三十三、毒の正体⑤
シュエと名乗っていたころに使い古した執務室。
そこに足を踏み入れて、東宮は冕冠をおもむろに脱ぎ去った。髪が白銀だ。
「ふう、疲れる」
「東宮さま……わたくしになにか御用でしょうか?」
恭しく拱手礼をして、こうべを垂れたままにホンファが問うた。
「ソナタも、わたしが東宮だと知るや、態度を変えるのか」
「身分が違いますので」
東宮が苦々しく笑った。
「兄君ですか、弟君ですか」
そこまでわかるのか、と東宮が参ったように頭を抱えた。
「わたしは弟だ」
それだけで、ホンファは言葉をやめた。
それ以上は東宮も話したがらないため、ホンファは深入りをやめた。
ふっと息を吐き出して、東宮は懐から巻物を取り出した。
「陳雪梅(チン シュエメイ)とその父・陳浩(チン ハオ)。そなたらの身分を回復し、また、いわれなき罪で死したことへの賠償として、銀千両を与える」
「……は?」
ホンファは間抜けな顔をあげて、東宮を見た。
「ソナタだけではない。ほかの料理人も……隣港の漁師たちは、右大臣が殺したと自白した。しかし、漁師たちが死したのは、もとはと言えば王室の失態。ゆえに、華鳳の乱で死したすべての人間に、わたしは向き合う」
そんなもの、いらない。いまさらそんなことをしたって、死んだ家族が生き返るわけじゃない。ましてや、お金が欲しかったわけでも。
「なん、なんですか」
「……ホンファ。いや、シュエメイ。ソナタのまことの名を探すのに、少々手間取った」
だが、料理長の娘とあらば、そう難しくもないだろうに。
きっとこの東宮は、先の乱で死したすべての人間の名前を探し出し、ひとりひとりに詫びて回っていたのだ。
その最後のひとりが、ホンファ――いや、シュエメイ。
「シュエメイ。よい名だ」
「東宮さまの字(あざな)にはかないませんよ」
「シュエのことか? あれはそうだな、最初は女のようで好きになれなかったが」
今は好きだ。ソナタと共通の文字だからな。
そんな風に笑ったって、許さない。帝も東宮も、いまさらだ。
なんでもっと早く真相を追求しなかった。なんであんな簡単な罠に騙された。
あんなもの、誰が見ても毒殺じゃない、食中毒だったというのに。
「ソナタの父は、最後まで勇敢な方だった」
「父が?」
「食中毒だと、帝に進言すると言ってきかなかったそうだ。だからこそ、右大臣になにより先に処刑された。処刑が決まってからは、ほかの料理人たちが少しでも生き残れるように、罪が軽くなるように、全部の罪を、ソナタの父がかぶって、死んだ」
「チョリエイさんに……聞いています。あまりにも身勝手な父親です」
本当に身勝手だ。あんまりだ。残された家族がどれだけ苦労したと。
父は斬首刑にされ、直継である弟も死罪。
母は奴婢に降格されたが、すぐに病にかかって死んでしまった。
シュエメイはひとり残されて、復讐を誓って後宮に入った。そこでユイユイと出会って、復讐をあきらめた。平穏な暮らしを望んだ。
だというのに、いまさら東宮がしゃしゃり出て、はいあの死刑は間違いでした、なんて、そんなの納得できるはずがない。
シュエメイは東宮を思いきりにらんだ。こぶしを握って、その胸を叩いた。首が飛んでもどうでもよかった。この怒りをぶつける相手が、今はこの東宮のほかに見つからない。
「なんで父が死ななければならなかったのです!」
「すまない」
「なぜもっと早く気づかなかったのです」
「時間が必要だった」
「なぜ。なぜ東宮さまだけ生き残って、なんで私の父が」
東宮は華鳳の乱で処刑されたとされていた。しかし実際は、『生きていた』。
東宮の遺体は確かに東宮だと断定された。それがなぜ、生きているのかと言えば、東宮は『ふたりいた』からだ。
「今は泣け。わたしはこの後、まだやることがある」
やることというのはきっと、右大臣の処罰を決めることだ。
できることなら、シュエメイの手で八つ裂きにしてやりたい。父と同じ苦しみを味わわせて、ボロボロになるまで痛めつけてやりたい。
最後は最も苦しい毒で、死ねばいい。
「それでは、わたしはこれで消えるとしよう。リンリン妃とユーチェン妃のことは、あとは私が請け負うゆえ。ソナタはもう、なにもしなくてよい。『またな』シュエメイ」
東宮が去った執務室で、シュエメイは床にへたり込んで涙を流した。
とうにかれたと思っていた涙はとめどなくあふれ、冬の寒さに身が凍えた。
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