すれ違い
俺は栞の言葉が理解できなかった。もちろん言葉の意味はわかる。でも、その真意がわからなかった。
栞だってついさっき、ずっと俺と一緒にいたいと言ってくれたはずなのに。今日だってプールへ行って遊んで、あれだけはしゃいでいたというのに。
「し、栞……? それってどういう──」
俺がその意味を問い質そうとすると、栞に無理矢理に口を塞がれた。触れるだけの、それでいて長いキス。
いつもならじんわりと幸福感が湧いてくるはずなのに、この時ばかりはただひたすらに混乱した。
顔が離れると、栞は泣きそうな顔をしていて。
「大丈夫だから……。そんな顔しないでよ」
「そんな顔って……」
きっと俺はひどい顔をしていたんだろう。意味がわからず頭の中がぐちゃぐちゃなのだから当然だ。
でもそれは栞だって同じで。むしろ栞の方がひどい顔をしていたように思う。まるで何かを必死で耐えているような、そんな表情。
「私ね、涼のことが大好きなの。だから、頑張るから……」
震える声でそれだけ言うと、栞は俺の頭をクシャッと一撫でして、ベッドを抜け出し身支度を整え始めた。俺はただそれを眺めていることしかできない。
「私……、もう帰るね。涼も疲れてるだろうから見送りはいいよ。鍵は閉めておくから、ゆっくり休んでね」
「ちょっとまっ──」
またキスで言葉を遮られる。
「それじゃ、おやすみ」
最後にぎこちなく笑うと、栞は俺に背を向けて部屋を出ていこうとする。栞を引き留めようと伸ばした俺の手はむなしく宙を切って。
「栞……!」
呼びかけても足を止めてくれない。振り返ることすらしてくれない。栞はそのまま部屋を出て、ドアがパタンと閉じられた。階段を降りていく音が遠ざかっていき、玄関が閉まる音がして、そして何も聞こえなくなった。
追いかけなければ栞がどこか遠くに行ってしまうような気がする。でも混乱の最中にいる俺の身体は言うことを聞いてくれなくて、ただ呆然と栞が出ていったドアを見つめていた。
冷房のせいで身震いして、まだ自分が裸であることを思い出して、脱ぎ散らかしていた服をモソモソと身に着ける。そしてまたベッドへ倒れ込んだ。
枕に顔を埋めると、栞の髪の匂いがする。さっきまで触れていた栞の感触や温もりを思い出すと涙が溢れてくる。
夜一人でベッドに横になっている時とは違い、無性に寂しくなった。別れを告げられたわけではないのに、栞が何を考えているのかが全くわからなくなったことが辛かった。
あんなにも一緒にいたのに。俺に柔らかく微笑んでくれている時は、あんなにも気持ちがわかったのに。
どれくらい時間が経ったのか、そんな感覚さえも希薄になっていた。部屋の電気もつけずに、無為に時間を浪費していた。
ふいに玄関の開く音がした。つい、栞が戻ってきてくれたのではと期待してしまう。慌てて身を起こそうとしたけど、
「たっだいまー!」
思っていたのとは違い、聞こえてきたのは無駄に元気そうな母さんの声だった。きっと文乃さんと楽しくお酒でも飲んできたのだろう。その声が俺の心を逆撫でる。それなのに怒りは湧いてこない。そんな気力すら失われていた。
やがて部屋のドアが開いて、母さんが顔を出した。
「なんだ、涼。いるんじゃない。どうしたのよ、電気もつけずに」
母さんが電気のスイッチをいれると、パッと部屋が明るくなる。その明るさが沈んでいる心に突き刺さってしんどい。俺はタオルケットを頭まで被ってそれから逃れた。
「え、涼……? なにしてんの? それに栞ちゃんは?」
「……帰った」
「泣いてるの? 栞ちゃんと何かあった?」
ようやく俺の様子がおかしいことに気が付いたのだろう。母さんの声が心配そうなものに変わる。
「わっかんないよ!」
何があったのかなんて、俺が知りたいくらいだ。なんで栞はあんなことを言ったのか。何を考えているのか。何を頑張ろうとしているのか。その全部がわからない。
母さんの前だというのに嗚咽が漏れた。一度堰を切ってしまえば止めることなどできなかった。
「涼……」
母さんが背中を撫でてくれて、更に涙が溢れ出す。俺が泣き疲れて眠ってしまうまで、母さんはそうしてくれていた。
◆黒羽栞◆
一人きりでの帰り道、また勝手に涙が溢れてきた。視界が滲んで、街灯の明かりがぼやける。
そこに浮かんでくるのは、別れ際に見た涼の顔。
私のせいで涼にあんな顔をさせてしまった。意味も説明できないまま取り残してきてしまった。涼はきっと戸惑ってるよね。でも説明してしまえば、きっと私は優しい涼に甘えてしまう。
でも、それじゃダメなの。これは私が自分で乗り越えなきゃいけない問題で、必要なことだから。涼の側にいたら、それはたぶん成し得ない。
急激に進み、深まる涼との関係の中で私の心の中に一つの思いが芽生えていたんだ。もちろん自覚もしていた。いつかどうにかしなきゃと思いながらも、涼の隣が心地よくて、幸せすぎて見ないふりをしていた。
でもそれは今日、ついに目を逸らせない問題として私の前に立ちはだかった。
きっかけは帰りの電車の中での彩香の言葉。ナンパから涼が守ってくれて、助けられすぎてるなぁって思っていたところに聞こえてきた言葉が私の胸に突き刺さった。まるでハンマーで頭を思い切り殴られたような衝撃だった。
あの時の私は、頬を突かれて少しだけ目が覚めてたんだ。きっと彩香にはそんなつもりは一切ないんだろうね。でも、私は全て見透かされた気がした。気付いていながら見て見ないふりをしていることを突き付けられた気がした。震えそうになりながら必死で寝たふりをしてごまかしていたんだ。
それに、涼がくれた言葉。嬉しかったよ、本当に嬉しかった。嬉しくて、あの時の涼の表情も、言葉の一語一句までしっかりと記憶に焼き付けた。
だからね、私は涼の想いに報いなきゃいけない。あそこまで私のことを想ってくれる涼に。このままじゃいけないんだってはっきりと自覚させられるには十分すぎたの。
私は本当に愚かだよ。もっと早くなんとかしていれば。最初に気付いた時からしっかりと向き合っていれば、こんなことをしなくてもよかったはずなのに。
涼に辛い思いをさせたのは私だ。涼を一人にして寂しい思いをさせて、悩ませて。
後悔で胸が締め付けられそうになる。こんなことをして、涼に愛想を尽かされてしまうかもって恐怖もある。
本心では、今から飛んで戻って冗談だよって言いたい。ごめんねって謝って、涼の胸で泣いて、抱きしめてもらえたらどんなに幸せだろう。
でもそれじゃ今までと何も変わらない。私が言い出したことなんだから、私が寂しいなんて思っちゃダメ。そのために最後にいっぱい愛してもらって、涼の想いを身体に刻んでもらった。これから頑張るためのエネルギーをもらったんだから。
目を閉じると、まだ身体の奥に、心に涼の温もりが残っている気がする。これがなくなる前に、早く──。
私は一人、トボトボと歩いていく。涙を拭いながら、何度も振り返って。もかしたら涼が追いかけてきてくれないかな、なんてありもしない、バカみたいな期待をして。いつもより倍以上の時間をかけて帰宅した。
家の前で深呼吸をして、もう一度涙を拭いて。今日一日、楽しいことしかなかったって見えるように笑顔を貼り付けて玄関を開けた。
その音を聞きつけたお母さんが顔を出して、
「あら、栞。おかえり。今日くらい涼君の家に泊まってきてもよかったのに──って、どうしたの?!」
「ただいま、お母さん。どうしたのって何が?」
お母さんに怪訝な顔をされたけど、すっとぼけてみせた。あんまり心配をかけたくはなかったから。
「何がって……。栞、鏡見てらっしゃい……」
「え、うん……」
洗濯物を置きに行くついでに、洗面所で鏡を覗いてみた。
あぁ、これはひどいな……。
そこに映る私の顔はとても見れたものじゃなかった。目は真っ赤に充血して、貼り付けた笑顔も引きつっている。
背中に追いかけてきたお母さんの優しい声がした。
「どう? わかった……?」
「うん……、ひどいね」
こんなんで取り繕うとしていたのがバカみたい。
「涼君となにかあった……? もし話せるなら──」
「ごめんね、今は無理……」
私はそう言って階段を駆け上がり自室へと逃げ込んだ。後ろからお母さんが呼んでいたけど、今は一人にしてほしくて振り返らなかった。
そのままベッドへと倒れ込んで、枕元に置いてある涼の写真に手を伸ばす。髪を切る前の、まだ少し野暮ったい涼が呑気な顔で気持ちよさそうに眠っている写真。大好きで、愛おしくてたまらない。それを見ていると、また勝手に涙が溢れ出してきた。
私はその写真を胸に抱いて、静かに泣き続けた。
なんて私は弱いんだろう……。
少し涼と離れるだけでこんなふうになってしまう。こんなんじゃ……。
──だから、頑張らないと。
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