第29話(梓宸視点)二人の
「父上が倒れた……!?」
佩芳の大きな叫び声が、豊穣宮中に響き渡った。続いて、どたばたと廊下を走る音がする。
いよいよだ。
深呼吸をし、ゆっくりと立ち上がる。
佩芳の付き人として、すぐに梓宸も駆けつけなければならない。
大丈夫。誰も気づくはずがない。
だって何も、普通の人間には見えないのだから。
◆
「父上……っ!」
皇帝の部屋へ入ると、倒れた皇帝に縋りつき、佩芳が叫んでいた。佩芳のこんな声を聞いたのは初めてで、心臓が潰れそうになる。
陛下が第二皇子を選ぶのではないか、という噂はあった。
けれど陛下は、佩芳様を虐げていたわけでも、嫌っていたわけでもない。
佩芳様だって、陛下が嫌いだったわけではないはずだ。
「どうして……」
泣きそうな佩芳が、皇帝の手をぎゅっと握る。しかし皇帝は何の反応も見せず、うなだれたままだ。
死んではいない。でも、もう意識が回復することはないだろう。
昨晩、殭屍に持ってこさせたのは、
鴆の毒は、少量でもかなりの効果を要する。
触れるだけでも危ない毒。そして、医者は気づくことのできない毒。
皇帝を殺すには、ぴったりの毒だった。
昨晩城に戻ってきた梓宸は、鴆の頭から唾液を採取し、台所へ忍び込んで、皇帝の湯飲みの内側に塗っておいた。
唾液は透明だ。誰かに気づかれる心配はなかった。
鴆に触れないように唾液を採取し、湯呑に塗るのは骨が折れた。だが、やった甲斐があった。
「……父上は、病気だったのか」
震える声で、佩芳が医者に問う。
医者は青ざめた顔をゆっくりと横に振った。
「いえ。陛下は健康そのものでした。病の前兆もなく……それが、その、茶を飲んですぐ、倒れてしまったそうで」
佩芳の視線が、床に転がった湯呑に向けられた。
「げ、原因はこれから調べます。茶を用意した侍女にも詳しい話を聞いて……」
医者がわざわざ茶の話を強調しているのは、おそらく責任逃れのためだ。
医者が病を見逃したせいで皇帝が死んだことになれば、死罪になる可能性がかなり高いから。
「……茶を飲んで、すぐか」
ゆっくりと佩芳が湯呑に近づく。
そしてそっと湯呑に手を伸ばした瞬間、とっさに叫んでしまった。
「おやめください、佩芳様!」
いきなりの大声に驚いたのは佩芳だけではない。医者も、震えながら部屋の隅に待機していた侍女も、口を大きく開けて梓宸を見ていた。
……しまった。
佩芳様がなぜか気に入っている、陰気で暗い男。
それが、皆が梓宸に持っている印象だ。そんな梓宸が大声を出すなんて、誰も思わなかったのだろう。
「佩芳様。陛下は、茶を飲んですぐに倒れてしまったのでしょう。その湯呑に触れるのは、危ないのではないかと」
なんとか平静を保ちながらそう言うと、そうです! と医者がすぐに同意してくれた。
「私どもがきちんとお調べいたしますので、佩芳様は、決してこの湯呑には触れませぬよう」
「……ああ、そうだな。分かった」
佩芳は頷いて、手を引っ込めた。代わりに、じっと梓宸を見つめてくる。
目を逸らしてしまいたい。けれど今目を逸らすわけにはいかない。
ぎゅっと足の裏に力を入れ、真っ直ぐに佩芳を見つめ返した。
「おい。茶を用意した侍女を牢へ入れておけ!」
佩芳が叫ぶ。すると、部屋の外に控えていた見張りが、血相を変えて走り去っていった。
◆
「……これは」
部屋へやってきた飛龍が、呆然とした表情で呟く。そんな飛龍の横顔を、佩芳は観察するように見つめていた。
「いきなり倒れたそうだ」
佩芳の声には、感情が込められていない。不気味なほど冷ややかな声だ。
佩芳様……。
鼓動が速くなって、今すぐこの場から逃げ出したくなる。佩芳と飛龍のやりとりも、全く耳に入ってこない。
「今から、俺が父上の代理を務める。後継者を指名していない以上、第一皇子である俺の役目だ」
いきなり、力強い声が聞こえた。いや、違う。何も聞こえなくなってしまっていた梓宸の声に、その言葉だけがはっきりと届いたのだ。
「……はい」
弱々しい声で、飛龍が返事をした。
「異論はあるか?」
「いえ」
「ならいい」
立ち上がると、佩芳は梓宸を見つめた。彼の瞳に映る自分が酷く情けない顔をしている気がして、慌てて目を逸らす。
「行くぞ、梓宸」
「……はい」
皇帝が後継者を定めないまま倒れ、第一皇子である佩芳が代理を務める。
望んでいた通りの、計画通りの展開だ。
それなのに、どうしようもなく胸が騒ぐ。
◆
「梓宸」
自室に戻ると、佩芳は椅子に座り、長い足を組んだ。
「はい」
「すぐに、手練れの武官を用意してくれ。なるべく大量に」
「……なぜです?」
「病の弟を、部屋に閉じ込めるためだ」
ははっ、と佩芳は声を上げて笑おうとし……そして、失敗した。梓宸を見つめる瞳からは、今にも涙がこぼれてきそうだ。
けれど、佩芳は泣かなかった。
「梓宸」
佩芳の声が震えている。招かれるがまま、梓宸は佩芳に近寄った。
手が伸びてきて、強引に顔を引き寄せられる。そして、耳元で囁かれた。
「これは、俺たち二人の罪だ」
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