世界文学と日本文学

夢美瑠瑠

第1話



 紫式部や、セルバンテス以来に、連綿として”文学”というものがあって、途切れたことがなくて、愛好者は多い。


 ”文藝”ともいう。英語だと「Literature」。 これは、ちょっとニュアンスが難しい気もしますが?「Literally」(文字通りに)とか、「literasy」(読み書き能力)とかの一連の派生語で、元の言葉になるかと思う。また調べ直しておきます。


 言語藝術一般をさすわけですが、だから「言葉」は、恐らく人間を人間たらしめている、もっとも根幹の、人類の紐帯の裏付け?…ことば無くしては、そもそも人と人とが繋がりようがない、と、そういう意味では言語 language は、基本的なもっとも枢要なアイテム、営み、不滅の金科玉条、根本原理のようなものかとも思う。


 で、日本を「言霊の咲きほう国」ともいうですが、つまり非常に言葉の豊かな国である、と。漢字があって、ひらがなもあるし、なんというか美感がある。サルトルが来日した時に「日本の文字、これこそが文字だ」と述べたそうですが、そういえば、どこの国の言葉でも、日本語に比べると何となく殺風景でそっけなくも見える。


 ボクは、読書や教養も中途半端で、まだ勉強中ですが、それでもまあまあ造詣?の欠片でもあるとしたら”文学”とかにかかわる話題しかなくて、武者小路実篤さんが、「この道より吾を生かす道無し。この道を歩く」と、よく色紙に書いていたそうですが、自分も晩年で、どうにか褒めてもらえてきた?ブンガクとかをせいぜい頑張るしかどうしようもない、可能性とか夢があるとしたら?と、そう思う。


 人生の途上で、なんだか妙な蹉跌をきたして?長く廃人状態で、そのまま死んだらよかったのですが?w


 「芸は身を助く」というのか、「菜根譚」にある「闇の一灯」のようにブンガクに、不即不離に触れて、それっぽいまねごとを続けてきて、


 で、結局、いつも、小説を書くとか、詩や歌をひねるとかいうことについてのアンビバレントな思いがあって、方針とかポリシー?意味?是非?すべて五里霧中で迷妄していて、全然やめたほうがいいのだとは思うw


 まあ、悩んで「筆を折る」というのもひとつで、ダヴィンチの師匠は、弟子の描いた天使を見て、絶望して筆を折ったとか言われる。


 <続く>

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