二、ホンファ②
場所を厨房に移す。
シュエとホンファは、人払いをして厨房に二人きりだ。人払いするとなれば、それなりにいぶかしがられる覚悟が必要だった。なぜならこのシュエという人間は、どうやら女官のみならず、官吏たちから見ても特異な人物らしい。なんでも、彼に取り入れば出世できるのだ、とのもっぱらの噂だ。
ホンファは出世に興味がない。もっと言えば、目立たずに生きていきたい。幸いにして、ホンファの見た目は名前に反して花のような美しさはなく、平凡を絵にかいたようなものだった。
まずホンファは、念入りに手指を洗う。そのあと、念には念を、度数の高い酒に手を浸し、よく水けをぬぐった。
「酒などなにに使うのかと思えば。今のはなにをした?」
シュエは何事にも臆することはないらしい。ホンファの行動ひとつを監視するように口出しする。
「今のは消毒です」
「酒がか?」
「はい。度数の低いものでは意味をなさないのですが。蒸留酒などの度数の高いお酒は、消毒の効果があるのです」
「なるほど。熱湯消毒はよく聞くが」
「そうですね。人間を熱湯消毒するわけにはいかないので」
熱湯消毒のことを知っているとは、腐っても帝国厨房の総取締なだけはある。
熱湯消毒とは、保存食を作るときによく使われる手法で、保存容器を熱湯で煮沸したり、蒸し器で蒸したり、あるいは熱湯を注いで一定時間置くことでたいていの菌は消滅する。
しかし、食中毒の菌というのは、熱湯や酒の消毒にも打ち勝つものは多数存在するのだが。
「まず、これを使います」
ホンファが取り出したのは、茶色いカピカピの乾物だった。
「これは……食べ物なのか?」
「はい。これは豆腐を乾燥させたものです」
「これが豆腐?」
まずその乾燥させた豆腐を水に浸けて戻したら、よく絞って何度かそれを繰り返す。臭みを抜くためだ。
「酸化した油を抜くためによく洗ったら、ここに調味料をもみこみます」
「待て待て。そもそも、この豆腐の乾物はどう作る?」
「それは……私の部屋に昨年作ったものがありますので。そちらを当分の間は使えよろしいかと」
「良くない。主上の召し上がるものは、わたしが直接安全を確認したものでないと」
そういうものらしい。はあ、とホンファはため息をついて、
「ならば、この料理は冬まで作れないでしょうね」
「冬?」
「はい。豆腐を冬の寒さで凍らせて、それを解凍して……これを繰り返し行うことで、豆腐から水分が抜けてこの乾物が出来上がるのです」
「なるほど。凍らせればよいのだな」
ふむ、とシュエが考え事をしている。なにか当てがあるらしい。
ホンファは面倒くさそうにシュエを見ている。
「氷は夏でも売られているだろう? あれは後宮の氷吏(ひょうり)が管理しているからだ。あれに頼めば、真夏の間氷を管理している地下(氷室)を借りられるだろう」
「まあ、そう来るとは思いましたけど」
ホンファにも当てがなかったわけではない。しかし、この時代の氷は貴重なもので、それこそ、帝か料理人、貴族くらいしかそれを管理する権限を与えられていない。それをこのシュエという人間は、帝の許可を得るまでもなく氷吏の使用の許可を得たような言い方だ。
「シュエさま。主上のご許可もなく、そのようなことが可能なのですか」
「あ。いや。そうだな。主上にご許可はとらねばならないが……なにしろ主上のご病気のご回復がかかっている。なんとしても許可を得られるように尽力する」
「はあ」
無理では? とホンファは思った。いくら帝のご病気のためとはいえ、貴重な氷を管理する氷室への立ち入りをそう簡単に許されるだろうか。いくらこのシュエという人間が、帝国厨房の一番の権力者だとしても。右大臣や左大臣でもあるまいに。
「それで、この豆腐の乾物をどうするのだ?」
「はい。まず、大きな塊のほうは先ほど下味を染み込ませましたので、ここに小麦粉をはたいて」
小麦粉をはたいたら中温の油で揚げる。揚げるのが理想だが、何分ホンファは無力な女官のため、貴重な油をそうやすやすと使えるはずもない。なので今日は、揚げ焼きにする。
「かぐわしいにおいだな」
「はい。残りの乾物は」
細かい豆腐の乾物は、水で戻してよく洗ったあと、卵と小麦粉、それから刻んだ玉ねぎを加えてよくこねて、楕円形に形作る。
「これを両面、よく焼きます。食べるときに大根をおろし、酢とひしおを混ぜたものをかけます」
出来上がった料理を見て、シュエは少しだけ顔をしかめた。どれもなじみのない料理のため、まるで美味そうには見えないのだ。茶色く、色が悪い。
「どうしました?」
「いや……買いかぶりすぎだったのかもしれないな」
箸を手に、シュエは恐る恐る揚げた豆腐の乾物を口に入れた。じゅわっと広がるひしおと生姜とニンニクの香り。なにより、
「これは……鶏肉にそっくりな味だな」
「はい。この豆腐の乾物は、鶏肉ととてもよく似た食感になるんです」
ついで、楕円形に焼いた豆腐を口に入れる。
大根おろしでさっぱりしていて、食欲不振の帝でも食べやすいだろう。豆腐は箸で簡単に崩れ、しかし中はしっとりしていて美味い。味付けは塩と、あとは玉ねぎだけだったのだが、味に深みがあり箸が止まらない。
「美味いな、これは……この豆腐の乾物。これはほかにも使い道がありそうだな」
「はい。おっしゃる通りで。これは肉の代わりに使うことができるので、肉料理ならなんでも再現できてしまいます」
「なるほど……これなら選択肢(レパートリー)も尽きることはないだろうな。しかしソナタ、どこでこんな技術を」
そわ、とホンファが目をそらした。言いたくないらしい。しかし、そうなるとどうしても聞き出したくなるのが人間のサガだ。
「あっ、あと、豆腐をがんもどきと厚揚げにする方法も教えますね!」
話題をそらされ、シュエは少しだけ不機嫌に口を尖らせた。しかし、ホンファの料理が始まるや、それに釘付けだった。
「水切りした豆腐を、そのまま揚げたのが厚揚げです。がんもどきは」
水切りした豆腐をすり鉢ですり、山芋と砂糖、塩で味付ける。具として細切りにした人参や枝豆を混ぜて、楕円形に形作る。
「これはどこの料理だ」
「ヒノモトです」
「ヒノモト……あそこは、隣国ゆえに交易が盛んな国だったな」
友好的な関係のため、ヒノモトは彩の国の食文化を独自の食文化として開花させたことはよく聞く話だ。
「がんもどきに戻りますね。これを、中温の油で揚げていきます。香ばしい色がつけば完成です」
ホンファががんもどきの油を切り、岩塩を添えた。
「主上に出す際も、なるべく揚げたてがよろしいかと」
「揚げたて」
「はい。これは本来、肉の代わりの精進料理として考えられたものです。揚げたての味は、格別かと。名前も、飛竜頭(ひりょうず)とも言うので、主上にはめでたいかと」
龍は王族の象徴だ。
シュエはホンファに促されるまま、がんもどきを口に入れた。かりっと外は香ばしく、なかはもちもちとしていて、とても豆腐とは思えない。
「雁(がん)の肉を模したもの、でがんもどきか。美味いな」
「はい。がんもどきは、作り置きして、煮物にも適します」
鍋に出汁汁と砂糖、みりん、醤油を入れて、煮込むだけだ。
「この調味料は、主上の帝国厨房では手に入らないので、主上には出せませんが」
「ならなぜ作った」
「……煮物を手がかりに、料理人たちが新しい献立を作れるように、託すためです」
煮あがった煮物を、ホンファがシュエに渡す。色が茶色い。
「ヒノモトは、変わった国だな」
「まあ……まだ発展途上ですし」
煮物を口に入れ、シュエは目をしばたたかせた。
「甘い味付けだな」
「はい。ヒノモトの特徴です。世界的に見て、食事の調味に砂糖を使う国はほとんどありません」
だが、このこっくりとした甘みが癖になる。
「粥が欲しくなるな」
「そう言うと思って、炊いてあります」
「む。ソナタの思惑にハマったようで悔しいな」
「ならば白米はやめますか?」
食べる。とシュエが言うと、ホンファは『炊いた』白米をシュエに出した。これにはシュエも困惑した。
「なんだこの白米は?」
「はい。ヒノモト風に、『炊きました』」
「粥ではないのか?」
彩の国では、米は粥にして食べるのが主流だ。米は消化が悪いとされているからだ。
「粥でもよかったのですが、煮物には炊いた白米です。騙されたと思って、どうぞ」
ホンファは白米を椀によそう。シュエは恐る恐る白米を口に入れた。
「甘くて柔らかく、美味いな……?」
「はい。これは、ヒノモトの『炊き方』に秘密があります」
白米を炊く時は、水の量は一・二倍。浸水した白米を鍋に入れ蓋をし、弱めの強火にかけて、沸騰したら一度底からよく混ぜて、蓋をしたら弱火にする。
「炊く時は、絶対に蓋をとってはなりません」
「焦げるのでは?」
「焦がしません。あとは米のにおいや音を聞き、一定時間炊いたら最後に強火にします」
最後に火を強めてから火を消すことで、余計な水分を飛ばすのだ。
「あとは蒸らしたら完成です」
粥に比べて、作り方が複雑だ。
シュエはもう一口、白米を口に入れた。甘みが口いっぱいにひろがった。
次いで煮物を口に入れ、白米も食べる。白米と煮物を交互に食べると、なるほど、ホンファの言う通り、煮物には炊いた白米があう。
「このような料理をどこで……」
「……では、これでもう、帝の献立はじゅうぶんでしょう?」
ホンファが前掛けを外す。
「まあいい。ソナタの料理の腕、しかと覚えた。厨房女官のホンファ。なるほど、ソナタのような優秀な料理人がいたとは」
ふむ、とシュエがにこやかに笑む。
傍ら、従者の白秋(ハクシュウ)が憐れむような目でホンファを見ていた。
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