Ⅱ 城

 

 後頭部が痛い。あと肩も。

 もう大丈夫だ、セルヴィン。

 乗り心地のよい馬車の中の長椅子に横たわり、聴き心地のよいスタニスラフの声を聴きながら、俺は彼に膝枕をされていた。

「水を呑みなさい、セルヴィン」

 馬車の外の風の音。毛皮を敷いた座面と瀟洒な内装。こっちが本物のオーラミュンデ伯爵家の馬車だ。最初から少しおかしいとは想っていたんだ。グレゴリオ筆記具店に迎えに来た馬車はみすぼらしいというほどではないが、簡素すぎて、辻馬車みたいだったからな。

 見事な魔法だった、セルヴィン。

 スタニスラフがそんなことを呟いている。まるで自身はたいしたことがないかのような科白。あの強烈な連続魔法はあなたが放ったものだろ。俺がいなかったらあの馬車は空中で跡形もなく消し飛んでたぞ。あれだけやっておいて、よく云うよ。



 眼が覚めると天蓋つきの寝台に寝ていた。大人が三人くらい横になれそうな寝台だ。後頭部には氷枕をあてられている。

「気が付いたか」

 渋い声をした魔法使いが歩み寄ってくると、やや乱暴に俺の頭に手を触れた。その次に俺の眼をみて、そいつは俺に質問した。

「お前の名は。年齢は。そしてわたしは誰だ」

「セルヴィン・ヤッシュ。夏至の日に十七歳を迎えた棄児。あなたはイスドナウ棄児院の嘱託医ドクトル・サリエリ」

 ドクトル・サリエリ。

 一気に眼が覚めた。ここはイスドナウ棄児院なのか。

「イスドナウではない」

 渋い男前のドクトル・サリエリは俺の疑問に先廻りした。

「わたしはたまたま空中馬車の事故を目撃して、医師の義務として駈けつけたのだ。すると馬車の中にお前がいたというわけだ。此処は何処なのか教えてやろう。オーラミュンデ伯爵家の城だ」

 俺は今朝オーラミュンデ伯爵家からの迎えの馬車に乗ったつもりで、違う馬車に乗ってしまったのだ。おそらくは騙されて。そして結果的に当初の目的地であるオーラミュンデ家の城にいるらしい。

 ドクトルは黒い革鞄を手にした。帰るようだ。あんなことのあった後だし、知らない場所に独り残されるのは少し心細い気がする。

「ドクトル」

「わたしは箒に乗って無医島に往診に行くところだったのだ。もう行かなければならない。頭を打ち付けたことで瘤が出来ているがすぐに治る。念の為に一晩は安静にしておけ」

 そのまま去るかにみえたドクトル・サリエリはぐるりと引き返してくると、寝台の脇卓に何かを置いた。

「ウィスタ・ラヴィニアはお前からの手紙をとても喜んでいた。レニオン・ベンダランがお前が財布を掏られたと方々で喋り回っている。イスドナウ出身の棄子が文無しでは外聞が悪い。これは貸しておく」

 ドクトル・サリエリは立ち去った。俺はそろそろと半身を起こして小卓を見てみた。そこには無理なく返済できる程度の金が置かれていた。

 俺はドクトル・サリエリへの敬意と感謝の意を表明するために、安静にしろと云われたとおり静かに寝ておくことにした。



 翌日になると俺はすっかり元気になっていて、氷枕のお蔭か頭の痛みも腫れも引いていた。運ばれてきた朝食も全部たいらげた。

「若君より、衣裳を貸してやれとのことです」

 キューリア・バニラの勤め先で新調した衣は、あの闘いの最中どこかに引っかけてしまい、釦も飛んで裂けてしまったのだ。

「ただいま洗濯の上で縫い合わせております。その間はこちらをお召しになって下さい」

 入浴の後、召使たちが寄ってたかって俺を飾り立てた。それも一度で終わるのではなく、あれもこれもと鏡の前で顔映りの確認を繰り返す。刺繍のすごいものまで出てきた。皇帝の前に伺候するんじゃないんだからさ。

「よくお似合いでございます」

 鏡の中の俺はお飾りの儀仗兵みたいだった。最終的に一番さっぱりした室内着の上下を俺が選んでそれにした。ゆとりがある造りで、実際に着ると肩幅のきつさが気にならないのがそれしかなかった。お貴族さまの身につけるものは全て寸法をはかって仕立てるのだから、いくら体型や身長が近くても袖を通すとやっぱり全然違うのだ。

 城といっても城郭があったり崖の上に建っているわけではなく、居住性を重視した館の豪華版だった。貴族がよく住んでいるやつだ。清流の流れ込む湖が近く、どこの窓からも絵画のように青い湖面が静かにおさまっている。

 療養所。

 最初に俺の頭に浮かんだのは何故かその言葉だった。

 昼食は食堂に案内された。俺ひとりにつき給仕が三名ついた。話しかけられない限り話しかけてはこないのが彼らの流儀なのだからしんとしているのはしょうがないとはいえ、端から端を見るには首を大きく振らなければならないこの細長い食卓の席がかつて招待客で埋ったことはあるのだろうか。


 午後遅くになって、ようやく若君と対面が叶うことになった。グレゴリオ筆記具店に遣いにきたあの執事のマグヌスが俺を別棟へと案内した。客人未満、使用人以上というよく分からない立場に俺がなっているせいか、こういう時の執事は何も云わないものらしい。「あちらへ」と廊下の突き当りの扉へ向けて丁重に腕を伸ばすと、マグヌスはそこから動かず、あとは俺ひとりで行けということらしかった。

「失礼します」

 扉を叩いて入室しようとすると、向こうから扉が大きく開いた。そこには見知らぬ若い魔法使いがいた。黒髪でちょっと濃い顔をした美丈夫だ。

「やあ。君がセルヴィン・ヤッシュか」

 左右に視線をそらした俺を見て、その男はくすりと笑い、「部屋はここで合ってるよ。入りたまえ」

 俺を通すために横に退き、その男は室内に向けて「また後で。スタニスラフ」と力強く声を掛けると、俺の背後で扉を閉めて出ていった。

 そこは温室だった。温室のように見えた。壁のほとんどが天井から床まで硝子張りなのだ。北側なので眩しいというほどではないがとても明るい。

 磨かれた白い床の中央に、若君スタニスラフ・フォン・オーラミュンデは立っていた。

「今のはわたしの学友で、バルタゼル・メルヒントンというのだ」

 スタニスラフは、やわらかな笑顔を俺に向けた。学友。ということはスタニスラフは学校に通っていたのだ。貴族の子弟はたいてい伝統的な寄宿舎学校に通うものだが、スタニスラフが大勢の学生の中にいる様子が想像できない。

「ドクトル・サリエリは大事ないと云っていたが、気分が悪くなったらすぐに云いなさい」

「もう平気です。お呼びにより参りました」

 硝子窓には日除けの紗が緞帳のようにかけられている。床まで垂れ下がったそれを透かして、庭に遊ぶ蝶や鳥の影がときおり切り絵のように薄く過ぎていた。

「もう少しこちらにおいで」

「失礼します」

 俺は近づいた。ちょっと心配なのは、若君の顔色がよくないことだ。もっとも初対面の時からこうだったかもしれない。執事マグヌスの口から病弱だときいたせいなのだろう。

 白金の髪の若君はこちらを向いて立ち、俺が近づくのをその青灰色の眼で待っていた。シジッタ地区で逢った時、スタニスラフは黒い外套を羽織っていたが、今はその替わりに俺がいま着ているようなゆったりした衣と、肩から軽い羽織をかけている。人間界では貴族のことを「青い血」と呼ぶんだよな。日焼けするような仕事をしないせいで膚に静脈が透けて見えるからだ。スタニスラフの若君は、お育ちが違うせいもあって植物っぽいというか、中性的な感じがする。とはいえ声音はしっかりとした男のものだし、墜落寸前の馬車の中から俺を引きずり出すほどに力強いのだからその印象は失礼だろう。

 それにあの魔法。

 馬車の中から辛くも迎え撃ったが、あの時の彼の魔法の強さには肝が冷えた。あんなにも強い魔法使いには初めて逢った。

 俺はお辞儀をした。

「グレゴリオ筆記具店に勤めておりますセルヴィン・ヤッシュです。先日はシジッタ地区にて、そして昨日は空の上において、危ないところを救けていただきありがとうございました」

 スタニスラフは「おやおや」という顔付になった。

「初対面の折には無礼な態度をとりましたことをお赦し下さい。スタニスラフさま」

「敬称不要」

「スタニ……」

 呼び捨てなんてかえって難しい。

 俺が「スタニスラフ」とすらっと云えるようになるまで、スタニスラフは知らん顔をしており、俺に一切返事をしなかった。

「スタニスラフ」

 隣室に一度引っ込んでからもう一度俺の前に出てきたスタニスラフにようやくそう云うと、「それでいい」とスタニスラフは頷いた。

「あらためて、わが城にようこそ。さて、わたしたちは互いを少し知らなければ」

 スタニスラフは呼び鈴を鳴らした。控室からすぐに召使が顔を出す。

「お茶に好みがあるなら云いつけなさい。甘いものは好き、嫌い、どちら」

「甘いものはあれば食べるという程度です」

「しかしご婦人ではないのだし、君はまだ食べ盛りだろうから、軽食の方がいいだろう。庭の樹の下に用意を」

 俺を連れてスタニスラフは庭に出た。温室みたいな部屋からは低い階段を使って庭に直接でることが出来るのだ。

 どこの城も似たようなものだが伯爵家の領地も広大だった。湖を借景にしているのと、その先が森に繋がっているせいで、ほぼ孤立した感がある。

 大きな樹の下に卓と椅子が並べられて、お茶と軽食がはこばれてきた。一口で食べられそうな小料理や菓子をのせた小さな皿が塔になっている。俺は或ることに気が付いた。召使は全て魔法使いだ。魔女の使用人がいる気配がない。ということは、この家には女主人や令嬢がいないだけでなく、女の客も来ないのだ。

 午後の陽ざしと湖を渡る涼しい風。庭の大樹の下で二人きりになると、スタニスラフは自ら俺に茶を淹れてくれた。

「グレゴリオ筆記具店には遣いをやった。馬車の故障により、君がこちらに一泊すると昨日のうちに伝えてある」

「俺が乗りこむ馬車を間違えたせいで、ご迷惑をおかけしました」

「それについては、こちらに全責任があるのだ」

 スタニスラフは申し訳なさそうに眉を寄せた。

「シジッタ地区に君の母がいると君に教えた男。その男の名を、君の口から初日にきいたね。その魔法使いについて調べさせていたのだが、あちらはそれに気がついて、君の略取誘拐に踏み切ったようだ」

 俺は軽食を食べている手を止めた。なんで俺が誘拐されるのだ。もしかしてあのシジッタリアンの悪党が云っていたように、俺を生け捕りにして魔薬作りのばばあに肝を売りつけるのが目的なのだろうか。



》Ⅲ

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