第19話


  英語で書かれた文学が、世界規模ではまず中心の王道。それは地球の歴史の中で、これまでほとんどゆるぎない、確固たる不変の事実だった。

 

 もちろん文学と雖も、当然、複雑多岐で、千差万別で、ボクは、そういう英米文学の、真っ向からロマンチックラブとかビルドウンクスロマンとか?を謳っているものよりも、中国の四大奇書とか、ゴーゴリとか、最近のラテンアメリカ文学とか、マニアックな傾向の文学のほうがかえって読みやすかったり好きだったりもしますが…


 で英米の古典小説はもとより、SFとか、ハリウッドの映画、そういうまあ、アメリカ中心の舶来の文化は、明治維新以来に日本に絶え間なく流れ込んでいて、なんというか日本人や日本文化を侵蝕し、洗脳し、もはや骨がらみになっていて…そういうことは冷厳な事実で、これもかなり生半可だが、日本ピープルのアイデンティティとかそういう問題については、アメリカ、英語文化圏とのせめぎあいや、相互関係?を抜きに語れない。


 文学も例外でない、というよりむしろ、要するにピープルの人格やら精神が涵養されるdomesticな文化的な土壌、その形成に与ってきた、古来もっとも大きな要因は、だから古今東西を問わず、人文科学、文学だったのではないか?


 大学の学部の序列でも、文系はまず文学部が配置される。哲学書が「最終的な書物」とされるらしいですが、われわれ一般ピープルも、活字だとまず小説類を好んで読むし、勉強家だとさらに哲学書に進化するという道筋でしょうか。


 が、文学の場合は、翻訳という壁が、立ちふさがって、外国のものをネイティブ同様に、その真髄を享受するのは難しいところがあり、


 いわゆる「バベルの塔」の逸話、神話は、裏を返せば多様な言語の混在の不便さや非合理性の謂いともいえる。

 

 エスペラント語の発明の趣旨も同様。異文化間の交流、あるいは紛争や誤解による国際問題等の根幹にはやはりこの言語の壁があって、が、国際語であるMANGAや、日本作家の小説が世界で読まれたり、現代の情報化社会の様々な恩恵によって、HGウェルズが世界中を講演をして回って主張したような?平和的な「世界連邦」へと、だんだんに収斂、収束していくような?一方ではそういう割と楽天的な未来図も描き得る気もする。


… …


 新しい時代の、今後の文学はどうあるべきだろうか?


 もっとも人間らしい営みの、文学は、少なくともないがしろにされるべきでなく、ブラッドベリが「華氏451度」というSFで、描いたような、あるいはオーウェルが「1984」で描いたような、恐怖的な未来への、対抗的な橋頭保に、文学は、文化一般はなるべきで、それは「焚書坑儒」という愚挙をなしたという秦の始皇帝、あるいはナチスとかの恐怖政治、反人道的な権力の暴力の対極にあるものだと思い?ます。

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