第37話(飛龍視点)穏やかな時間

「起きろ、飛龍。朝だぞ」


 聞き慣れた声は、記憶の中にあるものより少し高い。すぐに身体を起こすと、佩芳が部屋に入ってきた。


「すぐに朝餉を持ってくるよう頼んだ」


 当たり前のような顔で、佩芳が椅子に腰を下ろす。


 昨晩、飛龍は豊穣宮へ戻ってきた。幽閉生活は終わり、もう飛龍の外出を咎める見張りはいない。

 そして皇帝も、意識を取り戻した。まだ弱っていて喋れる状態ではなかったが、梓宸の見立てによれば、数日中には完全に回復するだろう、とのことだった。


「相変わらずお前は、朝が弱いんだな」


 飛龍の顔を覗き込んで、佩芳が笑う。久しぶりの笑顔に、心臓がきゅっと締めつけられた。


「……なあ、飛龍」

「はい」

「お前は、俺を恨んでいるか?」


 色素の薄い瞳が、じっと飛龍を見つめている。心の奥底まで暴かれそうな眼差しに、どうしようもなく懐かしさを感じた。


「恨んではいません。ただ、腹立たしく思ってはいます」

「そうか」

「どうして俺を、もっと信用してくれなかったのかと」


 梓宸が陛下に毒を盛ってしまったことだって、最初から相談してくれれば、もっと早く対処できたはずだ。

 そもそも、後継者争いについて不安に思っていることだって、ちゃんと話してほしかった。


「俺は皇帝になりたいなんて一度も思ったことはありません。兄上だってそれくらい、分かっていたでしょう?」

「……すまない、飛龍」

「別に俺は、謝ってほしいわけじゃ……」


 言いかけて、自分が妙なことを言っていることに気づいた。佩芳にされたことを考えれば、謝罪されるのは当たり前のことだ。


 それでも、佩芳には謝罪なんて似合わない。そう思ってしまうのは、弟の欲目だろうか。


「全部、俺が弱かったからだ」


 真っ直ぐな目で見つめられ、頭を下げられたら、これ以上何も言えなくなってしまう。

 狡い人だ。昔から、そういうところは変わっていない。


「だから飛龍。梓宸のことは、恨まないでやってくれ」

「……あいつのことは、昔から嫌いですけどね」


 飛龍の言葉に、佩芳は大きく笑った。昔と変わらない弟の主張に、笑みを抑えきれなかったのだろう。


「今度、三人で狩りにでも行くか」

「……梓宸、狩りなんてできるんですか?」

「いや、兎一匹を狩るのにだって、仙術を使うような男だ」


 お待たせしました、と部屋の扉が開いて、二人分の朝餉が運ばれてきた。昔と同様、佩芳の量は圧倒的である。


「飛龍」

「はい」

「あの娘にも、感謝しなければな」

「ええ。小鈴には、かなり助けられました」


 小鈴がこなければ、今も幽閉されたままで、父は命を落としていたかもしれない。

 小鈴がいろいろと動いてくれたおかげで、こうしてまた兄と食事を共にできるようになったのだ。





「まあ、佩芳様、飛龍様!」


 二人の姿を見つけ、翠蘭は瞳を輝かせた。そして、慌てて小鈴! と叫ぶ。すると隣の部屋から、慌ただしく小鈴がやってきた。


「飛龍様! ご一緒にこられたんですか!」

「ああ。兄上が誘ってくれたからな」


 飛龍の言葉に、小鈴と翠蘭がそろってにやつく。やりにくいことこの上ないが、今まで二人にかけてきた迷惑と心配を考えれば、文句は言えない。


「佩芳様、小鈴も一緒にお茶していいでしょう?」

「ああ、もちろんだ」

「ありがとうございます。小鈴、さあ座って。ほら」

「はい、翠蘭様」


 四人で茶を飲むような日がくるなんて、昨日までは想像したことすらなかった。まるで、夢でも見ている気分だ。

 これが現実だと確かめたくて、飛龍は熱いお茶をそのまま口へ流し込んだ。


「心配をかけて悪かったな、翠蘭」

「佩芳様……。お二人が無事に仲直りできたようで、なによりです」


 いろいろと聞きたいこともあるだろうに、翠蘭は根掘り葉掘り事情を聞いてこない。良家の子女らしく、慎み深い女性だ。

 なにより、佩芳のことを昔から慕っている。きっといい妻になるだろう。


「またいつでも、二人でいらしてくださいね。私も小鈴も、ずっと待っていますから。ねえ、小鈴」


 翠蘭が視線を向けると、小鈴は慌てて顔を上げた。ついさっきまで、必死に熱い茶に息を吹きかけていたのだ。

 半分妖狐の血が入っているからなのか、小鈴はかなりの猫舌である。


「はい! いつでも大歓迎です」

「梓宸殿も、たまにはご一緒にどうかしら?」


 翠蘭の言葉に、小鈴はあからさまに顔をひきつらせた。飛龍同様、梓宸に対する苦手意識はまだ残っているのだろう。


「まあ、小鈴、どうしたの。そんな顔をして」

「えっ? あ、えーと、お茶が少し熱かったんです」

「そうなの? 火傷していない? 大丈夫?」


 翠蘭が慌てて小鈴の顔を覗き込む。妹を心配しているようで微笑ましい。

 ふと、佩芳と目が合った。飛龍がなにかを言うよりも先に、佩芳が声を上げて笑う。


 これほど穏やかな時間を過ごすのは、本当に久しぶりだ。





 意識を取り戻した皇帝に、佩芳と二人で呼ばれた。緊張しつつも、佩芳と共に皇帝の部屋へ入室する。

 かなりやせ細ってはいるが、前回会った時と比べると顔色がかなりよくなっていた。


「佩芳、飛龍。お前たちをここに呼んだ理由は、分かるな」


 室内には他に誰もいない。事前に皇帝が人払いをしたからだろう。


「はい」


 真剣な声で、佩芳が返事をした。飛龍も慌ててそれに倣う。

 皇帝には、梓宸が毒を盛ったことはもちろん伝えていない。


「こうして回復したが、体力は衰えている。それに、予が倒れている間、お前たちが協力して政を行っていたのであろう?」

「はい。私は、兄上を支えただけですが」


 飛龍が精神病で幽閉されていた、などという都合の悪い事実は伝えないことにした。既に、王城で働く全員にきつく箝口令を敷いている。


「知っている。よくやってくれた、佩芳」

「……はい」

「予は近いうちに退位する予定だ。分かっているだろうが、次の皇帝はお前だぞ、佩芳」


 あまりにもあっさりと言うものだから、拍子抜けしてしまった。

 万が一自分が指名されたらどうしよう、と緊張しながらやってきたというのに。


「佩芳? そんなに驚いた顔をしてどうした?」

「い、いえ、その……」

「まさか、自分が選ばれないかもしれない、などと思っていたのか?」


 皇帝は大笑いし、そして、慌てて胸元を抑えた。病み上がりの今は、笑うだけでも身体がきついのだろう。


「正式に伝えるのが遅くなって悪かったな。機会を窺っていただけだ。皆の前で、派手に宣言する、という案もあったんだぞ」

「そ、そうだったんですね、父上」


 上ずった声で返事をすると、佩芳はゆっくりと飛龍を見つめた。

 言葉を交わさなくても、互いが考えていることはなんとなく分かる。


「これからも二人で支え合ってくれ」


 はい、という二人の返事は完璧に重なった。それを聞いた皇帝が上機嫌に笑う。


 ……俺たちは本当に、争う理由なんて一つもなかったんだな。

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