第2話 一難去って……


 鳥のさえずる声に、ジョシュアは目を開ける。

 半身が水に浸かった状態で、川岸に仰向けで倒れていた。

 雨はすっかり上がったようだ。

 起き上がり、まずは体の状態を確認する。

 打撲や擦り傷等の痛みはあるが、幸い骨折はしていない。


「ハハハ! 僕は賭けに勝ったぞ!!」


 嬉しさがこみ上げてくる。

 転げまわり、全身で喜びを爆発させた。


 ジョシュアの本来の自称は『僕』である。

 公爵家の子息として、女王陛下の婚約者として、取り繕った『私』を使う必要はなくなった。

 もう何ものにも囚われない、晴れて自由の身だ。

 

 昨夜、崖の上で敵と対峙しながらジョシュアは考えた。

 武器を持った相手と戦っても、簡単に殺されてしまうだけ。

 ならば、少しでも生存の可能性があるほうに賭けたほうがよい。

 崖から川へ飛び込むことに、躊躇はなかった。

 実家の領地は、水資源の豊富な場所。幼いころに習得していた泳ぎは、大きくなっても健在だった。

 真っすぐ足から着水。上流から来た流木にしがみつくことができたのは幸い。

 運も味方に付け、ジョシュアは新たな人生を歩む機会を得る。

 過去の自分は捨て、これからは別人としてやり直すのだ。



 辺りを見回すが周囲には霧が立ち込め、ここがどこなのかはわからない。

 夜明け前なのだろうか、空気が澄んでいる。


 水分を過分に含んだ重い上着を脱ぎ、何度か絞る。

 スラックスも同様に。

 霧に隠されているのを良いことに、ジョシュアは身に着けていたすべてのものを順番に絞っていく。

 いつもは汚れやしわ一つない衣裳を身に纏っているが、今は所々が破れ見るも無残な状態。

 上着よりは幾分ましな白シャツ姿になり、上着は肩に掛ける。

 片方失った靴は捨て、靴下のまま川沿いを下流へと歩いていく。

 隣国のどこまで流されたのかわからないが、できるだけ国境からは離れたかった。



 ◇



 歩いているうちに霧が晴れ、朝日が昇ってきた。

 どうやら川の周辺は、奥深い森に囲まれているようだ。

 このまま下流をめざすか、川を逸れ民家を探すか。

 歩き疲れたので休もうと腰を下ろしたジョシュアの頭上を、何かが飛び越えていく。

 川に着水したのは、一本の矢だった。

 ギョッとするジョシュアのもとへ、誰かが駆けてきた。


「すまない、ケガはなかったかい?」


「だ、大丈夫です……」


 やって来たのは、弓を手にした狩人らしき若い男だった。


「獲物だと思ったら、人だった……おや? この匂いは……」


(匂い?)


 狩人は、ジョシュアを凝視している。

 先ほどとは、明らかに目つきが変わった。まるで、獲物を捉えた猛獣のように見える。

 肉食動物に睨まれた草食動物のように、背筋がゾクゾクする。

 ジョシュアはぶるっと震えた。


「あの、先を急ぐので失礼します……」


「あっ、待って!!」


 この場に居てはいけない。

 自分の中の何かが、警鐘を鳴らしている。

 昨夜も、それのおかげで命拾いをした。

 

 己の勘を信じ、一目散に走って逃げる。

 再び矢を射られないよう、迷わず森に飛び込んだ。

 むやみに逃げ回らず、最適な場所に留まることにした。


「お~い、逃げても無駄だよ。君の匂いは特別だから、僕にはすぐにわかる」


 狩人の優しい声が、森に響き渡る。

 ジョシュアは昨夜から狙われ続けて、森の中を逃げ回ってばかりいる。

 なぜ、自分はこのような目に遭うのだろうか。

 不満に思う気持ちとは裏腹に、動悸は激しく胸が痛い。

 

「ふう……」


 小さく息を整えたときだった。

 後ろで人の気配を感じる。

 振り返ると同時に、ジョシュアは口を塞がれていた。


「見ーつけた!」


 狩人の、弾んだ声が聞こえた。



 ◇



 狩人が覗き込んだのは、大きな木の幹に開いた穴。

 しかし、そこにあったのは上着だけ。ジョシュアの姿はどこにもない。


「あ~あ、匂いは消えちゃったし、逃した獲物は大きかったな……」


 残念そうに呟くと、狩人は足早に去っていった。


 大きな木からは少し離れた場所に、数本の低木がある。

 その木には、強烈な匂いを放つ赤い花が咲き誇っていた。

 自分の匂いを探知されないために、ジョシュアは低木の陰に身を潜めていたのだ。

 しかし、危機が去ったあとも、ジョシュアは動けずにいる。

 

 見知らぬ美丈夫から、口づけをされていた。


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