第4話 特異体質
「獣人を魅了する……」
つまり、例えるなら常に媚薬を周囲にまき散らしているようなもの。
だから、狩人の目つきが変わり、襲われそうになったのだ。
「おまえは特異体質のようだな。獣人でも
「匂いを止めることは、できないのですか?」
「この匂いは、番いと出会ったときに感じる匂いと同じらしい。だから、止める方法はいくつかある」
「それを、教えてください」
匂いを止めなければ、外出どころか部屋の外へも出られない。
「体に獣人の印を付けることだ。具体的には、体液を体内に取り込ませる」
「だから、僕に口づけをしたのですか?」
「それが、一番手っ取り早いからな」
デクスターは休日の日課である朝の散歩に出て、森でジョシュアの匂いを察知する。
襲われそうになっていることに気づき、咄嗟に行動を起こしたとのこと。
「お互いが同意の上なら、俺も手出しはしなかった。我が国は、自由恋愛の国だからな」
嫌がる相手に無理強いは、道理に反する。
しかし、ジョシュアの場合は特殊な事例のため、相手を止めたり責めることは難しい。
デクスターの策が最善だったと、ジョシュアも納得した。
「その……こんなことを聞くのは、どうかと思うのですが」
「なんだ?」
「あなたは、なぜ僕を襲わないのですか? 獣人は、皆さん同じ状態になるのですよね?」
本能的なものは、理性だけではどうにもならない。
欲求を抑え込むのは、至難の業だ。
「俺は王族だからな、そういう欲求を抑える教育も受けている。他の者と違い、本能の赴くままに自分の子種を簡単にバラ撒くわけにはいかない」
「なるほど」
隠し子がたくさん現れたら、お家騒動に発展する。
過去には、跡目争いで滅んだ国もあるのだ。
そういう危機管理はしっかりしているのだなと、ジョシュアは安心した。
どこぞの女王に、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
「それで、僕はすでにあなたの印を付けられているから、もう心配はないのですよね?」
「口づけでは、せいぜい持って一日だ。風呂に入ったら、まず印は無くなる」
(そうか、代謝で体外へ排出されてしまうのか……)
だから、ジョシュアを一人で風呂に入らせなかったのだ。
風呂に入っている最中、もしくは出た途端に襲われては、敵わない。
「もっと長く印が残る方法はないのですか?」
「あるぞ。風呂に入っても、一週間くらいは持つ方法がな」
「それを、僕にしていただくことは可能ですか?」
「おまえの同意があれば、いつでも可能だぞ……今、ここでな」
意味深な言い方に、ジョシュアは内容を察した。
「……やっぱり、遠慮しておきます」
「ハハハ! 気が変わったら、いつでも言ってくれ」
取りあえず、デクスターがジョシュアを襲う心配はないことがわかった。
安堵したところで、そろそろ風呂から上がりたい。
先ほどから、頭がクラクラとしていた。
「湯あたりを起こしそうなので、もう出ます」
「さすがに、浸かり過ぎたな」
デクスターが立ち上がる。
同じように立ち上がったジョシュアだったが、急に目の前が真っ暗になる。
そのまま、ゆっくりと湯の中へ倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か!」
浴室内に、デクスターの声が響いた。
◇
ジョシュアが目を開けると、見知らぬ天井が見えた。
知らぬ間に、ベッドに寝かされている。
「調子は、どうだ?」
視界の隅に、シルバーグレーの髪が映る。さらりと流れた前髪の間から、綺麗な碧眼が見えた。
「湯あたりを起こしたようです。ご迷惑をかけて、すいませんでした」
「気にするな。それより、大事なことを聞き忘れていた」
「大事な、こと?」
「おまえの名や、どこから来たのか、とかな」
「そうだった! 大変失礼しました!!」
慌てて起き上がる。
いろいろありすぎて頭からすっかり失念していたが、初対面の相手へ名乗るのは礼儀作法の中でも基本中の基本だ。
「申し遅れましたが、僕はジョ……」
名を言いかけて、言葉に詰まる。
自分はもう、過去を捨てた。
(これからは、別人として生きていくんだ)
「……実は、僕は過去の記憶をなくしています。名はジョアンで年齢は十八ですが、それ以外のことは何も覚えていないのです」
気づいたら川岸に流れ着いていたというジョシュアの(半分嘘の)話に、デクスターは目を見開く。
「だから、あんな泥だらけの恰好だったのか!」
「民家を探していたところを突然襲われ、あなたに助けていただきました。改めまして、あの時はありがとうございました」
「礼には及ばない。それより、流れ着いたということは、上流から流されてきたはずだ。となると、おまえは隣国の貴族か……」
「……なぜ、僕が貴族だと言い切れるのですか?」
デクスターの指摘に、ドキッとする。
「身に着けていた服を見ればわかる。あれは、相当な金と手間暇をかけて作られた一品だ。それに、俺の正体が王弟と知っても、おまえに驚きや慌てた様子はなかった」
「検問所で身元を確認されなかった時点で、それなりの身分の方だとは予想がついていましたので」
「なるほど、そういうことか。では、平民の金持ちという可能性もあるな。とにかく、おまえは言葉遣いも所作も、俺よりよっぽど洗練されている。上流階級の者であることは、間違いない」
自分では一般庶民に成りきっているつもりだったが、デクスターにあっさりと見破られてしまった。
「外交を通じて、隣国へ照会をかけてもらおう。貴族であれば、すぐに身元が判明するはずだ」
(!?)
有り難い配慮だが、それは非常に困る。
隣国から母国へ、情報が洩れるかもしれない。
崖から濁流に飛び込んだジョシュアは、死亡したと思われているはず。
それなのに、生存していることがわかったら、この国へ暗殺者を送り込まれるかもしれない。
「えっと……照会は結構です。もし僕が貴族だった場合、社交界に不名誉な噂が流れるかもしれませんので」
経歴に傷が付くと、今後の出世や婚姻に差し支えるかもしれない。
そうなれば、家門に迷惑をかける。
ジョシュアは必死に、苦しい言い訳を並べ立てた。
「家族は心配しているかもしれませんが、対外的には、行方不明の理由は病気や留学など何とでもなります。僕は他国で生活をしながら、自然に記憶が戻るのを待ちます」
(まあ、僕を心配している者なんて誰もいないけど……)
心の中で自嘲する。
ジョシュアの両親は、すでに他界している。
実家の公爵家は異母兄が継いでいるが、交流はあまりない。
婚約者である女王など、言わずもがな。
「そうか、貴族は
どうやら、デクスターは納得してくれたようだ。
ホッと息を吐き、改めてデクスターへ向き直る。
「厚かましいお願いですが、今夜一晩だけ宿をお願いできないでしょうか? 明日の朝になったら、すぐにここを出て行きますので」
もっと国から離れたほうがよい。ジョシュアは判断した。
知り合いも誰もいない遠く離れた国へ行き、仕事を見つけ、新たな生活を始める。
幸い、ジョシュアは共通言語の他に他国の言語にも精通している。
王配教育を真面目に受けてきたおかげだ。
あの辛く苦しい勉強の日々は、これからの人生で活かすためのものだったのだ。
「出て行くはいいが、おまえは金を持っているのか?」
「あっ……」
今のジョシュアの持ち物といえば、ヨレヨレの白シャツに、所々擦り切れたスラックス。穴の開いた靴下のみ。
ある程度の金は持っていたが、身代わりにした上着ごと森へ置いてきてしまった。
白シャツの袖にはカフリンクスが付いている。
宝石の付いた高価なものであるが、市井で売っても、着替えと数日分の食料と宿代くらいにしかならないだろう。
「それに、一番肝心なことを忘れているぞ。特異体質のことは、どうするんだ?」
「そうだった……」
一日では、どう考えてもこの国からは出られない。
ジョシュアは頭を抱えたが、すぐに顔を上げる。
「……一週間あれば、最寄りの国境までたどり着けますか?」
「おまえ、まさか……」
「やはり、お願いします。僕は、どうしても行かなければならないのです」
新緑を思わせる緑眼には、決意の炎が宿っていた。
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