第20話


 ボクは、自分が文学を語ったり、小説を書いたり、そういうことに適性があるという自信とかはなくて、今でも「こういうことはどういうふうにしていったらいいのかナ?」みたいに暗中模索というか、手探り状態です。


 だいたい真っ当な人間という自信すら、確立できたためしがない。

 ブログを始めたのが15年くらい前で、その時は軽い気持ちだったですが、そこでいろいろとそれまでの生涯にはありえなかったようなさまざまな邂逅や遭遇というか、不可思議な?えにしが芽生えて? で、紆余曲折のあげくに、昔からなんとなく「小説家になりたいなあ」という希望が alternative の一つとしてあり、いろんなSNSのうちで一番結果的に向いている感じの?小説投稿サイトに、devote myself 一意専心、一路邁進、しているんですが…


  ですが、一応?文学部卒で、心理学専攻で、そういう小説家志望の人は多いかも?


 小さいころから、「小説家」という仕事は身近な世代で、今なら「ユーチューバー」とか、「漫画家」にあたるのが、一昔前は「小説家」だったです。


 作家向きの資質として、「挿話記憶とか幼児記憶が強いこと」というのはよく言われる。ボクは逆で、意味記憶のほうがマシだが、昔のエピソードは貧弱だ。将棋のプロで「オレは昔のことな~んも覚えとらん」とか言っている人いたが、それに近い。

 ナボコフという作家が、「昔のことなぞ、馬に噛まれたことくらいしか覚えてないやつがいるが…」とか書いていて、(「河馬に噛まれる」という大江健三郎氏の著書はそれを踏まえてるのかな?w)そのナボコフの自伝を読むと、記憶の細密さに驚く感じだそうだ。(未読ですが)


 叔父やら父は、多少俳句とか詠んでいて、文芸好き、という感じもあったけど、何しろ昔はテレビラジオ、新聞、週刊誌くらいしかマスメディアがなくて、もし才能とか埋もれていても発現のしようがなかったですが?今は手軽に自分の書いたものを活字にして、自由に閲覧してもらえるという、そういう場ができて、隆盛しているので、ホンマは根暗で活気もなくて、作家とか遠い夢で「望蜀の嘆」?やったボクでもかなりに修練を積んで、身近な人に読んでもらうとすごく褒めてもらったりして、また人生をやり直そうという自信を取り戻せてきて…ホンマ「芸は身を助く」という、好個の例かなと、神仏のめぐりあわせだかに感謝したい気持ちです。


 


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