読書感想文2『ノルウェイの森』

千織

第1話 はじめに

 僕が初めて村上春樹の書籍を手にとったのは、二十代半ばだった(正確には、中学の時に河合隼雄が好きで、その対談集は読んでいたのだが)。彼はとっくに有名で、ファンも多かったのだが、僕の周りにはそこまで熱を上げている人はいなかった。新作が出たと文学界隈が賑わっていたので、僕もそろそろその波に乗ってやろう、と思ったのだ。

 読み終わった後の感想は、「面白かったが、なぜそんなに話題になるのかわからない」だった。むしろ話題性がなければ、一つのお気に入りの作品として心の書棚になんの抵抗もなく収まっただろう。好きな作家の一人にすらなったかもしれない。でも、最初に構えていたせいで、なんだか肩透かしを食らったように感じた。もちろん、彼や作品が悪いというわけではない。単に僕の人生の一幕にそういうことがあったというだけだ。


 それからも、僕は何回か彼の本にチャレンジしようとした。本屋の棚に行き、彼の名を見つけて、とりあえず有名どころにそっと手を伸ばす。だが、僕はそこでいつもしおらしく手を引いて、さも何ごともなかったかのように、その手を肩掛けカバンのバンドの定位置に戻してしまうのだ。そして大して読みたくもない本を、気もそぞろなままぱらぱらとめくって、この本を買うのだからさっきのことは見逃してほしいとでも言わんばかりにレジにお金を置いて足早に本屋を後にする。

 僕は彼の本の背表紙を見るたびに「わからなかったらどうしよう」と思ってしまうのだ。世間があれほど彼を求め、彼に恋焦がれている中、僕だけが彼を理解できない。いっそ本など読まない人間ならそんな悩みも無かったのに。彼の本を持たないこと――いや、持てないこと――は、僕になんの文学的センスがないという証明であるように感じていた。


 さらにそれから時が経ち、僕はこうして彼のエッセイに巡り合った。僕は趣味で小説を書くようになっていて、いくらかの作品(と呼ぶのもおこがましいが、小説なんてなおさら憚られるので仕方なくそう呼ぶことにする)はできていた。人に見せるのを恥ずべきであろう妄想めいたものから、多少は大学で勉強した教育に対する主張がこもったもの、単に人を楽しませたいという素朴な親切心からくる愉快な作り話まで、僕は手当たり次第書いていた。書けば書くほど僕には才能がなさそうだと思えた。でも、何も持たないからこそ書くことの純粋な楽しさが僕をつかんで離さなかった。書く喜びと情熱とそれを包み込むわずかな絶望感。そんな僕の混沌とした心に、彼のエッセイは寄り添ってくれた。


 彼のエッセイで目を引いたのは、文体についての話だ。彼は文体を「ヴィーグル」と呼んでいた。ヴィーグル乗り物……小説の文字の羅列をそんな風に見たことはなかった。彼は処女作を一度書き上げたあと、それを英文で書き直し、そしてまたそれを日本語で訳した。そして彼独自のあの文体を発見し、習得したのだ。

 僕は、”文体”という言葉が魔法の呪文のように感じた。自分の心の中にある魔法の世界を現実化してくれる言葉の連なり。その連なりが持つ、色や匂いやリズム……それが文体。僕はすっかり文体というものに心を奪われた。僕にも、僕にしか出せない文体がほしい………! こんなに何かを欲しがるなんて、大人になって初めてかもしれない。


 そんなとき、カクヨムの自主企画で驚くべきものを目にした。

 ――村上春樹ものまね大会――

 なんてことだ。僕はいつの間にかシンクロニシティの渦中にいたらしい。やってやろう、ここまで来たのなら。僕は早々に観念した。いつだって、僕の人生の奇跡は予告なく、そして畳み掛けるようにくるのだ。

 僕は、恋人に村上春樹らしい文章といえばどの作品か、とメッセージで尋ねた。「『ノルウェイの森』かな」とすぐ返事がきた。僕は電子書籍で早速購入した。彼の小説を読み、文体を模写して大会に臨む。僕はこういう変なところだけ負けず嫌いなのだ。それのせいでたくさんの無駄足を踏み、得られそうな栄光もみすみす逃してきた。わかっていても、その傾向が無くなる気配など全くない。ただ、他では味わえないわくわく感だけが確かにこの胸にある。やれやれ。僕は、いつだってこういう人間なのだ。そう改めて思いながら、僕は彼の本の1ページ目を開いた。



筆者の感想の近況ノートはこちら▼

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