迫ってくる。残された時間は、息をする間もないほどに短かった。

 そして、その瞬間が訪れた。ピンクの髪が視界のすぐ近くに迫り、僕は反射的に体を動かした。ほんの一瞬の決断だったが、右足をわずかに前に出し、体をわずかに横へと傾けた。時間がゆっくりと流れるように感じた。ピンクの髪が風に揺れ、彼女の体が僕のわずか数センチをすり抜けていくのが見えた。

「……っ!」

 彼女はようやく気づいたのか、一瞬こちらに視線を向けた。その表情には驚きが浮かんでいたが、彼女はそのまま走り去っていく。振り返ることもなく、ただまっすぐ前だけを見つめて。ピンクの髪は風に揺れ、トーストはまだしっかりと口に咥えられたままだった。

 僕はその場に立ち尽くし、ゆっくりと深呼吸をした。胸の中にたまった緊張が、徐々に和らいでいく。無事だ。僕は無事にこの場を切り抜けた。彼女とぶつかることも、転校初日に注目を浴びることも避けることができた。それは間違いなく、喜ばしい結果だった。

 だが、その背中が徐々に遠ざかっていくのを見送りながら、僕の心の中に小さな疑問が生まれた。もし、彼女とぶつかっていたら、何かが変わっていたのだろうか? そんな馬鹿げた思考が頭をよぎる。いや、僕は平穏を選んだんだ。彼女との接触を避けることが正解だった。

 僕は自分にそう言い聞かせ、もう一度歩き出す。彼女が消えた交差点には、朝の光がまばらに差し込んでいる。静けさが戻り、風に乗ってトーストのかすかな香りが漂ってきた。それが僕の胸に、一瞬の違和感を残していく。

 だが、僕は気を取り直し、何事もなかったかのように歩き続けた。


 住宅街から出ると、急に空気が開けたように感じた。交差点の狭い道から広々とした商店街に移り変わる瞬間、街の喧騒が耳に入ってくる。八百屋が大声で客を呼び、パン屋からは焼きたての香りが漂い、早朝の清々しさと賑わいが混ざり合っていた。商店街のアーケードの下には、雑多な商品が所狭しと並べられ、朝日が反射して光を踊らせていた。道を歩く人々も、何気なく顔を上げ、日常の一幕を淡々と演じていた。

 そんな何気ない日常の一コマに、ふと違和感を覚えた。後ろから突然響く、甲高い声――それは、商店街の騒がしさの中で異質に感じられるほどの音量と強さを持っていた。

 「そこの庶民!道を開けなさーーい!!」

 瞬間、僕の背筋は緊張し、思わず振り返った。声の主が目に飛び込んできたその瞬間、目の前に広がる風景が一変する。僕の視界の先には、金髪を縦に巻いたドレス姿の少女が、まるで場違いなオブジェのように現れていた。彼女は豪華なドレスを身にまとい、地面を引きずる裾は薄汚れている。焦りに満ちた顔には、貴族然とした気品とともに、何かを振り切ろうとする必死さがあった。

 彼女の足取りは速く、重いドレスにもかかわらず、街の雑踏をすり抜けていく。その様子は、何かから逃れようとしているようであり、同時に追いかけられていることが容易に想像できた。その姿を見た瞬間、僕の中に直感が走った。この場にいてはいけない。巻き込まれる前に姿を隠さなければ。

 目の前には小さなゴミ箱があった。僕は周囲を確認する暇もなく、反射的にその中に飛び込んだ。蓋をそっと閉めると、狭くて息苦しい空間が僕を包み込み、鼻をつく臭いが襲いかかってくる。湿気を含んだ生ゴミの腐った匂いが、嫌悪感とともに僕の鼻孔に広がった。

 「何とか、ここなら……」

 内心で安堵の息をつくも、それは長くは続かなかった。蓋の隙間から外を覗くと、あの金髪の少女が僕の隠れているゴミ箱のすぐそばを駆け抜けていくのが見えた。ドレスの裾が軽やかに舞い、金髪の髪が風に揺れる様子が、時が止まったように目に焼き付く。まるで映画のワンシーンのように、彼女の姿がゆっくりと遠ざかっていくのを見つめていた。

 だが、すぐにその後を追う黒服の男たちが現れた。大柄な体格の男たちは、周囲の商店主たちに少女の姿を尋ねながら、辺りを見回している。彼らの動きは統制が取れており、訓練された兵士のような鋭さを感じさせた。

 「見なかったか?」

 低く冷たい声が、僕のすぐ近くで響いた。その声は、まるで鋭利な刃のように、僕の胸の奥をざわつかせる。思わず息を潜め、全身を硬直させた。ここで見つかれば、どんな状況が待っているのか想像もつかない。ゴミ箱の中で身体を小さく丸め、ひたすらその場が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 「見てないよ。あんたら何者だい?」

 商店主の返事に黒服の男は一瞥をくれるだけで、次の店に向かって歩き出す。心臓の鼓動が耳の奥で響き、全身を緊張感が包んでいた。呼吸を抑えつけ、周囲の動きに神経を張り巡らせる。どうか、このゴミ箱には気づかないでくれ――そう祈るような気持ちで、時が過ぎるのを待っていた。

 もしも、彼女の行方を教えたなら――彼女はきっと冷たい目で僕を睨みつけ、こう言うだろう。

 「どうしてワタクシのことをチクりましたの?」

 その声が脳裏に浮かぶ。その後に待っているのは、彼女との因縁のような出会い。そして、彼女との関係が少しずつ深まり、やがて彼女が僕に想いを打ち明ける未来――そんなことが現実に起こることなど、到底考えられなかった。僕には彼女の期待に応えられるはずがない。重すぎる想いが僕を押しつぶしてしまうだろう。

 一方で、もし黒服の男たちに嘘をついたらどうなるか。彼女の居場所を隠し、見当違いの場所を告げたなら、彼女は僕に感謝するかもしれない。そして、微笑みながら「あなた、庶民にしてはやりますわね」と言うだろう。だが、そこからまたしても因縁の関係が始まり、やがて彼女の秘めた想いを告白されるのだ。それもまた、僕には耐えられない未来だ。重ね重ね言うが、僕には彼女の気持ちを受け止める力はない。

 外の音が少しずつ遠ざかっていった。黒服の男たちが商店街をさらに進んでいったのだろうか。商店街の賑やかさが徐々に戻り始め、いつもの生活が再び広がり始めた。それでも、僕は慎重に蓋を少しだけ開け、そっと外の様子を確認した。黒服の姿はもうどこにも見当たらない。周囲は平穏を取り戻していた。

 「はぁ……助かった……」

 胸の中で呟きながら、ゴミ箱の中から這い出した。湿ったゴミの匂いが全身に染み付き、気分は最悪だったが、危機を回避できたことには安堵のため息を漏らす。周りに人がいないことを確認しながら、僕は急いでその場を後にした。

 ふと遠くを見ると、彼女の姿がまだ小さく残っていた。彼女は走り続けている。彼女の背中が遠ざかっていく中で、僕はほんの一瞬、彼女の儚げな後ろ姿に目を留めた。彼女の必死さと、その先にあるであろう物語を感じつつも、僕は接触を避けられたことに再び安堵を感じていた。


 さて、ゴミ箱から這い出た僕は、体にまとわりつく不快なゴミを手で払い落とし、ゆっくりと足を進めた。春めいた風が顔を撫で、まるで何事もなかったかのように世界は穏やかだ。ほんの数分前、ゴミの中で身を潜めていたという現実が、まるで他人事のように感じられる。この街は、何度目かの転校先でもあり、既に見慣れた風景が広がっているはずなのに、今日は少し違って見える。川辺に植えられた桜が、まだほのかに残る朝の冷気を揺るがすように、風に乗ってゆったりと花びらを散らしていた。その淡い桃色が、素朴な登下校路を彩り、空気に柔らかい温もりを添えている。

 これまで幾度となく繰り返してきた転校生活だが、初めての登校路にはいつも特別な高揚感がある。緊張と期待、不安が入り混じったあの特有の感覚。それがこの朝も、僕の胸の中に静かに膨らんでいた。新しい出会いや未知の出来事が僕を待ち受けているという予感。それは心地よさと同時に、一種の不安をも伴っている。

 そんな感傷に浸りつつ歩みを進めていると、突然背後から声がかかった。

 「あの、もしかして……レンボさん?」

 その瞬間、僕の胸にあった穏やかな気持ちは一気に冷めた。声は思いのほか柔らかかったが、その響きには、何か決定的なものが隠されているのを感じた。僕の名を知る人物──転校したばかりのこの場所で、僕のことを知っている人物など、限られているはずだ。これは明らかに「回避不能」だと直感した。

 この場面で、普通に応対すればどうなるかは、容易に想像がつく。「やっぱり! あの時会ったあなたですよね!」と、感動したような口調で語りかけられ、その後はありがちな「運命の再会」みたいな流れに巻き込まれてしまうだろう。そこから始まるのは、面倒な関係だ。そういったややこしい展開は、僕にとって望むところではない。断固として避けなければならない。

 僕は、瞬時に対策を講じる必要があると悟った。だが、振り向いて顔をさらすわけにはいかない。感染予防を言い訳にマスクをつけようか。しかしそんなもの所持していない。そうだ、ここで僕には一つの代案があった。さっきゴミ箱で拾ったストッキング。これを利用するしかないだろう。僕は手早くストッキングを取り出し、それを頭に被せた。視界は少し歪んだが、今はそれでいい。目元を隠し、声を変えれば、僕だと気付かれることはないはずだ。

 振り向きざまに、僕はできるだけ奇妙な声を出した。

 「へ? だれでふか?」

 ストッキングで顔がギチギチに締め付けられているせいで、表情は奇妙に歪んでいた。僕自身でもわかる。これは明らかに普通ではない、と。

 相手は、一瞬で動きを止めた。まるで時間が静止したかのように、その場で硬直している。三つ編みの髪に眼鏡をかけた、真面目そうな女子高生だった。目が驚きに見開かれ、言葉を失っている。まるで自分の目の前に現れたのが、何か恐ろしいものか、理解しがたい異形の存在だと思っているのかもしれない。

 それでいい、いや、むしろそれが狙いだ。彼女が何を考えていようと、この場で僕に追いすがってくることはないだろう。僕は彼女の反応を見て、内心ほっとしつつも、できるだけ冷静に振る舞おうと努めた。何も言わず、そしてできる限り自然に、背を向けた。そして足早にその場を立ち去る。背中に感じる無言の視線が、どこか心にひんやりと冷たいものを残している。

 だが、ここで振り返ってはいけない。これで僕は、また一つ危機を乗り越えたのだ。

 ようやく校門が見えてきた。登校時間が迫っていることを考えると、これでなんとか無事にたどり着けたという安心感が胸に広がる。この世界の傍観者がもし存在したとして、この状況を知っていれば、きっと「なんて羨ましいやつだ」とか、「そんなに女の子に囲まれるなら、もう少しはその気持ちに答えてやればいいじゃないか」などと、安易な感想を持つかもしれない。


 だが、そんなことを言う連中は、僕の置かれている状況を理解していない。僕にはある「使命」があるのだ。それは、軽々しく誰かと因縁を作り、その後の展開に巻き込まれることなどでは決してない。僕は、自分の計画を乱されることなく、この学校生活を過ごすつもりなのだから──。


 その瞬間、突如として衝撃が襲ってきた。僕の体が後ろへと吹き飛ばされる。周りの光景が一瞬にしてぐるりと回転し、体はまるで糸が切れた人形のように宙を舞った。時間がゆっくりと伸び、瞬間が引き延ばされるような感覚の中で、僕の五感は一瞬にして極限まで研ぎ澄まされた。

 何かが僕を強く打ちつけた。自転車か? いや、それよりももっと柔らかい。衝撃はまるで、僕の体全体を包み込むようにして押し出されている。心の中で警鐘が鳴り響く。「これはただの転倒では済まない」──その危機感が僕を一瞬で襲った。

 それでも僕は反射的に受け身を取ろうとした。だが、体が言うことを聞かない。手が地面に伸びる前に、アスファルトが容赦なく僕の背中を叩きつけた。骨の一つ一つが砕けるような痛みが背中に走り、頭が強く地面にぶつかった。その瞬間、視界が一気にぼやけていった。

 痛みが、鋭い波となって体を駆け巡った。背中と頭が激しく痛む。だが、その次の瞬間、もっと深い痛みが腹部から突き上げてきた。注射針、蜂、火傷?僕の稚拙な痛みのボキャブラリーでは語れない、何かが体の中に侵入してきたような感覚だった。

 僕は必死に目を開け、ぼやけた視界の中で自分にぶつかった相手を捉えようとした。頭がまだぐらぐらしていて、目の前の景色が揺らいでいる。だが、そこに立っていたのは一人の少女──いや、それ以上に異様な存在感を放つ何かだった。

 セーラー服に包まれたその少女は、僕を冷たく見下ろしていた。感情のないその瞳が、まるで何も感じていないかのように僕を凝視している。彼女の姿は徐々に焦点を結び、はっきりと見えてきた。しかし、その純白のセーラー服が、奇妙なほどの赤に染まっていることに気づいた。血だ……誰の?

 彼女は一言も発しない。まるで状況を俯瞰しているかのような冷静さを持ち、ただ僕を見下ろしている。その無表情が、かえって不気味で、恐ろしさを倍増させた。彼女の服に染みついている血が、視界にじわじわと広がっていくような感覚が、僕の心にじりじりと不安を植え付けていく。

 そしてその刹那、腹部から生じる鋭い痛みの輪郭が濃くなった。鈍く重い痛みが、じわりと内側から押し寄せてくるようだった。僕は無意識に右手を伸ばし、腹部を探った。そこには、生温かい液体があふれ出しているのを感じた。嫌な予感が胸を締め付ける──それは、自分の血だと確信する瞬間だった。

 次に指が触れたのは、固い物体。鋭く冷たい金属の感触が、血に濡れた僕の指先に伝わってくる。それは──刃物だ。

 僕の体に、深々と突き刺さった出刃包丁。突如として襲いかかる現実に、意識がじわじわと遠のいていく。感覚が徐々に鈍くなり、痛みは遠のいていく。何かが壊れたような感覚、そして全てが薄れていく。

 意識はまるで水の底へと沈んでいくように、ゆっくりと暗闇の中へと落ちていった。


探偵少女ハルコ


邂逅


 私の名前は嵯峨島春子。何の変哲もない、普通の女子高生でございます。ただし、ある一つの秘密を持っております。それは、私が好んで解き明かす「謎」。日常の中にひっそりと潜む、それらの微細なほころびを見つけ出し、丁寧に糸を解くような作業――それこそが、私の密やかな喜びでございます。

 今朝も、私はバスに揺られ、学校へと向かっておりました。乗客たちの会話やスマートフォンの光に満ちた車内は、いつもの日常そのもの。私の目は外に広がる景色へと向けられておりました。満開の桜の木々が、柔らかな風に揺れて花びらを散らしている。朝の光は淡く、その優しい光が、桜の花々を一層美しく際立たせておりました。

 「今日は少し歩いてみるのも良いかもしれませんね」

 そう心に決め、私はバスを途中で降りることにいたしました。足元に響く、履き慣れた靴のかすかな擦れ。朝の清々しい空気に包まれながら、住宅街を進む道すがら、目に映る花々や木々がその優雅な調べを奏でているように思えました。何も特別なことが起こるはずもない、穏やかな一日になるはずだ――そう信じていたのですが、私の足はやがて、予期せぬ光景へと引き寄せられていったのです。

 静かな住宅街の一角に、いつの間にか集まった人々。救急車の赤い灯、そして警察車両のパトランプが静かに回っており、現場は不穏な空気に包まれておりました。私はふと立ち止まり、何が起きたのかを確かめるため、人々の隙間を縫うようにして進んでいきました。

 そして目の前に広がったのは、スーツ姿の中年男性が倒れ伏している姿。彼は、無造作にゴミ捨て場の脇に横たわり、その顔は蝋人形の様で、何かを物語っているかのようでした。救急隊員たちが遺体の周りを囲み、警察官が現場を見渡している。私はその場で足を止め、じっと状況を観察いたしました。

 目の前に広がるその光景に、私の脳裏に一つの仮説が浮かび上がります。彼の体に現れている微妙な色合い、そしてその異様な静寂が、私に何かを示唆しているようでした。体の色がサーモンピンクに近く、酸素不足によるものだという考えがすぐに頭をよぎります。

 私は、傍にいた警察官に向かって、静かに声をかけました。

 「失礼いたします。この方、一酸化炭素中毒で亡くなったのではないでしょうか?」

 警察官は私の言葉に一瞬驚いた様子を見せましたが、その後、私の説明に耳を傾けます。

 「顔色がサーモンピンクに変わっていることから、酸素不足が疑われます。そして、彼の姿勢から察するに、酔いつぶれてゴミ捨て場に倒れ込んだ際、タバコの火がゴミ袋に引火し、そこから一酸化炭素が発生した可能性が高いと思われます」

 警察官は眉をひそめながら、しばらく私の説明を考え込んでいるようでしたが、やがてこう尋ねました。

 「しかし、ハルコちゃん。火はどうして自然に消えたんだ? そのまま燃え広がるのでは?」

 私は、少し微笑みながら、彼の股間を指差しました。

 「ご覧ください。遺体が濡れております。これが、死後に排泄された尿の跡です。この尿が、タバコの火を消し止めた可能性がございます」

 警察官は驚いた表情を浮かべ、しばらく無言で私を見つめておりましたが、やがて静かに頷きました。私の推理が的を射ていたのでしょう。彼の表情からは、それが伝わってきます。

 この瞬間、私は一種の満足感に包まれておりました。事件の謎が解き明かされたことにより、胸の中に広がる達成感。だが、同時に感じたのは、この美しい春の日にふさわしくない、不快な出来事に巻き込まれたという感覚でした。新学期早々、これほどに汚れた事件を目の当たりにするとは――私の心には、少なからず残念な気持ちがよぎっておりました。

 「次はもっと、綺麗な事件を解決したいものです」

 心の中でそう願いながら、私は現場を後にしました。

 商店街を歩いていると、突如、鼻先に焦げ臭い匂いが漂ってきました。その匂いに反応して、私は足を止め、辺りを見渡しました。すると、見慣れたパン屋が全焼してしまっているのが目に飛び込んできました。普段は焼きたてのパンの香りが漂う場所が、今では黒い煙と焦げた残骸しか残っていません。

「何かあったのでしょうか?」

 私は近くで捜査をしていた黒酢警部補に声をかけました。彼は少し驚いた様子で振り返り、すぐに私に気付き、穏やかな表情に戻ります。

「ああ、ハルコちゃんか。さっきパン屋で爆発があったんだ。幸い負傷者は出なかったが、今、事故か事件かを捜査しているところだよ。ただ……パン屋で爆発なんて、どう考えても事件だよな?」

 彼の声には少し疲れが混ざっていましたが、どこか冗談めいた調子も感じ取れました。眉間には深い皺が刻まれ、現場での捜査が思うように進んでいないことが察せられます。私は丁寧に許可を求めると、彼は黙って頷き、私を現場に通してくれました。

 爆発の跡地は、焦げ臭さが漂い、灰があたりに舞い上がっていました。地面には、黒く焦げたパンやガラスの破片が散乱しており、ところどころに白く舞い散った粉が残されています。足元に注意しながら歩くと、どこか微かに焼き立てのパンの香ばしさが混ざっていることに気づきました。

 その香りと散乱する小麦粉の残骸から、真相はすぐに見えてきました。粉が広がっている量からして、相当量が空中に舞っていたことがわかります。しかも、それがかまどの火と接触すれば……。

「これは粉塵爆発ですね。おそらく、店内で何らかの理由で小麦粉が舞い、それがかまどの火に引火したのでしょう。事件性はないと思われます」

 私はそう黒酢警部補に伝えました。彼は少し肩を落とし、安堵したように息をつきましたが、同時に失望の表情も浮かべました。

「そうか……粉塵爆発か。まあ、事件じゃないならそれはそれで良かったけどな」

 彼の声には、事件性がないという安心と、思っていたほど複雑な問題ではなかったという物足りなさが混ざっていました。私も同じ気持ちでした。粉塵爆発――ありふれた、どこか無味乾燥な結末です。推理の余地があまりないこの単語は、今や誰もが知っている現象で、これといった驚きもありません。

 現場から出て、肩をすくめた私は、ふと頭上に舞い落ちる桜の花びらに目を留めました。目の前に広がる桜並木が、商店街の静けさの中でゆっくりと揺れているのを見て、私は少し心が和みました。「桜の下には死体が埋まっている」とは昔から言われていますし、実際にそうした現場を見たこともあります。それでも、桜の美しさはその言葉を超越しています。風に舞う花びらの静けさには、確かに心を落ち着かせる力があります。

 その余韻に浸っていたところ、突然、どこからかうめき声が聞こえてきました。すぐに周囲を見渡すと、桜並木の向こう、校門の前で一人の男子高校生が、腹を押さえて倒れているのが見えました。制服姿で、顔には苦悶の色が浮かび、その手は腹部にしっかりと当てられています。

「どうなさったのですか?お腹が痛いのですか?」

 私は彼の元へ駆け寄り、しゃがみ込んで声をかけました。しかし、すぐに目に入ったのは彼の腹部に刺さった大きな包丁でした。柄にはブドウの模様が刻まれており、何とも奇妙で場違いな可愛らしさがありました。刺さった包丁の刃からは、彼の体から滲み出た血がゆっくりと広がり、地面にじんわりと染み込んでいきます。

「なるほど、三件目にしてようやく事件ですね」

 私は静かに独り言を漏らしました。包丁の柄に目をやりながら、これが何を意味しているのかを考え始めます。先ほどの爆発が事故で終わったのとは違い、今回はどうやら本格的な事件のようです。気を引き締めながら、私は次の展開を待ち望みました。


恋せよ!宇野レンボ


ミステリアス!保健室と白髪の少女


 目が覚めた。
 天井を見上げると、そこには見覚えのない、白くて無機質な光景が広がっている。柔らかな布団に包まれている感触があるが、自分の家のものではないことはすぐに分かった。ゆっくりと体を動かしてみようと試みるが、節々が痛みを訴え、腹部からは鈍い痛みがじわりと広がってくる。夢ではなかったようだ。昨夜の出来事が現実だったと、体が言い聞かせるように疼いている。

 「……知らない天井だ」

 僕はいつもの軽口を自分に向かって呟いた。空気に漂う消毒液の匂いが、ここが保健室だということを教えてくれる。保健室……ということは、僕は学校にいるらしい。どうやら、腹に感じるこの痛みの理由を探らなければならないようだ。目の周りに貼り付いた目ヤニをこすり取ろうとするが、瞼が重く、まばたきすら億劫だ。

 そんな時、軽やかでありながら、どこか冷たさを含んだ声が近くから響いた。

 「そんな軽口が叩けるなら、もう心配なさそうですね」

 柔らかく、それでいて芯の通った声だった。おそらく、僕を看病してくれた子のものだろう。感謝と共に怒りが込み上げた。こんな運命の巡り合わせ、あまりにも強引すぎる。なぜこうも僕を誰かと結びつけたがるのだろうか。まして、刺されて保健室で看護されるシチュエーションだなんて、愛の神に聞いてみたいほどだ。

 そんな不満を胸中に秘めつつ、僕は声の主がいる方向へとゆっくり首を巡らせた。だが、次の瞬間、僕の呼吸は不意に止まり、心臓が喉元で大きく跳ねた。

 ――あの人がいる。

 信じられない光景に、僕はさらに息を詰めた。目の前に立つ少女、その姿が脳裏に深く刻まれた彼女の面影と重なり、視界が霞む。かつて僕の「愛」を、無情にも否定し、無残に引き裂いたあの人が、今、目の前に。いや、違う。そんなはずはない。だが、どうして。全身が凍りつくような衝撃に、息を吸うことすら忘れてしまう。

 しばらくして、ようやく視界が少しずつ明瞭になっていくと、僕は目の前の少女が、あの人ではないことに気づき始めた。彼女はあの人よりもずっと幼い。背も低く、顔立ちにもあどけなさが残る。しかし、その髪の色――鮮やかで、どこか儚げな色合い――や、纏う雰囲気までは、酷似している。まるで過去の幻影が今この場で具現化しているかのようだ。息を吸うことがこんなにも苦しいと感じたのは、いつ以来だろうか。胸が痛む。

 それでも、僕はその冷静な瞬間にようやく気づいた。これは違う。あの人ではない。彼女はもっと大人びていて、そして何より、薔薇のような気品を漂わせていたはずだ。そうだ、あの人は、冷たくも鮮やかに輝く存在だった。それに比べて、この少女は――。

 僕は再び小さく息を吐いたが、まだ胸に残るざらついた感覚は拭えなかった。

「さっきから人の顔を見て、がっかりしたみたいな表情をするの、やめてくれませんか?」

 彼女は腕を組み、少し不満げに口を尖らせた。どうやら、僕の気持ちが見透かされたらしい。しまった、と思いつつ、僕は体勢を整えて礼を述べることにした。

「あ、ありがとう。君が手当てをしてくれたんだよね?」

 彼女は誇らしげに微笑んで、軽くうなずいた。

「はい、軽傷でしたから、この私、嵯峨島ハルコでも容易に処置できましたよ」

 そう言って、どこか誇らしげな様子を見せる彼女。その姿を見て、僕は思わず耳を疑った。

 出刃包丁が腹に突き刺さったのだ。それが軽傷のはずがない。だが、僕の疑念を察したかのように、彼女はポケットから壊れたペンダントを取り出し、見せてきた。

「あれ?それは……」

 僕が懐に入れていたものだ。ペンダントは壊れているが、間違いなく僕のものだ。

「何か運命を感じますね。あなたの懐にあったこれが、あなたの命を守ったようです」

 彼女は割れたペンダントを開き、中身の写真を見せた。それは、かつて僕が出会い、別れた寧々ちゃんの写真だった。

「ああ、そうか……これは寧々ちゃんが僕にくれたものだったんだ。動物が好きで優しい子だった。今頃どうしているのかな……」

 僕はふと、二年前の記憶に沈んだ。あの日の出来事が鮮明に蘇り、寧々ちゃんの無垢な笑顔が脳裏に浮かぶ。だが、そんな僕を見つめる彼女――ハルコは、呆れたようにため息をついた。

「泣ける話ですね。もっとも、あなたが女ったらしであるという事実を除けばの話ですが」

 一瞬、心臓が止まるかと思った。なぜそんなことを知っているんだ? いや、誤解だ。僕は決して女ったらしではない……はずだ。だが、結果として多くの女の子たちの気持ちを裏切ってきたのは事実で、弁解の余地はない。苦笑いを浮かべながら、言葉を飲み込んだ。

 ハルコは無言でペンダントを窓際にそっと置き、僕の見慣れたスマホを手に取った。その瞬間、胸の奥に不穏な感覚が走った。あれは間違いなく僕のスマホだ。彼女は、冷静な声で言った。

「失礼ながら、あなたが気を失っている間に指紋をお借りしました。すべて、事件の捜査のためです」

 事務的な響きだった。僕が抗議する暇もなく、ハルコはさらに続けた。

「その際に、通信履歴を確認し、あなたの交友関係を少し調べさせていただきました」

 胸の中にざわめきが広がる。抗いたい気持ちは山ほどあるが、言葉が出ない。彼女の視線は静かで、冷静さを保ちながらも、どこか感情のこもらないもので、次の言葉を放った。

「レンボさん。あなたはこれまで何度も女性と出会い、そして関係を断つことを繰り返してこられました。それが、ここに転校してきた理由ではありませんか?」

 彼女の言葉は刃のように鋭く胸に突き刺さる。確かに、彼女の言う通りだ。僕がここにいるのは、それに関係している。だが、まるで「刺されて当然だ」とでも言わんばかりの冷ややかな口調は、僕の胸を強く締め付けた。いや、もしかすると僕は、それを受け入れるべきなのかもしれない。あのとき、もし本当に終わっていたなら……。

「なぜ自嘲しているのですか? それは、あなたのせいではありません。すべては、あなたを恋の渦へと巻き込む運命のせいです。それでも、やはり苛立ちますがね」

 彼女の言葉は冷たく、しかし、どこか深い共感が垣間見えるような響きがあった。そうか……運命か。僕は運命に弄ばれているのか? しかし、なぜ彼女がここまで知っている?

 思わず口が動いた。

「どうして君が、そんなことを知っているんだ?」

 その質問を待っていたかのように、ハルコは静かに微笑んだ。

「私の推理力を侮ってはいけませんよ。あなたは、幾度となく女性たちと出会い、その好意を受け入れられず、結果として関係を絶つことになった。そして、その理由で転校を繰り返しているのです」

 言い回しはまどろっこしいが、彼女が言うことはすべて真実だった。僕は言葉を失い、どうして彼女がこんなことを知っているのか、その理由が理解できなかった。

 彼女の瞳は確信に満ちていた。まるで僕が彼女の掌の上に乗せられたかのように感じる。彼女の瞳に捕らえられ、僕は何も言えなくなっていた。

 ハルコは冷静さを保ったまま、腰に手を当て、もう片方の手を天井に向かって掲げた。ゆっくりと指を降ろし、僕に向けた。

「あなたが巻き込まれている現象の名、それは……『主人公症候群』です!」

 その一言が、部屋に静寂をもたらした。耳にはその言葉だけが妙に響いて残る。

「『主人公症候群』……?」

 口にしたものの、意味を理解するには程遠かった。なにが『主人公症候群』だ。フィクションではない現実で、そんなことがありえるはずがない。

「そうです、主体性人格公的影響型症候群、略して『主人公症候群』。私が命名しましたので、あなたが知らないのは当然でしょう」

 その瞬間、全身の力が抜けた。まるで、すべてが彼女の思惑通りに進んでいるかのようだった。

「要するに、あなたの人生はまるで物語のように仕組まれているのです。恋愛面に特化した体質だと言えるでしょう」

 彼女は、まるで長年研究してきた仮説を証明するかのように淡々と語った。僕はその現実に抗うことができず、ただ呆然と彼女の話に耳を傾けるしかなかった。

「そして何を隠そう、私自身も『主人公症候群』にかかっているのですよ」

 その言葉に、すべてが繋がった。彼女もまた、僕と同じ運命に翻弄されているのか……。

「そうです、レンボさん。私、嵯峨島ハルコは、どこに行っても『事件』に巻き込まれる運命にあるのです!」

 彼女は、なぜか誇らしげに胸を張った。


探偵少女ハルコ


出発


 保健室の静寂を破るように、レンボさんはゆっくりと上半身を持ち上げました。彼の顔には痛みに耐える表情が浮かび、その動作からも、まだ回復には遠いことがうかがえます。彼は腹部をそっと押さえ、少し息を吐いてから、静かに言葉を紡ぎました。

「……いや、そんなバカなこと言うなよ。『主人公症候群』だなんて、現実離れしすぎてる。四六時中事件に巻き込まれるなんて、そんなことが現実にあるわけないだろう」

 その言葉には疲れと困惑が混ざり合い、彼はそれを軽い口調で覆い隠そうとしているようでした。私はその言葉に対して、少し首を傾げ、微笑みを浮かべて穏やかに返しました。

「ですが、レンボさん。あなたが四六時中、恋愛に巻き込まれているのも現実的だとは言い難いでしょう?」

 彼の表情がわずかに硬直し、しばらく何かを考え込むような様子を見せましたが、やがて静かに息をつきました。その息には、まるで一瞬にして自身の現実を認めざるを得ない諦めのような響きがありました。

「やれやれ……君が本当に『ミステリ体質』なんてものなら、僕はここから出て行くしかないな。だって、いつまた事件に巻き込まれるかわかったもんじゃないだろう」

 彼の言葉には冗談めいた響きがありましたが、その裏には本気の戸惑いと不安が垣間見えました。それでも、私はその提案に笑みをこぼしながら、穏やかに応じました。

「それでしたら、ご自由になさってください。私は、私のやり方で捜査を続けるだけですので」

 彼が私の手元に目をやったことに気づきました。彼が求めているのは、私が預かっている彼のスマートフォンです。でも、まだ返すには早すぎます。なので、代わりに予備の携帯電話を手渡しました。

「なんだこれ……?ガラケーなんて今時使ったことないんだけど」

 彼の困惑した表情に、私は少しだけ微笑を浮かべました。ガラケーなんて珍しいものを渡されて、どう扱えばいいのか戸惑っている様子が微笑ましいとすら感じました。

「ご安心ください。通話程度なら問題なく使えます。それに、ただの携帯ではありません。少しお待ちを……」

 そう言いながら、私はその携帯を少し操作し、画面に現れた情報を指し示しました。

「ご覧ください。これは『犯罪GO』という機能です。この携帯では、周辺の事件情報が瞬時に把握できるのです。捜査に役立つ便利なツールですよ」

 彼はその説明を聞き終えても、まだ納得がいかない様子で、少しだけ眉間にシワを寄せていました。それでも、しぶしぶそのガラケーを受け取りました。

「さぁ、これで準備は整いましたね。レンボさん、動けるようでしたらご一緒に捜査を始めましょう」

 彼はその言葉に少し反発するような顔をして、私を見つめました。

「なんで僕が動かなくちゃいけないんだよ。少しは安静にさせてくれ……」

 彼の気持ちはよくわかります。先ほどの出来事で心身ともに疲れているのは明らかですし、休息が必要なのも理解しています。しかし、ここで立ち止まっているわけにはいきません。

「いや、本当に少しは安静にさせてくれよ。まだ痛みも残ってるし、立ち上がるのも大変なんだ」

 何より、今ここで彼を独りにすると、また犯人に狙われます。私は一瞬表情を引き締め、もっともらしい理由を取り繕うことにしました。

「レンボさん、それは理解できます。ですが、今はじっとしているよりも、むしろ動いた方が回復が早いのです。特に腹部の傷を負った場合、適度な運動が重要です。無理は禁物ですが、早期に歩行を再開しないと合併症のリスクが高まる可能性があります」

 彼は私の言葉に驚いたように眉を上げた。

「合併症?そんなの、じっとしてた方が治りが早いんじゃないのか?」

 その疑問に対して、私は少し真剣な声で説明を続けた。

「腹部の外傷は、動かずにいると血流が滞り、血栓ができやすくなります。特に深部静脈血栓症や肺塞栓症のリスクが高まることがあるんです。さらに、筋肉が固まってしまうことで回復が遅れることもありますし、内臓の動きも鈍くなってしまいます。軽い動作、特に歩行は血流を促進し、筋肉や内臓の機能を正常に保つために必要なことなんですよ」

 レンボさんは私の説明をじっと聞き、少し戸惑ったように口を開いた。

「でも……動くと傷が開いたり、痛みがひどくならないか?」

 彼の懸念も無理はありません。私はその不安を和らげるように、優しく微笑みました。

「もちろん、無理に動く必要はありません。痛みが強い時には少しずつ動作を始めるべきですが、医療の現場では、傷の回復が始まったら早めに歩行を再開することが推奨されています。適度な動きが体全体の回復を促すんです。ゆっくり歩いて、体が許す範囲で少しずつ動いてみましょう。それが、最終的にはあなたの回復を助けるはずです」

 彼は少し考え込んでいたが、やがて小さくうなずいた。

「……なるほど、そういうことか。なら、少しだけ動いてみようかな」

 彼の顔にはまだ痛みの痕跡が残っていたものの、その目には少しの覚悟と信頼が垣間見えました。私はそっと手を差し伸べ、彼がゆっくりと歩き始められるよう、傍で見守りました。彼は、多少気だるげな様子で私の手を握りました。

「さぁ、捜査に取り掛かりましょう。名付けて、『男子高校生不純異性交遊殺人事件』!」

 その瞬間、レンボさんは驚いた様子で立ち上がり、大きな声を上げました。

「まだ誰も死んでないだろ!」

 彼の声が保健室に響き渡り、私はいたずらに微笑を浮かべながらも、彼が元気そうであることにほっとしました。


恋せよ!レンボ!


ワクドキ!はじめての❤︎捜査開始!


 昼休みを告げるチャイムが静かに鳴り響いた。保健室の扉を静かに閉めた僕たちは、廊下へと足を踏み出した。廊下の向こうから、窓より射し込む柔らかな光が、冷たく滑らかな床に影を描いている。歩くたびにハルコの足音が控えめに響き、僕の隣を歩く彼女は、先を見据えるように視線をまっすぐ前に向けていた。

「レンボさん、本当にこの土地に来られたばかりなのですね」

 ハルコの声は穏やかでありながらも、その裏に探るような響きがあった。僕は彼女の言葉に応じ、曇りガラス越しに広がる校庭をちらりと見やりながら小さく頷いた。転校してからまだ数日、この学校も街も、僕にはまだどこか遠い存在のように感じられている。

「ああ、転校してきたばかりだからね。正直、まだこのあたりのことはよく分かってない」

 ハルコはその言葉に対して微かな頷きを返すだけで、何も言わなかった。彼女の歩調が少しだけ緩み、その瞳には何か深く思案しているような色が宿っている。

「何か、心当たりのある女子高生はいらっしゃいますか?」

 静かな問いかけに、僕は一瞬考え込んだ。朝の登校途中に目にした光景を思い返す。すれ違った人々、立ち止まって話している生徒たち――その中で特に際立った存在があったわけではない。けれど、思い返すと、ふと浮かんだのは、ピンク色の髪が風に揺れていたあの少女の姿と。

「心当たりというほどじゃないけど、今朝、三人くらい女の子を見かけたかな」

 僕は、あの朝の光景を少しずつ脳裏に引き寄せていく。まず最初に思い浮かんだのは、トーストを咥えて全力疾走していたピンク髪の少女。風に舞う髪と、焦りを隠し切れないその姿が鮮明に記憶に残っている。

 次に頭をよぎったのは、商店街の入り口で出会った金髪縦ロールの少女。彼女は着崩れたドレスを身にまとい、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせていた。あのとき彼女は黒服の男たちに追われていて、その姿が妙に印象的だった。

 そして三人目は、川沿いで三つ編みを揺らしながら歩いていた真面目そうなメガネの女子生徒。彼女の表情は硬く、何かに追われているような、あるいは何かを抱え込んでいるように見えた。

 ハルコは僕の言葉を聞くと、表情が少しだけ明るくなった。その瞳に確信の色が宿り、軽く頷く。

「それは良い情報ですね。きっと犯人はその中にいるでしょう」

 僕は思わず足を止め、ハルコを見つめた。結論を出すには、あまりにも早すぎる。どうしてそう思うのか、僕には理解できなかった。ハルコは僕の困惑を感じ取ったのか、少し振り返って微笑んだ。その微笑みはまるで、すべてを見透かしているかのようだった。

「納得がいかないご様子ですね、レンボさん。でも、これまでの経験でわかるのです。事件というものは、関係のない人物が登場することはない――特に、私たちが最初に目にした人々が関与していないとは、まずありえません」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の中にある違和感がさらに強まった。そんな推理で本当にいいのだろうか? けれど、彼女の瞳には揺るぎない自信が宿っていて、その確信めいた言葉に、反論する気力さえ失ってしまう。

「……ミステリの世界じゃあるまいし、そんな単純なものじゃないと思うけど」

 僕はため息をつきながらつぶやいたが、ハルコは小さく首を振った。その仕草は、まるで彼女の中ではもう答えが出ているかのように、穏やかで落ち着いていた。

「経験則というのは、時に最も信頼できるものです。さあ、捜査を進めましょう」

 彼女の言葉に導かれるように、僕は再び歩き出した。


 廊下の先にある階段前で、僕たちはふと足を止めた。古びた階段は静かに存在を主張し、足音の響きを待っているかのようだ。遠くで微かに聞こえる教室のざわめきが、廊下の静けさを一層際立たせていた。

 ハルコは手すりに寄りかかり、しばし風が通り抜けるような沈黙が続く。そして、やがて口を開いた。

「長い髪をした、慌てん坊の子だったとおっしゃいましたね。その特徴からして、成瀬桃乃さんでしょう」

 ハルコがスマートフォンの画面を僕に差し出す。そこには、朝に見かけた無邪気な少女の顔が映し出されていた。鮮やかな桃色の髪、無防備な笑顔――間違いなく彼女だ。

「ああ、確かにこの子だ」

 僕は画面を見つめ、あの騒がしい朝の光景を思い返した。何もかもが突然で、僕の心はまだ混乱していたが、あの特徴は流石に脳裏へ焼き付いていた。

「ですが、成瀬さんは諸事情で今日は学校にはおりません。電話でお話ししましょう」

 その言葉に、僕は軽く首を傾げた。

「諸事情って?」

「成瀬さんは、あなたを刺した容疑で拘束されているのです」

 刺した容疑で? その言葉が頭に響く。朝見たあの無邪気な少女が、僕を刺した犯人? 理解が追いつかない。

「なら、もう事件は解決したんじゃないか?」

 そう尋ねる僕に、ハルコは控えめに微笑んで首を横に振った。

「そんなに簡単にはいきませんよ、レンボさん。全容を解明するためには、まず本人の話を聞く必要があります」

 そう言うと、ハルコは僕のスマートフォンを手際よく操作し、成瀬桃乃の電話番号を入力した。数回のコールの後、留置所の冷たい響きが電話の向こうから聞こえてきた。

「もしもし、こちら留置所です」

「嵯峨島ハルコです。成瀬桃乃さんとお話しできますか?」

 声の調子が一瞬にして変わり、親しげな口調になった。

「おお、ハルコちゃんか! すぐ代わるよ!」

 そのやり取りに驚きながらも、僕はただ見守るしかなかった。ハルコの冷静な振る舞いが、彼女の特別な立場を物語っていた。

「もしもし! わたしでーす」

 明るく能天気な声が電話越しに響き渡る。まるで容疑者の自覚がない。僕は驚きと困惑を隠せないまま、その声を聞いていた。

「こんにちは、ハルコです。事件についてお聞かせ願えますか?」

「おお、ハルコちゃんね! まじぴえんだわー、今回も無罪証明よろしくね!」

 その軽い調子に、ますます僕は困惑した。これが本当に容疑者なのか? しかし、ハルコは彼女の話を受け流すように冷静に続けた。

「ふふふ、どうでしょうね。今回ばかりはあなたが真犯人かもしれませんよ」

 冗談めかして言うハルコの声に、僕はますます混乱したが、ハルコは微動だにせず、平然と成瀬桃乃との会話を続けている。

「えー! そんなわけないじゃん!」

 能天気な声が電話越しに響く。その軽さに僕は、事件性すら疑わしくなってきた。

「それで、どうして捕まったんですか?」

「うん、それがさ、凶器の包丁に私の指紋がついてたんだって! あと、現場に私の髪の毛もあったらしい」

「なるほど、それは決定的ですね」

 ハルコは淡々と頷きながら、冷静に話を聞いている。僕はその冷静さに逆に驚かされた。

「でもね、私そんなことしてないもん! 第一、犯行が起きた時間、私タクシーに乗ってたんだよ」

「アリバイですか」

 ハルコは少しだけ考え込むような素振りを見せたが、すぐにその場を離れ、電話を切った。

「お話はありがとうございました。成瀬さん」

 そう言ってハルコは電話を切り、再び僕に向き直った。

「どうでしたか?」

「どうでしたかもなにも……彼女、あまりに能天気すぎるだろ。これが本当に事件に関係あるのかすら疑わしくなってきたよ」

 僕は頭を掻きながら、ため息をついた。これほど明るく話されると、逆に疑う気持ちが失せる。

「成瀬さんは、よく容疑者として扱われるんです。実際、私は何度も彼女の冤罪を証明してきました。だから今回も、あまり彼女を疑ってはいません」

「そんなに頻繁に容疑者になるなんて、普通の人ならあり得ないだろう」

 僕の言葉にハルコは少しだけ眉をひそめたが、特に何も言わなかった。

「ところで、レンボさん。実はあなたも、署で取り調べを受ける立場なのですが、私の特権であなたの行動は自由にしています」

 ハルコは微笑みを浮かべ、穏やかに告げた。

「やれやれ、君みたいな高校生にそんな権限を与える警察って、大丈夫なのか?」

 僕がそう尋ねると、ハルコは一瞬沈黙したが、その自信に満ちた表情は微塵も揺るがなかった。

 警察からのメールを確認したハルコは、冷静さを装いながらも、目に一瞬の鋭さを宿して立ち上がった。廊下を早歩きし、薄暗いパソコン室の扉を静かに開ける。彼女がファックスの前に立ち、送信音が耳に響くと、僕は思わず言いたくなった。

「僕のスマホを使って警察とやり取りするのはやめて欲しいんだが……」

 彼女は答える代わりに、送られてきたファックスに目を落とす。薄い紙に映し出された証拠写真。それは冷酷な現実を無造作に焼き付けていた。ハルコの無表情さとは対照的に、僕の胸の奥で何かがひんやりとした恐怖を孕む。写真は二枚。一枚目は、血の付いた出刃包丁。柄には古びたブドウの刻印があり、鋭利な刃には僕の血がこびりついている。その光景を見た瞬間、刺されたお腹の傷がじんわりと疼いてきた。

「ウゥ……気分が悪くなるな、これ」
「耐えてください」

 短く冷たく返すハルコは、僕の痛みなど意にも介さず、二枚目の写真に目を向けた。そこに写っていたのは、現場に落ちていた数本の桃色の髪の毛だった。それは、蛍光灯に照らされた無機質な紙の上で、妙に不自然に見える。

「これで決まりだろう?」
「いいえ、そう簡単にはいきません」

 ハルコは包丁に残された指紋を指差した。その指先は揺るがず、冷静に事実を語る。

「よく見てください。親指以外の四本しか指紋が付いていません。この持ち方では、十分な力を加えて人を刺すことはできません」

 その言葉に、僕は言葉を失った。確かに、その指摘には一理ある。ハルコは続けざまに二枚目の写真に指を滑らせた。彼女の目は、まるで隠された真実を一つ一つ暴き出すように細められている。

「それに、この髪の毛です。数が多すぎますし、毛根がすべて残っている。自然に抜けたものではなく、むしろ故意に引き抜かれたと考えるべきでしょう」

「櫛か何かで採取したもの……ってことか?」
 僕の問いに、ハルコは満足げに小さく頷いた。冷たく光る彼女の瞳は、次の手がかりを求めてすでに動き出していた。


 二人目の容疑者に関して、ハルコはすぐに断言した。
「黒服に追われていたお嬢様……おそらく、和泉麗華さんでしょう。彼女は財閥の圧力から逃れて寮生活をしているようですが、時折家族に追いかけられることもあるようです」
 ハルコが見せた写真には、確かに麗華の顔が映っていた。まだ特徴をろくに伝えていないのに、的確に彼女を特定するハルコの能力に驚かされた。

「今はおそらく、校庭で昼食をとっているはずです。行きましょう」
 ハルコの言葉通り、麗華は校庭の木陰で一人、静かにおにぎりを持っていた。彼女の仕草には、どこか余裕と貴族的な品格が漂っている。

「あら、ハルコさん。何かご用かしら?私は今、キャビアおにぎりを片手に優雅なひと時を過ごしているのよ」
 その言葉に、ハルコはすかさず返した。
「キャビアではなくタラコですね。それと、お茶は麦茶ですよね」
 麗華は軽く笑いながら、肩をすくめた。
「まあ、そうですわね。あなたにかかれば、すべてお見通しですものね、ハルコさん」
 軽口を交わす麗華に、ハルコは落ち着いた調子で切り出した。
「さて、今朝の事件についてお聞きしたいのですが」

 麗華は少し表情を変えたものの、すぐに落ち着きを取り戻し、微笑んだ。
「事件……ああ、転校生の男子が刺された件ですわね。もちろん知っています。新学期早々、大騒ぎでしたもの」
 僕はその「男子」が自分だと言い出す気にもなれなかったが、ハルコは僕を指差して言葉を続けた。
「実は、刺されたのはこの方なのですが、彼に見覚えはありますか?」

 一瞬、麗華の動きが止まった。しかし、すぐに何事もなかったかのように言った。
「もしかして……あなた、ゴミ箱に飛び込んでいた方ではなくて?」
 僕は思わず頭を抱えた。まさか、その場面が記憶に残っているとは……。ハルコは、そんな僕の様子を無視して次の質問に移った。
「では、それ以外に彼との接点はないということでよろしいですね。ところで、桃乃さんについては?」
 桃乃の名前が出た瞬間、麗華は一瞬だけ硬直した。

「桃乃さん……?彼女が何か?」
 ハルコは静かに、だが確実に相手を追い詰めるように言葉を紡いだ。
「彼女はこの事件の重要参考人になっています」

 麗華は目を見開いた。
「な、なんですって……桃乃さんが……?」
 その反応を見逃さなかったハルコは、穏やかな笑みを浮かべた。
「その様子からして、彼女との繋がりは深そうですね」
 麗華は少し沈黙してから答えた。
「ええ、彼女は私にとって大切な友人です。彼女がいなければ、私はきっとこの環境には適応できなかったでしょう」

 ハルコはしばし麗華を見つめた後、ふと麗華の鞄に目をやり、ある物を指差した。
「そのヘアアイロン、桃乃さんから借りたものですね?」
 麗華は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに取り繕うように笑った。
「そうですわ。これがなければ、私の髪はいつも通りにセットできませんの」
 ヘアアイロンには桃色の髪の毛が絡まっているのが見えた。ハルコは静かに立ち上がり、礼をしてその場を離れた。

 僕は考え込みながら言った。
「ヘアアイロン……そこから髪の毛が採取されたのか?」
 ハルコは小さく頷き、言った。
「ええ。ただ、気になるのは桃乃さんが他の人にもヘアアイロンを貸していた可能性があることです。実際、他の色の髪も見つかっていましたから」

「確かに、金髪や黒髪も混じっていたな……」
 ハルコは唇を軽く噛んで考え込むようにしてから、ぼそりと呟いた。
「……あなたと一緒にいると、どうも周りの人々の髪の色が派手になっていく気がしますね。おかげで、事件の手がかりも増えるんですけど」


三人目、これが最後の容疑者だ。僕は少し挑戦したくなり、あえて「三つ編み」という特徴を伏せておいた。ハルコがどう反応するか、気になって仕方がなかった。

 ハルコは窓際に立ち、午後の日差しを受けながら、腕を組んで考え込んでいた。教室の中は、静かで落ち着いた雰囲気に包まれているが、ハルコの頭の中は何かが渦巻いているようだった。彼女の目が一度、僕の方にちらりと向けられるが、すぐにまた視線は遠くに戻った。

 「メガネをかけた黒髪の真面目そうな子……。うーん」

 普段なら即座に結論を出す彼女が、今回は少し悩んでいる様子だ。流石の探偵も、これだけの情報では迷うこともあるのか。ハルコが額に手を当て、集中して考え込む姿を見て、僕は微妙な満足感を覚えていた。

 「訛ってましたか?」と、突然ハルコが問いかけてきた。

 訛りなんて、気にしたことがあっただろうか。僕は、その瞬間、彼女の質問があまりにも的外れに感じた。あの時、相手が話していた内容や、言葉遣いなど、全く覚えていない。ただ、僕は首を横に振るだけだった。

 「靴下は白でしたか?」

 靴下?そんなの気にしたことすらない。あの時は、とにかく焦っていたし、彼女の服装の細かいところまで見る余裕なんてなかった。僕は、再び肩をすくめ、ハルコに答えを返すこともできず、ため息をついた。

 「ほくろは?」ハルコがさらに突っ込んできた。

「そんなところまで注目してないよ!」思わず、声が少し大きくなってしまった。ハルコの質問はどれも唐突すぎて、僕には全く意味がわからなかった。

 だが、その瞬間、ハルコの顔がぱっと明るくなり、目を輝かせると、軽く指を鳴らした。彼女の頭の中で、何かが一瞬にして繋がったようだ。

 「なるほど、その特徴からして、紛れもなくあの人ですね」

 いや、どこが「その特徴」なのかと心の中でツッコんだが、ハルコはもう自信満々に歩き始めていた。僕は何も言えず、その後を追う。

 僕たちは校舎の奥にある資料室へと向かった。古びた木製のドアはところどころ剥がれ、長い年月の経過を物語っていた。ハルコは軽くドアをノックし、中からの応答を待った。

「はい?何かご用ですか?」

 扉が開き、現れたのは、黒髪を三つ編みにしたメガネの少女だった。暖かくなってきた季節にも関わらず、彼女は厚手のセーターを羽織り、資料室の中で几帳面に書類を整理している。部屋の中は静かで、ほこりが舞う中、彼女はゆっくりと振り向いた。

「小鳥遊長子さん。昼休みにも関わらず、こんなに勤勉に働いているとはお見それしました。流石は病欠以外、無遅刻無欠席の生徒会長ですね」

 ハルコが微笑みを浮かべながら言うと、長子も軽く頷いた。

「そちらこそ……事件の捜査ですか?」

 彼女の声は落ち着いていて、冷静さを感じさせる。

「はい、そうです。今朝、転校生の男子が刺された事件の調査をしています」

 ハルコは淡々と事件の概要を話した。言葉が落ち着いている一方で、どこか核心に迫る鋭さが感じられる。

「それで、あなたは確か、登校中にレンボさんに話しかけたそうですが……何か面識が?幼馴染とか、命の恩人とか?」

 そんな言い方をしたら、僕が早合点していたみたいに思われるじゃないか!僕は心の中で、苦笑いを浮かべた。けれど、長子は冷静に応答した。

「え?いえ……ただ、転校生に道案内をしようと思っただけです」

 ほら、やっぱり。僕は心の中で勝利感を感じながらも、少しバツが悪い思いをした。

「なるほど、では、容疑者の桃乃さんについて何かご存知ですか?」

 その瞬間、長子の表情が一変した。彼女の顔には、明らかな驚きの色が浮かび、思わず口元が緊張で硬くなっているのがわかる。

「桃乃さん……忘れもしないわ。彼女は、私が喘息で休んだ日に、わざわざ家まで来てくれて、看病してくれたのよ」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の心に一抹の疑念が走った。これほどまでに親切な行動を取る人物が、果たしてそんな大罪を犯すことができるのか?

 長子の目には、次第に涙が浮かび始めていた。その視線が、僕にまで向けられているように感じる。

「どうか、彼女の無実を証明してちょうだい……」

 その懇願の言葉は、まるで切羽詰まったような響きがあり、僕の心に深く刻まれた。

「了解しました。必ず真相を明らかにします」

 ハルコがしっかりと長子の手を握りしめる。その瞬間、何かが二人の間で通じ合ったように感じられた。僕も、二人のやり取りを静かに見守っていた。
 彼女の声には力強い決意がこもっていた。そして、僕たちは資料室を後にした。

「これだけで良かったのか?」と、僕は不安そうに尋ねる。

「ええ、十分です。それに、彼女の反応を見た限り、彼女は犯人ではないでしょう」
 ハルコは、どこか冷静な口調で答えた。そう言われても、まだ何も解決していないという焦燥感が僕の胸に残る。

「今日の捜査はここで終わりにします。丁度昼休みも終わりですしね」

 彼女がそう言い終えた瞬間、校内にチャイムの音が響き渡る。僕は拍子抜けした。あれほど真剣に事件を追っていたハルコが、こんなにもあっさりと切り上げるなんて。

「レンボさん、今日もお疲れさまでした。保健室で体を休めてくださいね」

「やれやれ、誰かさんのおかげで傷が開きかけてるよ」
 僕は腹を押さえながら、やや皮肉めいた言葉を返す。

「それと念のため、犯人が生き延びたあなたを再び狙うかもしれません。くれぐれもご注意を」

 そんなことを言われたら、到底休まるわけがない。釈然としない気持ちを抱えたまま、僕はハルコの後ろ姿を見送り、しばらくその場に立ち尽くしていた。



探偵少女ハルコ


 解決への糸口


 退屈な授業の中、私はこれまでの捜査の情報をひとつひとつ整理しておりました。教室の中は静かで、先生の声だけが機械的に響いています。外では、校庭の片隅で軽く風が吹き、遠くからは体育の準備をするかすかな足音が聞こえてくるだけです。埃混じりの午後の日差しは、黒板に描かれた文字をぼんやりと照らし、机の上に長い影を落としていました。

 私はその光景に心を揺らすことなく、集中を深めていきます。犯人は、確実に一人――それが明らかになりつつあるのです。特に焦点を当てるべきなのは「なぜ凶器の包丁に桃乃さんの指紋が四本しかついていなかったのか」という謎。この点を掘り下げることで、事件の全容が徐々に解き明かされていくのが感じられました。まるで絡み合っていた糸が、一つずつほぐれていくように。

 もし、ここで立ち止まり、読者の皆様が犯人を自力で見つけたいとお思いでしたら、どうぞ一旦お読みをやめ、事件の手がかりをじっくりと再考してみてください。……あれ?私は今、誰に話しかけていたのでしょうか。まあ、それはさておき、このまま続きを進めましょう。



恋せよ!レンボ


 釈然としないこの思い……これってもしかして!


 いつも思うが、僕が主体になるとタイトルがどうにも冴えない。けれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。学校を出た後、僕はまっすぐ古びたアパートへと戻った。鍵を開け、ドアを押し開けると、かすかに軋む音がした。狭い部屋の中には、引っ越し時の荷物がまだ片付けられずに段ボールがいくつも無造作に積まれている。家具といえば、小さなテーブルとベッドくらいで、生活感のない、どこか殺風景な空間だ。

 僕はその段ボールの一つに手を伸ばし、中身をかき回す。必要なものは決まっているが、それを見つけるまでの手探りが面倒くさい。段ボールの中から取り出したものをベッドに無造作に放り投げながら、やっとのことで目当てのものを手に取った。ひとつ、ふたつ……数えていく。これで十分だろう。ひとまず、今日必要な物は揃った。

 そんな時、不意にポケットからすべり落ちた小さな音が耳に届いた。ハルコから渡されたガラケーが床に転がっていた。時代遅れのガラケーだが、ハルコが渡してくれた以上、無下にはできない。せっかくだから少し触ってみるか、と思い立った僕は、その小さな端末を拾い上げた。

 ガラケーの感触は、スマホと違ってどこか懐かしい。久しぶりに触るキー操作に、指先がぎこちなく動く。慣れていないその感覚が、ちょっとした手間のように感じられた。手探りでメニューを開き、ハルコが「犯罪GO」と呼んでいたアプリを起動してみる。どんな内容なのか想像もつかないが、彼女の口ぶりから察するに、かなり風変わりなものに違いない。

 起動したアプリは、古びたグラフィックで構成された地図を表示していた。低解像度の日本地図に、事件を示すアイコンがいくつも点在している。画面の古さが、かえって一層異様な雰囲気を漂わせていた。そのアイコンをタップすると、事件の概要が次々とポップアップで表示されていく。


『猟奇!花婿バラバラ殺人事件!』

発生場所:◯◯県某結婚式場
概要:警部の結婚式に出席していた私。その隣の結婚式で、花婿がバラバラにされる惨劇が……!真相は、サプライズ演出が誤って命を奪い、その遺体を他殺に偽装していた式場スタッフの陰謀でした。幸せの絶頂が、一瞬にして悲劇に変わる様子が胸に突き刺さり、思わず涙が。


『第二の三毛別熊事件!?連続羆嵐事件!』

発生場所:◯◯県山間部
概要:私が山奥でキャンプしていた時に遭遇した事件。その恐ろしい真相は、熊に見せかけた人間による他殺でした。始末した遺体を蜂蜜まみれにしてまで熊の凶暴さに偽装した凄惨な計画……まさしくホラーの極み。


『お家騒動!?お世継ぎ連続殺人事件!!』

発生場所:◯◯県××村
概要:麗華さんの親戚宅で発生した家族間の連続殺人事件。代々続く家のしがらみの中、兄弟姉妹が自らの死を偽装し、先祖のミイラを使って罪を押し付け合う。歪んだ執念が生んだ壮絶な計画でした。まさに、陰鬱で残酷な金田一級の陰謀撃!


 携帯を持つ手が、ぴたりと止まった。コミカルな表現で誤魔化されているが、目の前に並ぶ事件の概要は、どれもこれも異常なまでに凄惨で、無慈悲なほどに冷酷なものばかりだった。しかも、それらすべてがハルコが直接巻き込まれた事件だというのだから、なおさら胸がざわつく。彼女が体験したその一つ一つの悲劇。その背後に潜む現実を想像するだけで、血の気が引いていくような感覚があった。

 画面に目を落としたまま、次々と表示される事件をスクロールする。猟奇殺人、連続襲撃、復讐……。それらがまるで普通のことのように語られているのが、なおさら異様に感じられた。ハルコはこういった恐ろしい出来事に、日常的に巻き込まれているのだ。それにもかかわらず、彼女は普段の快活な姿を保ち続けている。

 「どうしてそんなことができるんだ……」

 その疑問が、自然と胸の奥から湧き上がる。目の前のスマホには、次々と続く事件の記録。読むだけで胸が重くなり、背筋が冷たくなるのに、彼女はそれを自らの身で体験し、そのすべてを乗り越えてきた。それでもなお、ハルコはあの独特の笑顔を見せ、どんな困難にも立ち向かっていく。彼女の強さは、尋常ではない。

 もし、僕が彼女の立場に立たされたなら……。

 その思考にふけると、背中に冷たい汗がじわりと浮かび上がった。無理だ。僕には到底耐えられない。目の前に広がる残虐な現実を目の当たりにし、次々と人々の恐ろしい一面に触れ続ければ、きっと精神は壊れてしまうだろう。それに加えて、いつ自分が標的になるかも分からない状況。心が休まる瞬間など、どこにもないはずだ。

 それでも、ハルコは前を向いている。

 その姿勢が、彼女の強さなのだと分かってはいる。だが、彼女のその強さが、どれほど孤独であるかも理解してしまった。彼女が耐えているもの、その背負っているものを、誰かと分かち合うことはできないのだろうか。そのことを考えると、どうしようもない衝動に駆られた。彼女に手を差し伸べたい。自分もその強さの一部になり、彼女を支えたい――そんな甘い考えが、頭の片隅をよぎってしまったのだ。

 けれど、僕はその考えをすぐに打ち消した。

 それは、ただの自己満足に過ぎない。僕のような人間が、無神経に彼女の領域に踏み込んでしまえば、きっと彼女をかえって苦しめてしまうだろう。僕が軽々しく彼女の孤独に触れることで、また誰かを振り回し、傷つけてしまうのは目に見えている。それを防ぐために、僕はもう一度自分に言い聞かせる必要があった。

 「恋するな、レンボ……!」

 声には出さず、心の中で強く念じる。自分自身にブレーキをかけるのだ。そうしなければ、僕は僕を保てなくなる。彼女のことを思うたびに、少しずつ心が揺らいでしまう自分を抑え込まなければならない。だからこそ、あえて彼女とは一定の距離を保ち続けるべきなのだ。

 それでも、胸の内に広がるこの感情は、一体何なのだろう。ハルコに対するこの気持ちを、名前のつかないまま心の奥底にしまい込む。自分の感情に素直になればなるほど、誰かを傷つけることになる。だから、僕は自分に嘘をつき続けるしかないのだ。






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ラブコメ主人公で女の子からよく告白されるんだが、身の回りで殺人が起きまくるミステリ主人公の少女と出会ってしまった @Miyazawaaaaaaaaa

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