エナドリ

まくつ

翼を授ける

 八月末の夜が嫌いだ。

 理由は簡単。中途半端だから。

 酷暑の時期はまだいい。エアコンが無いと眠れないのだから躊躇なく文明の利器に頼れる。九月の終わりにまで差し掛かればエアコン要らずの快適な夜を過ごす事ができる。しかし、八月末のこの時期はどうにも厄介だ。暑くも無ければ過ごしやすくも無い。どっちつかずの空気に腹が立つ。

 エアコンを付けてしまえばいいのかもしれないが、無駄を好まない私の性格上無理な話だ。窓を開けて自分の部屋より涼しい風が流れ込んできた時の絶望感には耐え難い何かがある。


 今日はまさにそんな日だ。日中の最高気温は32℃。現在の気温は26℃らしい。もっとも、部屋の中の温度計は29℃を指している。問題なく耐えられるのだが決して気分は良くない空気。最悪だ。

 とりあえず扇風機を付けてみることにした。四枚羽の回る、フォーンって感じの間の抜けた音と共に、後ろで雑に束ねた髪を風が揺らした。暑さは少し和らぎ、悪くない気分だ。再び解きかけの問題に目を落とした。



 ◇◆◇



 目が覚める。額に何やら固い感覚。ぼんやりとした目を開けると視界いっぱいにまっさらなノートが広がっている。額に当たっているのは消しゴムあたりだろう。どうやら寝落ちしてしまったようだ。

 覚束ない頭を動かして時計を一瞥する。時刻は午前三時。最悪の時間だ。今から寝たら起きるのは十時頃だろう。それなら、このまま今日という一日を始めてみるのもいいかも知れない。


 机の下を漁って、翼を授けるってフレーズで有名なエナジードリンクを掴む。寝ぼけていたため何度か失敗しながらも何とか封を開けた。カシュッという心地よい音が狭い部屋に響く。この音を心地よいと思ってしまうあたり、私もつくずく残念な生活を送っているものだと思う。

 しかしそんな事を気にしていたら埒が明かない。呷るように一気に喉に流し込んだ。シャワシャワとした炭酸の刺激が口内から喉まで、消化器官を超えて全身まで、電撃が光のスピードで駆け巡る。焼き付くようなその感覚。あっという間に目が覚めていくのを感じる。目が覚めるついでにエネルギーとカフェインを摂取できるなんてなんて素晴らしい飲み物なのだろうか。


 立ち上がり、呑み終えた缶を慎重に、部屋の隅のうず高い塔に積み重ねる。カタンという小気味いい音が深夜の静寂を際立たせた。不健康の極みを象徴するかのように部屋に聳え立つエナドリタワーも立派になったものだ。そろそろ天井に届くだろう。ガウディもびっくりの高層建築。サグラダ・ファミリアだって敵わないんじゃないか。

 しかし満足感は無い。塔を作ってるのはゴミ捨てをサボる口実にすぎないのだ。ものぐさな自分を誤魔化しているだけ。積み重ねると言うより罪重ねるという言い方の方が適切だろう。


 溜息をつきながらベッドに寝転がって、ぼんやりと考える。ここ数ヶ月の毎日を総括するなら、惰性の二文字がぴったりだ。そつなく過ごしているが私の意思はない。ただ呼吸をしているだけ。ただ心臓を動かしているだけ。植物と何も変わらない。

 大学一回生の夏休み。将来にとってどれだけ大事な時間かというのは言うまでもないだろう。それなのに、私は惰性のままに息をするだけ。


 一人暮らしを始めてからずっとこんな日々だ。趣味と言えばエナドリの新商品チェックくらい。適当に勉強して、適当に飯を食って、適当に遊ぶ。60点くらいのしょーもない毎日。八月末の夜みたいな中途半端な人生。

 あーあ。楽しくない。ただ生きているだけなんて、死んでいるのと何が違うんだろう。


 このまま何も成せずに朽ちていくんだろうか、なんて漠然とした不安に押し潰されそう。焦燥感に負けついエナドリに手が伸びてしまうあたり、私も末期のカフェイン中毒だ。私は絶対に酒を飲んではいけないタイプだろう。

 カフェインはセーフ。そう自分に言い聞かせて、タプタプと囁くエナドリの缶を撫でる。耐え難い誘惑。洗練されたデザイン。すべすべとした質感に吸い込まれるような感覚を覚える。数多の人間を籠絡する不思議な魔力がこの小さな缶に詰まっている。


 ふと、手が滑った。


 ゴトン、コロコロ、ゴロゴロ。エナドリの転がっていく先はエナドリタワー。動くこともできず視線だけで缶の行先を追う。体が硬直して何もできない。


 確信が舞い降りてくる。あの缶はストライクを成し遂げるだろう。予想ではない、確定した未来が見える。


 コンカラカンコンッ

 ガラゴロコンカランッ


 私の目が捉えたのは、数ヶ月間の積み重ねが一瞬にして崩壊していく光景だった。全てがはっきりと、スローモーションに見える。小気味よい音にも関わらず、圧倒的な絶望感。そのまま私の意識は闇に沈んだ。



 ◇◆◇



 目が覚める。虚ろな眼を動かすと、眼の前に小さな女の子が三人いることに気がついた。丁度、缶ジュースくらいの大きさだ。


「レットブルっす!」

「モンスターだよ!」

「ゾーンですわ!」


 自己紹介。あまりにも聞き慣れた名前達だ。


「エナドリじゃん」

「「「妖精!!!」」」


 揃った声で否定された。妖精か。まあそういう事にしておくとしよう。この子たちがエナドリであろうと妖精であろうと私には関係ない事だ。


「私達の出番は無いようだね!」

「そうですわね。レッドブルさん、あとは任せましたわよ!」


 そう言って『モンスター』と『ゾーン』は消えた、一体何だったんだよ。


 後に残されたのは『レッドブル』一人だ。一”人”と呼んでいいのかは分からない。一”妖精”の方が適切なのだろうか。

 残ったのが『レッドブル』である理由には心当たりがある。私は反エナドリ差別主義者だが、強いて言うなら翼を授けてくれるアレを愛飲しているのだ。あの赤い牛は量が丁度いいのと期間限定フレーバーが美味しいから贔屓にしている。

 妖精さんレッドブルは自慢の翼で私の眼前まで飛んできて、言った。


「アナタ、堕ちるっすよ?」

「ほえ?」


 間抜けな声が出た。突然現れて「堕ちる」とは無礼な奴。しかし、心当たりがあるのも事実だ。こんな風に言われるなんて、エナドリの飲み過ぎしかない。ご機嫌をうかがうように小さな女の子に話しかける。


「このままエナドリを飲むのって、やっぱりまずい?」

「当たり前でしょ。現状で人間の許容量ギリギリ攻めてますもん」


 妖精さんはため息をつきながら言った。


「アタシが言うのも変ですけど、エナドリなんて飲まないに越したことないっすよ」

「それはそうだね」

「だったら何で」

「飲まないとやってられない」

「馬鹿っすね。せめてライフガードで我慢してりゃいいのに」

「あれはカフェイン入ってないから…」

「じゃあジャングルマンでいいじゃないっすか。ウチよりチェリオの方がよっぽど健康的っすよ」

「分かってる。それでも私には、エナドリしかないから」

「救いようのない馬鹿っすね」

「それも分かってる」


 そこまで食い下がると、レッドブルを名乗る妖精さんは面倒くさそうに言い放った。


「あーもう。面倒なんで、本題に入るっす!」


 そう言って『レッドブル』はパチンと指を鳴らす。軽快な音が部屋に響き、体が軽くなる感覚を覚える。

 背中に違和感を感じた。窓ガラスに映る自分の姿をよく見れば、私の背には――


「……翼?」

「アタシは翼を授けるのが仕事ですから」


 いや、確かにキャッチコピーは「翼を授ける」だけど。比喩だろそれは。現実は翼が生えることなんてあるはずがない。あり得ないんだ。


「伊達や酔狂でエナドリやってませんよ。翼を授けるって言ったら絶対に授けます」

「はあ、なるほど。それでどうなるの?」

「へ?」


 妖精さんレッドブルが素っ頓狂な声を出した。理解ができないといった様子で答えてくれる。


「どうなるも何も、飛べばいいんすよ」

「そう言われても、どこに行けばいいのやら」

「そんなの、アタシの知った事じゃないっすよ」


 妖精さんは手をひらひらと振る。心底面倒くさそうだ。


「アタシの仕事は翼を授けるだけ。それをどう使おうがアナタの自由っす」


 その言葉にハッとした。私は、慣性に任せて滑空しているだけだ。風という外的要因に己の身を委ねて、自分の力を使っていない。だから、いずれ「堕ちる」んだ。

 私は、飛んでいないんだ。それは自分の意思で生きていないのと同義。


「まあ太客さんに一言だけアドバイスをするなら――」


 妖精さんは頭を掻きながら言った。


「翼は、羽ばたかせないと空へと舞い上がれないっすよ」

「……少し分かった気がするよ」

「それじゃ、素敵な飛行フライトを!」


 再び意識が飛んだ。



 ◇◆◇



 カランッ


 目が覚める。身体を動かすとカラカラと乾いた音が鳴った。背中が痛い。

 鉛の瞼を開くと、かつての“エナドリタワー”改め“エナドリ缶の海”に寝転がっていることが分かった。手を伸ばすとエナドリ。脚を動かすとエナドリ。何をどうしたって周りはエナドリだ。

 さっきまでのは夢だったようだ。それにしては記憶がはっきりしている。それに心なしか体が軽い。


 色々考えても答えは分からず、エナドリの臭いが充満した生温い部屋は何も変わらない。ただただ、私とエナドリがあるだけだった。結局、私はエナドリから離れられないんだろう。

 カーテンを引くと水色の空が広がっている。朝がやってきたのだ。清々しい風が部屋に流れ込んできて、生温い空気を押し流していく。そういえば、今日から九月だった。


 きっとあれは、エナドリの妖精さんだったのだ。自分にそう言い聞かせる。別に正体なんて何だっていいのだが、妖精の方が浪漫があるというだけ。

 少し迷って、エナドリを手にした。真っ青な通常フレーバーに手が伸びたが、やめる。朝日を受けて私の手に輝くのは早朝の空と同じ水色の缶。レッドブル・シュガーフリーだ。

 エナドリとの歪な縁はまだまだ続きそうだ。それでも、まずは小さな一歩から。少しずつ変えていけばいい。私は飛び方を知ったから。


「さあ、飛ぼうか」


 翼を広げるべく、プルタブに爪を引っ掛ける。


 衝動に任せて、勢いよく引っ張った。


 カシュッ

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エナドリ まくつ @makutuMK2

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