第23話
”言語”には、たくさんの用途があり、レベル=ヒエラルキーがある。
言葉を覚えたての幼児にとっては、「意思疎通」がやっとで、原始的な言語を持つといわれるイルカとかミツバチ、チンパンジーとかもこの域を超える用途を持つのは不可能である。
アンドレ・マズローは、欲求のレベルというものを想定して、最も下位の欲求に、生理欲求、そこから、安全、所属…基本的な順にレベルが上がっていって、最後に最上位に来るのが”自己実現欲求”である。
動物レベルからだんだんに人間的になっていって、最後が自己実現。つまり、「人はパンのみにて生きるにあらず」の、ところから、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というそういう道筋である。
こういう発想で、「言語(使用)のレベル」を類推すれば、やはり最上位に来るのが「言語藝術」である文芸や文学への摘要、リテラシーの、最も高級で精妙な発現というか、真骨頂の、文学的な使役、そうなると思います。
で、この場合に「伝わるかどうか」というのは、もはや二の次、三の次になっている場合もあって、「わかる人にだけわかればよい」と、嘯いている小説家というのはむしろステレオタイプなくらいかもしれない。
ラカンという人の「精神病」という本には、「本当の芸術と、精神病者の妄想の発露とは峻別されねばならぬ」というような議論があって、似て非なるポンコツを、それっぽく見せかけているというまがいもののポエムとかがだからある一方で、ランボーやヴェルレーヌにはまぎれない本当の詩想がある…で、わかりにくいが、その分水嶺の、「普遍妥当性」?「不滅性」?…それはどういうものと解釈すればいいのか?パラフレーズすると?…ボクの興味のある所はそこなのです。
つまり、もともと「本物の人間」、「フェイクな人間」という色分けがあり、結局その相違から、著される作物の玉石混交の、「玉」か「石」かが決まってしまうのか?
だとしたら、自分でも人間性とかにはどうも自信がないボクなどは、悪あがきするだけ無駄骨ということになってしまう?
文藝論争とか言うものは昔からいろいろあるみたいで、その場合はやはりこういう真贋の見極めについての議論になっているという印象があります。
「鶏頭の十四五本もありぬべし」という子規の俳句が「”草の芽”でくだらん」と見るか、「秀逸な写生句」ととるかは、にわかに断じにくい。
ひと昔前には「白樺派」や、有島武郎とかの小説の愛読者は多かったが、今ではどちらかというとアナクロで、「獅子文六」を、福田和也という評論家が褒めていたりするとかなり奇特な印象を受けたりする。??
言いたいのは、文藝や文学という言語藝術の粋、上澄み、そこまで高みに来ると、そこまででも大変だろうが、あと、真贋の基準や条件とかが曖昧になってくるというところだと思います。「芥川賞受賞」という
タレントが書いて、知名度だけで売れた小説などは、また評価が難しくもなるし、チャーチルだからこそ書けた回顧録が、記録的な価値ゆえにノーベル文学賞を受賞、そういうややこしいケースもある。
若輩で、青二才で、文学にもぜんぜん生半可…が、それゆえにこそ自分などにもまだまだ伸びしろはあるように思う…思いたいのです。
で、もっと精進努力勉強したのちに、人生をしっかりつかみ直したうえで、何となく流布している「電気羊」というイメージ? をどう相対化するかとか? そこのみが自分のアドバンテージという、そういう気もします。
世界文学と日本文学 夢美瑠瑠 @joeyasushi
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