八、曼陀羅華(ちょうせんあさがお)①

「ということで、しばらく私は、リンリン妃さまの料理人として働くことになりました」


 シュエに一応の報告をすると、シュエは意外そうに眉を上げた。


「結局、原因はなんだったんだ?」

「まあ、よくある後宮内の嫉妬です」


 リンリン妃の下女に対しては、ホンファが口酸っぱく指導した。


「リンリン妃さまの前では、体重の話や美醜に関する話、主上の渡りのお話はしないようにと言い聞かせました」

「女性は、かように美しくありたいものなのか?」

「美しく……というよりは、今回のリンリン妃さまの場合は、まじめな性格が裏目に出たのもあります」


 食べたいのに食べられない病は、まじめな人間に起こりやすい。

 挫折した人間は、自分の価値をほかのもので埋めようとする。リンリン妃は、後宮に来て太ってしまい、不安と挫折を味わった。そこに、あの下女が太ったと揶揄したことが重なって、減量するに至った。

 減量は、人間の本能に逆らうことだ。ゆえに、減量に成功する人間は多くはない。そんな、誰もが挫折する減量に成功し、リンリン妃は成功体験を得てしまった。それが、リンリン妃の存在意義にすり替わって、やせている自分には価値があると錯覚してしまったのだ。

 だからリンリン妃は、どんどん食事量が減っていった。体重も比例して減ってしまった。さらには下剤で食べたものを流していた。

 幸いだったのは、リンリン妃が、自分の食事が『普通ではない』という自覚を持っていたことだった。


「では、今日からおかゆを作るので、失礼します」

「ああ、待て。今日の政務は終わったゆえ。わたしも同席するとしよう」

「え、嫌ですよ。料理しない人間が厨房に入るとか」


 衛生的に良くないし。とつぶやくも、シュエには聞こえていないようだ。

 ふっとため息をついて、ホンファは卯の宮の厨房へと足を向ける。



 ホンファはシュエを連れ立って、リンリン妃への料理を作り始める。

 後宮では、帝と妃の料理は帝国厨房で一緒に作る。しかし、今回は特例で、卯の宮の厨房での料理を許可された。シュエの采配だ。


「粥……豆乳粥か。あとはささみと」

「はい。豆乳でお米を炊いて、味付けはシンプルに塩です」

「なるほど。肉は?」

「はい。鶏肉をゆでました。それからあつもの」


 しかし、そのあつものの色が悪い。シュエはあつものの器を取り上げて、


「なんだこの、腐ったような茶色は。このようなものを妃に食させると?」

「これは、醤(ジャン)です」

「ジャン? ジャンをあつものに入れたのか?」


 信じられないものを見るような目で、シュエがホンファに視線を向けた。ホンファは傍にあった樽を取り出し、


「これが、ヒノモトのジャンです。彩の国の甜面醤などと違って、甘みや辛味はつけてありません」

「甘くないジャンだと?」


 レンゲを取り出し、ホンファはヒノモトのジャンを少しだけすくって、シュエに渡した。シュエは恐る恐るレンゲを口に入れる。


「塩辛い……ほのかに甘みがある」

「はい。ヒノモトでは味噌と言います。もともとは未醤という漢字を書きました」

「なるほど。ひしおに未ず。ひしおの一種か」


 ホンファは今度は、味噌のあつものを器によそって、シュエに渡す。

 ふうふうとあつものを冷まし、シュエは口をつける。


「なんと……! 風味がよく、食欲をそそられる」

「はい。味噌には食欲増進作用があります。食前や食中に一緒に飲むとよいかと思い、作りました」


 しかし、このような食材は、後宮にはなかったはずだ。


「もしや、この味噌は、輸入品か?」

「いえ。私が作ったものを持ってきました」

「ソナタ、食材も作るのか?」


 あきれたようにシュエがうなる。彩の国にも発酵食品はいくつもあるが、それらは専用の職人が作っている。発酵食品は管理が難しい。腐敗と発酵は紙一重なため、職人のように知識があるものにしか作れないとされているのだ。


「簡単ですよ。大豆を一晩水に浸けたら軟らかく煮て、塩切りした麹を混ぜ合わせて、樽に詰めて発酵させるだけです」

「それが難しいのだと言っている」

「樽を熱湯消毒して、あとは度数の高いお酒で消毒すれば、さほど難しい話ではありません」


 そういえば、帝の料理を試作するときも、ホンファは消毒に蒸留酒で手を洗っていた。その知識はどこから来るのだろうか。


「そういえば、ソナタ。リンユー妃の下女を殴ったと聞いた時には、俺も驚いたものだが」

「……いや、あれは……カッとなって。でも殴るのはこらえました」

「もうほとんど殴ったようなものだろう。ソナタ、他人に興味がないのかと思っていたが、そうでもないようだな」


 リンリン妃の件を、素直に引き受けなかったことをなじっているのだろう。そりゃあ、ホンファじゃなくともそうだろう。

 なにせ、失敗したら首が飛ぶ。そんなのごめんだ。


「どうだ、ソナタ。わたし付きの女官にならないか?」


 妙に気に入られたようで、シュエは機嫌よく笑っている。ホンファは本気には捉えず、適当に話題を転換した。


「さて、それじゃあ行ってきますね。シュエさまがどんなに偉い官吏さまでも、お妃さまのお部屋には入れないでしょうし」

「いや、入れるが?」

「は?」


 しかして、ホンファとシュエは、ふたりならんでリンリン妃のもとに食事を運ぶのだった。



「あ、シュエさま。こんにちは」

「リンリン妃。お久しうございます」


 先に頭を下げたのはリンリン妃のほうだった。


「シュエさまって、何者なんです?」

「ソナタは知らなくてよい」


 にこ、と人好きする笑みを湛え、シュエがリンリン妃の下座に座る。下座、ということは、リンリン妃のほうが位は上のようだ。

 ホンファは膳をリンリン妃の前に置き、自身は下がって壁際に立ち、こうべを垂れた。


「ホンファ? これはなんです?」

「ああ、リンリン妃。それは味噌のあつものです」

「むう。シュエさまに聞いているのではありません。ホンファ、こちらに来て」

「リンリン妃さま。なりません。私のような下女がおそばに行くなど」

「むう。では、命令です。こっちに来て、一緒に食べてください」


 ええ、とややひきつった顔で、ホンファはこうべを垂れたままにリンリン妃の傍まで歩く。正面に座り、やはりかぶりは下げたままだ。


「ホンファ、味噌とはなんですか?」

「ヒノモトのジャンにございます」

「ホンファ、このお粥、甘くておいしい」

「はい、豆乳のお粥ですので」

「ホンファ、このぺらぺらした食べ物はなに?」

「はい、湯葉でございます」


 という調子で、リンリン妃はひとつ食べてはホンファに尋ね、またひとつ口に運んではホンファに言葉をかける。

 かたわら、シュエなどいないかのように扱われ、シュエがすねている。あとでシュエにごねられそうだ、ホンファは心の中でため息をつく。


「ホンファ。寝るときも、傍にいてほしいのだけれど」

「しかし、私のような下女が」

「お願いったらお願い」

「……かしこまりました。では、また夜に」


 一通り食べ終えて、シュエとホンファはリンリン妃の部屋を出る。


「ソナタ、よっぽどリンリン妃に好かれているのだな」

「いえ、違いますよ。あれは」

「違う、と?」


 ホンファが天井を仰ぐ。


「あれは、幼児退行と言います」

「幼児退行」

「はい。食べられない心の病の子に、よく見られる症状です。体重に比例して、精神が子供に戻ってしまうのです」

「そのようなこと、聞いたこともない」


 そりゃあ、ホンファだって知識として知っていただけで、リンリン妃の症状を見るまでは半信半疑だった。

 幼児退行した患者に対しては、育て直しが有効になる。つまり、本来なら母親がいちから愛情をかけて傍にいるのが一番いいのだ。

 しかし、リンリン妃は後宮にいるため、母親にはめったに会えない。だから、この幼児退行の矛先が、ホンファに向いたのだ。


「して、どのくらいで治るものなのだ?」

「それはなんとも。心の病は時として、何十年単位での治療が必要ですから」


 シュエが眉間をもんだ。

 思っていたより、リンリン妃の病は重いようだ。


「それで、シュエさま。ユイユイのことなんですけど」

「ああ。それか。そうだな、氷を持ち出した人物はふたり」

「ふたり……そんなにかぶるものなんですか?」

「ああ、それは俺も怪しいと思っている」


 氷は貴重品だ。それを、同じ日にふたりも用立てがあるとは、なにか企てがあると見て間違いないだろう。


「それで、そのふたりとは誰なのです」

「ああ。ひとり目は料理人の張来(チョリエイ)、ふたり目は帝国厨房の発注担当者白眉(ハクメイ)」

「どちらも後宮がらみの人間じゃないですか」

「ああ、だから頭を悩ませる」


 現状、このふたりなら貴族のお茶会に果実水を出すとなって、気を利かせて氷を発注したと言われても不自然ではない。

 ふたりとも、氷を必要とする理由のある人物だった。


「そして、チョリエイとハクメイは、あの毒殺未遂の何日かあとから、長期の休暇が出されている。取り調べるにも、帰りを待つ必要がある」

「ますます怪しいですね……」


 とはいえ、厨房の人間を疑うのは気が引けた。


「厨房の取り調べはどうなりましたか?」


 仮にも同僚だ。ホンファに取り調べが及ばないのは、シュエの采配だと思っていたのだが、


「こたびの件は、ソナタの友人――ユイユイという下女の仕業と断定された」

「……は? ろくに調べもせず?」


 ホンファが怒りを滲ませる。シュエは声を低く、


「すまないが、ユイユイという下女は、投獄まではいかないが、わたしのところで取り調べという形で屋敷に軟禁状態が精いっぱいだ」

「そう、ですか。シュエさまって、案外役に立ちませんね」

「おい、ソナタ。わたしを誰と心得て――」

「だれって、帝国厨房の総取締でしょう?」


 あーあ、と天井を仰いで、ホンファはシュエの気持ちなど素知らぬ顔だ。

 その少し後ろから、シュエの付き人であるハクシュウが憐憫をにじませてシュエを見るのだった。

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