Ⅲ 謎


 湖を渡ってくる風が涼しい。湖岸までは庭続きだ。樹々を抜けてゆるやかな坂を降りていけば湖畔に辿り着く。

 店の配達で大豪邸自体はそこそこ見慣れている。解放的な邸宅では俺が屋敷の裏手に配達に伺うや否や、「セルヴィンだ」と子どもたちが走ってきて手を引っ張るし、

「申し訳ないわねセルヴィン。あなたの箒を見かけたものですから。少し遊んでやってちょうだいな」

 母親公認のもと、屋内に案内されることもある。なんといっても棄児院は子どもだらけだから、幼児の相手はお任せあれというほど、俺は本職の子守りよりも子どもの相手をすることに長けているのだ。フーゴーさんのところの二男ローランドと三男ブルーノはもうそんな歳ではないからその必要はないにせよ、店に親子連れが来店すると、「いない、いない」から始まって、親が買い物をする間、ずっと相手をしてやれる。

「精神年齢が同じ者に子どもは懐くというわよね」

 キューリア・バニラからは冷たい眼で見られているが、「セルヴィンに子どもを預ければ、ぐずって泣いている子でも笑い出す」と評判をとっているほどなのだ。

 庭の芝の上を小さな栗鼠が走る。スタニスラフはおっとりと茶を一口呑んでいた。そういえば若君、歳は幾つなんだろう。

「二十六」

 九歳違いだ。え、そんなに違うのか。

「その服は君にあげよう。よく似合う」

「ありがとうございます」

 木陰にいるせいか、スタニスラフの顔色はさらに血の気なく見える。弱々しい感じは全くしないが、彫刻みたいだ。

「なにか」

「執事のマグヌスさんからお身体が弱いときいています」

「ああ。多少ね。たまに。疲れると」

 若君は髪をかき上げた。今日は一つに束ねておらず、胸のあたりまで髪をおろしている。

 伯爵家の迎えを装い、あの馬車に俺を乗せた者たちの目的は何だろう。そういえば、彼らはどうなったのだろう。

「馬車もろとも墜死した」

 さらりとスタニスラフが口にしたので、俺もそれ以上、追及はしなかった。

「若君」

 スタニスラフと呼び捨てにするのはやはり難しい。若君と呼ぶことにした。

「若君。俺が、俺の母を探すことに、何か問題でもあるのでしょうか」

「場所が悪い。セルヴィン、君は母上のことをどれほど知っているの」

「何も知りません」

 俺は棄子なのだ。知るわけがない。知っていたらとっくの昔にそれを手がかりにして母を探している。

「少し想い出があるだけです」

「君が知らないことを、わたしや他の者は知っている。だが、まずは君がどうしてシジッタ地区に踏み込んだのか、そこからあらためて教えてもらおう」

 断る。

 という選択肢はやはり俺にはないのだ。

 


 シジッタ地区に母がいると知ったのは、十七歳になった夏至の日だった。グレゴリオ筆記具店でフーゴーさん一家に祝ってもらった誕生日。その日、俺の許には一通の封筒が配達されてきた。

 差出人は、ドクトル・クローヴァス。イスドナウ棄児院のかつての嘱託医だった人物だ。

 棄児院にいる間、俺は通算で三名の医師にかかっている。ドクトル・サリエリ、その前任のドクトル・エッケハルル、さらにその前のドクトル・クローヴァス。

 クローヴァスとサリエリは師弟関係で、その縁で、クローヴァスからエッケハルルを一つ飛ばした後任がドクトル・サリエリになった経緯がある。といっても、ドクトル・クローヴァスについては俺がほんの小さな頃に次のエッケハルルと交代したため、記憶には殆ど残っていない。

「ドクトル・クローヴァス」

 それ故に、俺は差出人をみてもまったくぴんと来なかった。名だけでなく顔すら憶えていなかった。

「こんにちは。ご注文のあった自家製果実酒の配達に来ました」

「あなたも今日が誕生日でしょレニオン。ちょっと食べて行きなさい」

 裏口に配達に来て、無理やりバルバラさんに誕生祝いの席に引きずり込まれたレニオンも同様だった。

「ドクトル・サリエリの前のドクトル・エッケハルルの、その前のドクトルだろ。おじいちゃん先生。クローヴァスなんとかかんとかエガハルト、略して、ドクトル・クローヴァス。ドクトル・サリエリとは師弟関係だそうだ」

「よく憶えてるな」

 しかしレニオンの記憶力もそこまでだった。俺たちの代だとドクトル・クローヴァスの想い出はほとんどない。そこで後日、イスドナウ棄児院の先輩にドクトル・クローヴァスについて訊いてみた。箒職人として一本立ちしている先輩いわく、愛想のなさはドクトル・サリエリの比ではなく、いつ見ても怒りを内に秘めているような、ぴりぴりした老人だったそうだ。

「魔法界の医術大学では教授まで勤め上げ、医師としての腕前は確かだったらしい。しかしそんな性格では街の開業医などは無理だろう。だから退官して一線を退いた後は、医師の駐在していない辺境や棄児院を巡回していたみたいだな」

「ドクトル・サリエリなんてまだ若いのに同じことをやっているぞ」

「サリちゃんもそうだけど、両名とも性格が明らかに小児相手に向いてないよな」

 イスドナウ棄児院の庭の片隅には枝葉のほとんどない痩せこけた背の高い樹が一本立っている。それが「クローヴァスの樹」と呼ばれていた。もちろん、俺よりも先代の棄子がその樹にその綽名をつけたのだ。あいつにそっくり。


 届けられた封書を開封する前に、俺はしばし悩んだ。まず最初に人違いを疑った。同姓同名のセルヴィン・ヤッシュ宛ではないのか。

 または、もしかしてドクトル・クローヴァスは、関わった全ての棄子が十七歳になったらお祝いのカードを送ることにしているのかも。後で仲間に確かめてみよう。

 無理やり自分を納得させて、俺は封蝋を破り、紙片広げてみた。封筒の宛名はとにかく俺なのだ。

――――――――――――

 セルヴィン・ヤッシュくん

 十七歳の誕生日おめでとう。夏至の日にあわせてこれを送る。君が何処にいようとこの手紙が転送されるように魔法をかけておいた。

 全ての生物に母がいるように、君にもまた母がいる。シジッタ地区の黒聖母堂を訪ねなさい。

   ドクトル・クローヴァス

――――――――――――

 俺が叫んだのは手紙の内容ではない。読み終えるなり、冒頭の俺の名まえの部分から文字がめらめらと青く燃えだして、虫食いのように穴が開いたかと想うと、手紙全体が発火したからだ。

 愕いて手放した手紙は床に落ちるなり、断末魔の黒蝶のように踊りながら焦げた破片へと変わり、瞬く間にばらばらになってしまった。

 まず最初に考えたのは、俺がグレゴリオ筆記具店に勤めていることを知っている者からの手の込んだ悪戯ではないかということだった。そこで俺は棄子仲間の面々を想い浮かべてみたが、あまりこういう凝ったことをやりそうな奴はいない。さらには、ドクトルからのそんな手紙は、レニオンにも他の誰の手許にも届いていないことが分かった。

「きっと老いて、ぼけて、何か間違えたんだろう」

「なるほど」

 レニオンのその見解に次第に俺も傾いていった。しかし、

「死んでるよ」

 俺は先輩の棄子から衝撃の事実をきかされたのだ。

「ドクトル・クローヴァスは、とっくの昔にもう亡くなったよ」


 

 そこまで俺から話を聴いたスタニスラフは飲み物の茶碗をおいて首を傾けた。

「なかなか興味深いことだね。亡くなったのは、いつ」

「はっきりとは誰も知りませんでした」

「では云おう。君と逢った日に公園で君の口からきいたそのドクトルについては、わたしも独自に調べていたのだ。しかし死んだという公証はなかった。分かったのは、そのドクトル・クローヴァスは何年も前から行方不明になっているということだけだ」

「そうなんですか」

「ご家族もいない。独身だったようだ」

 行方不明の状態がいつの間にか死んだということになっているのかな。それはある線に想えた。

「彼だけではない。ドクトル・クローヴァスの後任としてイスドナウ棄児院の嘱託医に就いたドクトル・エッケハルルも行方が分からない」

「えっ」

「でも今は、差出人のクローヴァスのことに戻ろう。それで」

「俺は誕生日に届いたドクトルの手紙の中に書かれていたこと、シジッタ地区の黒聖母堂について調べてみました」

「何か分かったかい」

 スタニスラフの問いに俺は首を振った。シジッタ地区についてはだいたいの概要しか分からない。俺は訊き込みに頼ることにした。シジッタ地区はよそ者を拒むが、あちらからは大河の橋を渡ってこちらに行商に出てくるのだ。結果は無残なものだった。

「黒聖母堂」

 橋からほど近い市場で、じろりとその行商人は俺を睨んだ。

「黒聖母レアキリアの大聖堂のことかい」

 乾燥させた蜥蜴か何かを道端で売っていた行商人は、「教えるものか」と云わんばかりに鼻を鳴らすなり、しっしっと俺を追い払ってしまった。

「金を少し握らせようとしても駄目でした」

「あの街はよそ者を極度に警戒している。街全体にも幻術師が魔術をかけている。地図も役には立たない」

「想像以上でした。潜入は無謀だったと反省しています」

「しかしシジッタ地区で生まれ育った住人はあの幻術の街に適応している。何故なら、魔法をかけられた特別の眼を持っているからだ。その眼があれば、現実の街路を読み取れる」

「つまりあの街出身の案内人がいればいい。そういうことですね」

 声を弾ませた俺を押しとどめる眼をして、スタニスラフは俺に告げた。

「黒聖母堂に行っても、聖堂と墓しかないよ」

「若君は行ったことがあるのですか」

「ない。でも知っている。聖堂にあるのは魔女の墓だ。君の母の墓だ。それが君の目的地だ」

 湖を渡ってくるそよ風が樹々を揺らす。木漏れ日に打たれるようにして、俺は卓上の皿に眼を落とした。白い陶器の上に光と影が模様を作っている。そうか。最初から期待半分、何かの間違いではないのかという失望に備えた覚悟半分だったけれど、俺の母はもう死んでいたのか。残念だ。俺があの街に行くのがもう少し早ければ、生きて再会できたのかな。

 ところが、スタニスラフはさらに想いがけないことを云い出した。

「大昔に死んでいる。ざっと二百年くらい前」

 俺は顔をはね上げた。二百年。

「二年や、十二年ではなく」

「君の母は二百年前の魔女だ」

「俺の母の話ですよね」

「さっきからその話をしている」

 俺は眼の前のスタニスラフのことが急に信じられなくなってきた。自分のことを正常と信じている狂人と対話しているのかもしれない。もしや病弱というのはそのことを指しているんじゃないだろうか。

「魔女の名も分かる」

「その、二百年前の、魔女のですか」

「黒聖母レアキリアの聖墓地に埋葬された魔女レアシルヴィア。これが君の母の名だ」

 二百年前の魔女。俺を生むどころか、墓の下で干からびた木乃伊になってやしないか。

 俺は眼の前のスタニスラフが怖ろしい魔法使いに見えてきた。


 

》2-Ⅳ

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