Life of Abuse

入月純

第1話

 引越し先にその家を選んだ理由はただひとつ。家賃の安さだった。


 もちろん、安いだけならいくらでもあるけれど、六畳の洋室と和室がひとつずつある2Kのマンションでその家賃は破格と言ってもいいくらいに飛び抜けて安かった。


 しかし、俺だって馬鹿じゃない。当然理由を訊く。


「えーと……いわゆる事故物件みたいな感じでしてー」


 語尾を間延びさせた喋り方でいまいち緊張感のない不動産屋の女は、苦笑いの表情を張り付かせながら続ける。


「前に住んでた人がすぐに出てっちゃったんですよねー」


 ん? すぐに出ていったとはいえ、それで事故物件扱いになるのだろうか……という俺の疑問に「あっ」と小さな口をあんぐり開けることで、自らのミスを俺に告げた。


 そして、更に言わなくてもいいことを教えてくれる。


「前の前の住人さんが、自殺しちゃったんですよ。だからです」


 なんと答えたらいいものか。いや、正直に話してくれてこちらとしてはありがたいし、誠実な人に接客してもらえてよかったと思わなくもないが、彼女の後ろで事務作業をしている恐らく先輩スタッフであろう男性たちは、露骨な咳払いや睨みを彼女に向けている。


 恐らく新卒で入社したばかりだろう。すっかり夏日が当たり前に感じるほど気温が上がり続けているとはいえ、暦はまだ六月。今年度の入社なら、まだ二ヶ月しか経っていないのだろうし、あまり責めないでやってほしい。


「あー……そうですか。でもこの安さは正直魅力です」

「そうですよねっ。内見行きますか?」


 うーんと腕を組み唸る。いきなり過ぎる気もするけど、まあとりあえずどんな感じなのか一度見に行くのもいいかな。


「うん、まあ、お願いします」

「じゃあ早速行きましょう!」


 颯爽と立ち上がり、車のキーをチャラチャラと俺に見せつけるスタッフの女性は七尾さんという名だった。子供じみたテンションの高さと顔の幼さから、高校生くらいに見える外見の割に、車の免許を持っていることに俺は少し驚いてしまう。


 店からくだんの物件までは、車で大凡おおよそ20分の距離だった。

 助手席に乗り込んだ俺は、数分ののちに自分よりも五歳ほど年下の女性が披露する驚愕の運転技術にぐったりさせられてしまう。


 大通りではミラーを確認せず車線を変えるし、路地に入るとアクセルを強く踏み込むし、脇見運転上等とばかりに、足元の小さなボックスに入れたスナック菓子を数秒おきにバリバリ頬張る七尾さん。


 生きた心地がしないままようやく辿り着いたマンション前で俺は無事にここまでこれたことを神に感謝し、帰りはどうしようかと思案しながらマンションを見上げる。


 七階建ての真っ白な外壁をしたその建物は、築年数こそ20年を超えているものの、リノベーションをしっかりと行っているからか、新築と言われても信じてしまうほど綺麗に見えた。もちろん表面的な部分だけが綺麗で、中に入れば……ということはよくあるし、それだけで判断するつもりはないが。


「さ、入りましょ」


 そういえば鍵とかは大丈夫なのだろうか。普通、管理人とかに連絡して鍵を受け取ってから行くものではという素人考えは、ドアの隙間に差し込まれるようにつけられていたダイヤル錠を見て改める。


 内見の度にいちいち管理会社と不動産屋がやりとりするのも面倒だろうから、ナンバーを共有していつでも入れるようにしているのだろう。


 七尾さんはドアを全開にして俺を中に誘導しているが、部屋の内装よりも六階から見下ろす高さが気になり、俺は玄関前の共有通路から下を覗いた。


 実家は集合住宅の一階だったし、初めての一人暮らしでもあるので、当然二階以上の高さに住むのも初めてになる。


 ……ここに決めれば、の話だけれど。

 俺が外の景色に飽きるまで待っていてくれた七尾さんは、俺が中に入ると静かにドアを閉める。


「どうですかっ? なかなかいいですよね~」


 案内する気が全くないのだろう、彼女は室内をうろちょろしていて俺の近くに寄ってもこない。


 まあ、正直この人に何も期待してないからいいけどな。

 俺は靴を脱ぎながら室内を見渡す。


 光沢のあるフローリングが敷き詰められた五畳のキッチンスペースが広がり、そこから全ての部屋につながるドアが見えた。


 バス・トイレは別で、玄関左に風呂場、そして、壁を一枚挟んでトイレがある。見た感じ、風呂場もトイレもそこまでスペースはなさそうだけど、一人で入る場所にスペースなんて必要ない。


 更に、右手側には洋室と和室が並んでいる。

 まず、玄関から入ってすぐに六畳の洋室が、そして奥にはこちらも六畳の和室がある。


 うまい棒を食べこぼしながら歩き回っている七尾さんを無視して、まずは洋室の中の様子を伺う。

 床板は張り替えられたばかりなのか、真っ白な板が太陽光に照らされていて、白い砂浜を連想させた。壁紙を含め、特に気になるところはなさそうだった。


 次いで、隣の和室を覗く。洋室に比べ少しだけ薄暗い気がしたのは床の材質の違いのせいだろうけれど、ベランダに出られる大きな窓がついているので、日中は明るさに困ることはないだろう。でも畳が焼けてしまうから、常にカーテンをしておいた方がいいのだろうか。


 畳の部屋は初めてだから、いまいち勝手がわからん。まあ、そこまで神経質になる必要もないか。

 その後、シンクと冷蔵庫のスペース、トイレや風呂場も確認する。


 特に老朽化が見られはしなかったけど、多分中身は所々ボロがきてるんだろうな。


「あの……これで家賃二万って、ほんとにいいんですか?」


 築年数二十一年、六階の角部屋で、最寄り駅は徒歩十五分。歩くのは速い方だから、多分俺の足なら十分で着くだろう。片方は和室だけど、しっかり二部屋もあって、床板も畳も新しい。壁のひび割れもないし、確かRC造だったはず。それで二万は、流石に破格過ぎないか?


「大家さんに確認済みですから心配ないですよー」


 ニコニコしながら板チョコを舐めている七尾さんは、チョコがついた指でスマホを操作し、恐らく不動産屋と大家の間で取り交わされているであろう契約書みたいな画面を得意気に見せてくる。


 ていうか、それ客に見せていいものなのか?


「……事故物件か。いや、でもまあ別にいいかな。あれですよね、死んだっていうのも、前の前でしたっけ。じゃあ一個前の住人は普通に最後まで住んでたんですよね」


「そうですね〜。すぐ出てっちゃいましたけど」


 子供みたいに指をペロペロ舐めながら適当な感じでそう応える七尾さん。


 まあ、仕事だって一日で辞める奴はいるし、数日で引っ越しする奴だっていなくはないだろう。


「ちなみに、なんでそいつは引っ越したんですか? そいつん時も家賃は二万だったんですよね?」


 え〜と……と、言って良いのかどうか逡巡しているというよりは、単純に思い出してるだけに見えるけれど、七尾さんは「あ! そうそう」と話し出す。


「確かですね〜お化けを見たからって、すぐ出てったみたいですよ〜。あはは、お化けって、子供じゃないんだから」


 ひまわりみたいな笑顔で客を腐す七尾さん。なんか、少しではあるけれどこの人に愛着が湧いてきてしまっている自分が恥ずかしい。


 しかし、お化けね……。


「そのお化けとやらは、どんな感じだったんですかね。髪が長くて白装束で――とか?」

「たしか、女の子だって言ってた気がします。実はですねー、なんと! ちょうどそのお客さんも私が対応した人だったんですよ〜」


 えへんと自慢気に控えめな胸を逸らす七尾さんだったが、そういうことだったのかと俺は納得する。失礼だけど、この女性が物件の退去者情報をそこまで暗記しているとはとても思えないし、なんで何も見ずに退去理由を語れるかといえば、自分が担当していたからということだったのか。


「女の子……まあ、ある意味定番ではありますね。で、そいつはなんかされたんですか? そのお化けに」

「何もされてないみたいですよー多分。怪我もしてないし、首を絞められた痕もなかったし」


 そういうところだけは目敏く見ているのか。でもまあ女性は意外とぼーっとしている人でも結構他人の容姿の変化に敏感だったりするからな。


「あ、じゃあ直接会ったんですね、その前住人と。他になんか変わった様子はありました?」


 俺の問に、うむむ……と首を傾げながらアポロチョコを口に放り込む。糖分を補給し続けないと、こんな短時間すら会話が不能になってしまうのかこの女は。


「特になかったと思います。ただ……すごく怯えてました」

「……そうですか」


 そりゃあ、実際幽霊を目撃したら怯えもするだろうし、引っ越したくもなるだろう。なにも危害を加えられなかったとはいえ、今後も無事で済む保証なんてどこにもないんだし、住み続けてたら殺されるかもしれないんだから。


 ま、幽霊とやらが実在するならって話だけどな。


「よし、決めました。この部屋、契約します」

「ほんとですか?!」


 わーいと幼稚園児の如く飛び跳ねた七尾さんは、まるで俺の気持ちが変わらない内にと言わんばかりにバッグから契約書を出す。端がチョコでベタベタになった書類を受取り、名前やら現住所やらをサインした俺は、連帯保証人になってもらうため実家の親に電話して了承を得た後、親の情報も書き込んで終了。


「あとは……後日管理会社さんから連絡があると思うので、鍵の受け渡しとかは管理会社さんと相談してください」


 嬉しそうに破顔した七尾さんは、クリアファイルに入れることなく直でバッグに書類を投げ込み、「じゃ、帰りましょ」と帰社を促す。

 こうして俺は引越し先を見つけることができた。


 初めての一人暮らし。


 それは、期待に胸を膨らませていた俺の胸筋を突き破って心臓をえぐり出す様な出来事との遭遇の始まりだった。

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