召された記憶

森本 晃次

第1話 映画鑑賞後

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年10月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。世界的なパンデミックというものの影響で、社会生活がどうなっているかは、その場合によって違っているので、そのあたりもフィクションとお考え下さい。


 夏も終わりの頃、その年は、梅雨がまだ、5月という状況でやってきたにも関わらず、梅雨が明けたのが、7月中旬という、非常におかしな時期であった。

 だったら、

「水不足になんかならないよね?」

 と言われて当然なのだろうが、実際には、

「梅雨入りの頃に少し降り、6月は、例年に比べても、降水量が、ほとんどなく、そのくせ、7月に入ると、今度は、気圧が不安定になってか、いわゆる、線状降水帯があちこちで発生し、大水害をもたらす」

 という、結局は水不足になることはなかったが、その代償は大きかったといえるであろう。

 そんな状態だったことで、7月後半からは、一気に暑さが襲ってくる。

「連日の猛暑日」

 ということで、35度以上という日が、毎日のように襲ってくるのだ。

「熱中症患者が、全国各地で、例年の記録を更新」

 というニュースが飛び交っている。

 テレビのニュースなどでは、公園の噴水で水遊びをしていたり、ミストシャワーを浴びながら、歩いている人もたくさんいた。

 そんな時期は、

「夜中も暑い」

 ということで、その日の最低気温が、30度以上という異常な日も続いたりするのだった。

「夜の方が熱中症の危険がある」

 ということで、

「寝る時も、エアコンをつけて寝ましょう」

 とテレビのニュースでは呼び掛けている。

 そもそも、今から数十年前まで、最高気温が、34度というと、

「例年にない暑さ」

 と言われたもので、今でいえば、

「40度超え」

 というくらいになっているのだった。

 最近では、毎年のように、

「地球温暖化」

 と言われ、

「耳にたこができる」

 というくらいであるが、たこができたとしても、しょせんは、

「温暖化」

 という優しい言葉である。

 実際には、ジリジリと身体に痛みをおよぼす暑さで、そんな、

「温暖化」

 などという、生易しい言葉で片付けられるものではないだろう。

 そんな風に思っていると、最近では、今度は打って変わって、少し恐ろしい言葉が叫ばれるようになっていた。

「地球沸騰化」

 である。

「沸騰する」

 といって、普通に考えると、温度にして、約80度近くはないとしないものだ。

 もちろん、そこまで行くまでもなく、人間は、そんな温度になってしまえば、生き残れる人などいるであろうか?

 生き残ったとしても、生活はおろか、食事をとることもできず、

「短期間限定で、生きている」

 というだけになってしまうだろう。

「人間がバタバタ死んでいくという自然現象になると、まず、生き残ることはできないだろう。生き残ったとしても、ただ、少し他の人よりも、寿命が長いというだけで、死を待つという意味では同じことである」

 といえるだろう。

 そうなってしまうと、

「さっさと死んでしまった方が楽なのかも知れないな」

 と考える人尾いるだろう。

 生き残っていたとしても、死んだとしても、それはそれで地獄には違いない。

 もっとも、その異常高温が、数日で終わると分かっていれば、まだ、

「生き残りたい」

 と思う人もいるかも知れないが、平常な精神状態では、

@死んだ方がましだ」

 と思うに違いない。

 人間は、

「我慢できるところの結界を超えると、死んでしまった方がましだと思うだろう。そしてどうせ死ぬなら、楽になりたい。苦しみたくないというのも、心情というもので、昔からの、武士の習いとしてある、切腹というものに、介錯というものがつきものだが。あれは、切腹をしただけでは、死にきれないので、後ろから首を跳ねてやる」

 ということなのだ。

 苦しんでいる人を、後ろから首を跳ねることで、楽にしてあげるという、これこそ、

「武士の情け」

 ということになるのである。

 だから、介錯というもの、上手な人でなければ、

「失敗すれば、せっかくの切腹で覚悟を決めた人が、死ぬに死ねずに、苦しみだけを与えるということになり、そのトラウマは一生消えないかも知れない。それだけ、重要な役割だったといえよう」

 それだけ、技術と精神力の両方を兼ね備えていないとできないということであろう。

 そんな年の異常気象は、それだけではなかった。

 一つ不思議な現象があったのだが、それは、台風被害についてだが、この年は、

「台風被害があるところは、毎回被害に遭うが、それ以外のところはそうでもない」

 ということがまず一つ」

 そして、もう一つとして、

「実際の台風の、暴風圏内であったり、さらに、そのまわりの強風圏内にいるわけでもなく、若干離れているところで、中秋豪雨があったり、竜巻などの被害があったりというのが頻繁にあった。

 台風自体は、7月に発生したものは、

「迷走台風」

 と言われ、スピードが実に遅く、自転車をこいでいるよりも遅いくらいのスピードで、しかも、いきなり、120度くらいのターンをしてみるという、まるで、

「アクロバット台風」

 といってもいいくらいの、

「よくあんな動きを予測できるな」

 というほどなので、

「長い時間、同じ地域を暴風域に巻き込んでいる」

 ということであった。

 しかも、ここ最近の、いわゆる、

「地球沸騰化」

 ということで、海水温度が、30度近くあるということであり、

「これが何を意味するのか?」

 というと、

「台風の勢力が落ちない」

 ということだ。

 普通であれば、発生してから、一週間も経てば、勢力はそれなりに落ちてくるというものだが、海水温が高いと、逆に発達傾向を見せるというくらいであり、それが、海水温度を高めるということで、

「下手をすると、上陸してからも、勢力が衰えない」

 ということもあったりする。

 台風というのは、

「上陸すると、勢力は落ちる」

 と言われているが、この年の台風は、そんなことはなかったようだ。

 だから、この年の台風は、全体的には少なかった。

 7月に数個来た」

 ということであったが、そのほとんどは、スピードの遅い、

「迷走台風」

 であり、沖縄地方に被害をもたらしながら、そのまま九州の長崎沖を北上し、朝鮮半島に向かったという台風であったが、被害が大きかったのは、沖縄地方はいうまでもなく、九州南部の、鹿児島、宮崎あたりは、数万戸の停電があったという被害があったということであった。

 あとは、太平洋上を北上して、上陸はしなかったが、なぜか、京都であったり、静岡あたりが、大きな被害に見舞われたりした。そのあたりで、線状降水帯が発生したりしたのだった。

 そして、8月も台風は少しだけあり、本土上陸はほとんどなかったが、やはり地区によっては、被害があったところもあった。

 これだけ、大災害に見舞われているのに、ソーリは外遊していて、被災地に金を出すところか、外国で戦争をしているところにばかり金をばらまいているという体たらくだったのだ。

 9月に入れば、本来であれば、

「台風の季節」

 ということで、毎年、中旬くらいには、

「ここ数十年に一度の台風」

 と言われるような台風が来るのだが、どちらかというと、

「くるくる詐欺」

 で、それほどの被害がなかったりしたものだが、それも地域によって違っているということなので、大きなことは言えないのであった。

 しかも、この年は、

「9月に至っては、一度も上陸した台風がなかった」

 ということで、発生自体が、ほとんどなかったのだ。

 7月時点で、

「ダブル台風」

 だったり、

「トリプル台風」

 などと言われ、気が付けば。台風の数はそれなりだったが、9月が終わった時点で、最新の台風が12号だったなどという、何とも、不思議な現象となっていたのであった。

 そんな台風というものが、襲ってきていたその年は、本当に

「9月に台風が、上陸しないなど、あっただろうか?」

 と思えるほどであった。

 ただ、気になるのが、最近では、

「秋がない」

 と言われるようになっていて、10月中旬くらいまで、真夏日である、

「最高気温が30度以上」

 という日が続いているので、台風の発生が、11月中旬くらいまであるというような、普通であれば、信じられないようなことになることも、少なくなかった。

 だから、毎年のように、台風の発生時期の最後が、更新されるようになってしまい、それを思うと、

「本当に、異常気象だ」

 と言われるのも、無理もないことであろう。

 だから、10月になっても、

「いつ台風が発生してもおかしくない」

 ということになるだろう。

「本当に、地球はどうなってしまうのだろう?」

 と言われても仕方がないということであった。

 ただ、どんなに、異常気象が続こうとも、日本において、夏の次に来るのは、秋である。春夏秋冬が、キチンと毎年、時期は若干ずれるとはいえ、繰り返される。それは、ちゃんと、

「天体が、その機能を果たしている」

 ということだからであろう。

 そもそも、基本的な自然をつかさどっている天体が、少しでも狂ってしまうと、どんなことになるというのか恐ろしいものである。

 考えてみれば、この地球ができてから、数億年と言われているが、その間に、生物がどんどん進化していき、途中で、氷河期などを繰り返しながら、それまで生きていた生物すべてが死滅するかのような状況になっても、今まで、実際に生命が絶えたということは地球上ではなかったのではないだろうか?

 もちろん、そんな昔の時代を見たことがあるわけもないのだし、気が遠くなるような昔の話をされたとしても、それは、どうにもなるものでもない。

 それを考えると、

「地球における時代を生きている自分たち、どれだけの時間が経ったとしても、本当に豆粒よりも小さなものであり、宇宙は、無限でなければいけないほどの広さを、

「地球の歴史」

 というだけのものでも、有しているのかも知れない。

 大げさかも知れないが、実際に、数百年前に考えられていた宇宙から、今、

「間違いない」

 とまで言われている範囲でも、相当広いものである、

 しかし、実際に、それ以上を、今真剣に学者は考えていて、その理論も証明されようとしているではないか。

 これが、

「マルチバース理論」

 というもので、

「今信じられている最大の広さと言われている宇宙規模のものが、さらに、外の世界に、同じくらいの規模の我々が宇宙と呼んでいる世界が、存在している」

 という、いわゆる、

「理論物理学」

 の理論である。

 それの存在を最初に提唱されたのは、今から100年以上も前ということなので、すごいことだといえるのではないだろうか。

 日本では、まだ、

「明治維新」

 というものが起こってからすぐくらいという、世界の仲間入りもしていない時期だったというのは、本当にすごいことであった。

「マルチバース理論」

 というものの証明に、

「実際に確認できる、一番遠くの星の光を確認する」

 というような話を聞いたことがある、

 それが、どれくらい遠いもので、

「何万光年」

 と呼ばれるものか、

「何百万光年」

 と呼ばれるものなのかは分からないが、少なくとも、その光は、その何百万年も前の光だということで、実際にその星が今あるのかどうかも分からないというものだった。

 そんな星との距離に比べれば、地球の広さなどというのは、実に狭いものに違いない。地球人は、やっとお隣の月や火星に到達できる技術があるくらいで、これが、

「有人となると、なかなか難しいことである」

 に違いないだろう。

 そんな、大自然であったり、

「宇宙の果て」

 というものに、思いを馳せるのもいいが、地球上で、毎日が繰り返され、さらには、一年の間に、規則的に季節が繰り返されているというのは、ある意味で、

「奇跡だ」

 といってもいいのではないだろうか?

 少しでも、軸が狂えば、どんな異常現象が起こるか分からない。それが、氷河期のようなものであり、定期的に訪れていると言われていて、今は、第三期まであったと聞いたことがあったが、どうなのであろうか?

「自然というのは、その季節を、静寂とともに、規則正しくその歩みを着実に執行している」

 といってもいいのではないだろうか?

 ということを考えると、

「静寂」

 というものは、、

「厳かなもの」

 といってもよく、そこには、格式なるものが存在し、自然が、確実に季節を育んでいるといってもいいだろう。

 無限に広がる宇宙にも、その限りがあり、そこに結界が広がっているとすれば。

「科学で証明されないものはない」

 といっても過言ではないのかも知れない。

 ただ、今の時代には、人間という生物を中心にして、自然界を、時には、蹂躙することで、自分たちの都合のいいものに変えていこうとする。

 それを、神がいるのであれば、どうして許しているのであろうか?

 考えてみれば、聖書に出てきた、

「ノアの箱舟」

 という洪水の話は、たぶん、真実を元に書かれたものではないかと思う。

 いくら、自然災害の多かった古代といえども、

「大洪水」

 というものが、いきなり発想として浮かんでくるということもないだろう。

 日本でもそうだが、それぞれの土地に伝わる伝承された物語があり、それを編集するという形で、伝記のように書かれるのが、

「聖書」

 のような、

「聖典」

 と呼ばれるものなのであろう。

 ノアの大洪水は、あまりにも大げさではあるが、

「津波が襲ってきて、一つの大文明が一瞬にして、この世から姿を消した」

 という話もある。

 中には、海の怪物を使って、神が国を滅ぼしたという話が、

「ギリシャ神話」

 にも伝わっているではないか?

 それが、少し離れていて、つながりがないように見えるところで同じような教訓があるというのは、

「バベルの塔」

 の話のように、言葉は通じないが、元は一つの都市にいた人たちが、世界に散らばっていったという発想い裏付けられているのかも知れない。

 時代は、秋に近づいてきて、そんなことを思い出したのは、その日、友達と、映画に行ったからだった、

 その映画というのは、古代の聖書や、神話の時代のような話で、実際には、

「フィクション:

 であったが、そんな時代の映画というのは、最近珍しいもので、外国でも、SF映画の巨匠と呼ばれているい人が監督だったということで、注目を浴びていた作品だったということもあって、それなりの客入りであった。

 ただ、

「世界的なパンデミック」

 というものの影響から、映画館では、いまだに、

「飲食禁止」

 という風潮があるようで、食べていいことになっているようだが、さすがに、

「飲食を控えている人が多い」

 ようだった、

 映画館というと、ビッグサイズのソフトとリンクと、ポップコーンというのが、定番で、ロビーでは、ホッとドックのようなものも売られているようで、以前は、それを楽しみにしている人が多かったというのは、間違いないようであった。

 グッズも結構売られているが、昔のようなパンフレットをあまり見たことがないが、以前は、そういうのを集めている人もいると聞いたが、今ないのだとすれば、寂しいものである。

 もちろん、映画館の不人気は、

「世界的なパンデミック」

 によって、入場制限であったり、それまでまったくの自由だった、飲食に制限が掛かったりすると、なかなか近づこうとはしないだろう。

 だから、以前であれば、レンタルビデオで借りたりしていたのだろうが、今の時代は、

「ネット配信」

 というものがあり、

「ダウンロード」

 というものをしてしまうと、映画を見ることができるというものが主流になっているので、

「映画というと、大型スクリーンで、さらには、サラウンド音声で楽しむものだ」

 という考えの人は、映画館に赴く人も一定数はいるだろう。

 ただ、どうしても、時代の流れに逆らうことはできず、映画人口はどんどん減っている。そこへもってきての、

「世界的なパンデミック」

 というものが、

「とどめを刺した」

 といっても過言ではないだろう、

 それが今の時代というもので、前であれば、

「家で、大型テレビで、家族で見る」

 などという時代もあったが、今は、テレビすらないところが多い。

「だったら、パソコンで見るのか?」

 ということになるが、そのパソコンすら、持っていない人が多いという。

 なぜなら、安価で、スマホというものを持っていれば、そこでなんでもできるわけである。

 配信動画を見たり、ゲームをしたり、SNSなどの、コミュニティを楽しんだり、さらには、ニュースだって、配信で見ることもできる。

 テレビ、ゲーム機、そして、パソコンを一つにしたようなものが、スマホだと思えば、スマホというものを、誰もが、持つようになったというのも、当たり前のことであった。

 ただ、この日の映画は、

「やっぱり、映画は大型スクリーン」

 といって、憚らない友達からの誘いだったので、見たかった映画ということもあり、

「たまにはいいか」

 ということで、付き合うことにした。

「付き合ってくれてありがとう」

 といってもらえれば、それだけでもうれしい気分になれるというものであった。

 映画館というのは、昔であれば、

「まるで、学校でいえば、、全校生徒が入れるくらいの、大型スクリーンで見る、大劇場のようなところ」

 ということだっただろうが、途中から、

「街の大型スーパー」

 のようなところの奥に、ひっそりとたたずんでいるようなところもあれば、さらには、同じショッピングセンターといっても、今のような、

「大型商業施設の中に、上映できる映画館が、数スクリーン存在している」

 というような、郊外型のところが出てきたのだ。

 その途中に変わり種と言ったところで、

「車で入場して、夜の静寂を縫うようにして、駐車場のようなところから、モーターシアターのような映画館」

 というのも、一時期流行ったこともあった。

 そんな不思議ともいえる映画館が今までに、たくさんあったが、やはり、時代の波にはついていけないということもあって、どうしても、一時期ほどのことはないといっていいだろう、

 何といっても、戦後しばらくは、

「娯楽といえば、映画」

 という時代があり、

「紳士、淑女のデート」

 といえば、映画だったのだ。

 お互いに仕事が終わってから、待ち合わせてのデートなど、映画デートが主流だったのだ。

 実際にそんな時代が存在していた頃は、まだまだ白黒映画が主流であり、日本の映画もよかったが、やはり、アメリカ映画などが主流だっただろう。もう、半世紀以上も昔というところであった。

 そんな時代は、自分たちのおじいさん世代といってもいいだろう。そんな頃を知っている人は、すでに、定年退職していて、

「第二の人生を歩んでいる」

 という年齢であろう。

 昔であれば、

「悠々自適な年金生活」

 であるが、今では、

「先に定年を迎えるので、年金がもらえるまでは、残りも働かなければいけない。しかし、給料は、がっつりと減らされ、贅沢しなければ、何とかやっていけるということであればいいのだが、何と、働きながらでも、退職金を食いつぶしても、足りるかどうか?」

 という恐ろしい世の中になった。

 ちゃんと、仕事ができる期間、まったく間を開けずに、働いたとしてものことである。

 そんな恐ろしい待遇が、一部の人間だけでなく、次第に、

「ほとんどの人がそうなる」

 という時代になってくるだろう。

 若い人が、年寄りを支える」

 と言われているが、

「真面目に働いてきて、やっと、第二の人生という状態になっているにも関わらず、、こんな仕打ちを受けるのだ。

 政府は、金を使えとばかりに、

「消費しやすいように、休みを増やしたりしている」

 というが、企業が、内部留保のためとはいえ、

「これまでずっと尽くしてくれた功労者ともいうべき、定年まで勤めあげた社員を、そこまでして、苦しめていいのか?」

 ということになる。

 実際に、多くの人の悲鳴が聞こえてきてはいるが、なかなかそれが声となって世間に公表されることはない。

 マスゴミの、

「報道規制でもあっているのか?」

 それとも、

「政府た企業にとって、いや、あるいは社会全体、さらには、一部の人間にとってのことなのか、何か都合の悪いことでもあるということなのだろうか?」

 それを考えると、

「この世に、勧善懲悪なるものは、本当に存在するのだろうか?」

 と思うのであった。

 何といっても、昔の映画や、テレビのゴールデンタイムなどといえば、

「勧善懲悪の時代劇」

 と、相場は決まっていた。

「水戸黄門」

 や、

「遠山の金さん」

 さらには、一時期流行した、

「勧善懲悪といえば」

 といっても過言ではない、

「必殺シリーズ」

 というものあったではないか。

「何といっても、色と金で、世間を渡り歩いている、悪代官と、越後屋などの商人という、相場が決まった連中が、ほぼ決まったような内容のあくどいことをやっていて、

「おぬしもワルよのう。越後屋」

 と、悪代官がいうと、

「お代官様ほどではありません」

 といって、料亭の一室のようなところで、越後屋が持ってきた、

「菓子箱に入った、山吹色に光るもの」

 を見ながら、二人して、餡ともこれ以上ないというくらいのえげつないと言われる汚い笑顔を見せているのだった。

 それだけ、

「悪党面」

 というのが似合う俳優が、その技量として、演技を行うのだから、それなりの迫力があるというものだ。

 いくら、その人が、

「一人の俳優だ」

 ということが分かっているとはいえ、

「ここまで、真に迫った迫力を感じさせる」

 ということも、

「映画人気」

 あるいは、

「時代劇ドラマ人気」

 というものに一役買っているといってもいいだろう。

 それを考えると、映画人気があったというのも、納得がいくというもので、

「唯一の娯楽が、映画だった」

 という時代背景とうまくマッチしたのかも知れない。

 時代として、

「映画しかなかった」

 と言えばいいのか、

「映画だけでも、あるだけよかった」

 と言えばいいのか、時代としては、

「それまでの占領時代からの復興の発展途上の時代で、いよいよ高度成長時代に突入し、それを世界に知らしめる」

 という意味での

「東京オリンピック」

 であったり、

「大阪万博」

 であったりという時代が、起こってくるのであった。

 そんな時代が、過去にあったということは、それこそ、この時代をテーマとした映画などを見た時に知ったという人は皮肉なことであっただろう。

 だが、実際には。ほとんどの人は、

「話としてしか知らない」

 ということだろう。

「祖父から、父親を通して、話として教えてもらえる」

 というそんな話だったのだろう。

 その日は、そんな話を知る由もなく、ただ、友達が誘ってくれるからということで出かけていった映画の帰り道に出くわしたことだったのだ。いつも通る道の夜の静寂が下りていた時のことであったのだ。


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