第二章 覚悟、矜持、思惑
第46話 臣下たち①
神聖暦七三六年。イデナ大陸西部において長年にわたり覇権を保ってきたロベリア帝国は、ついに崩壊し始めた。
元より兆候はあった。帝国社会が数十年にわたって停滞を続ける中で、宮廷貴族たちは腐敗して様々な利権を占めるようになり、帝権は弱体化した。相対的に地方の領主貴族たちは力を増し、皇帝家の支配は帝国の隅々まで及ばなくなった。
宮廷貴族たちは皇帝家の忠臣を語りながら、既得権益を餌に派閥を肥えさせ、皇帝家ではなく自分たちの利益のために仕事をしていた。領主貴族たちは帝国の一員を名乗りながら、帝国への帰属意識を薄れさせ、独立の気運を高めていった。
帝国の崩壊は、もはや決定事項。そう囁かれる中で帝国が一応の形を保っていたのは、偏に皇帝セザール・ロベリア二世の名声があったため。
数十年前の国境の会戦で、帝国に最後の勝利をもたらしたセザール二世は、帝国軍の名将マクシミリアン・シュヴァリエ侯爵と個人的な友情を築いた。そして、帝国軍の平民軍人たちや、帝国中央部の民から強き皇帝として支持を得た。
皇帝として一定の軍事力だけは掌握したことで、セザール二世は帝国の延命を成していた。宮廷貴族たちも皇帝に直接的に逆らうことはせず、領主貴族たちも、下手に皇帝に逆らって独立などを試みるのは時期が悪いからと、様子見を続けていた。
この均衡は、セザール二世と皇妃、そして継嗣である皇太子の事故死によって崩れ去った。
皇帝を中心に置くことでかろうじて秩序を保っていた宮廷貴族たちの各派閥は、それぞれが抱える皇族を帝位に据え、より大きな権益を握るために争い始めた。宮廷の政争と距離を置きながら高い求心力を誇ってきたシュヴァリエ侯爵も、指揮下の第一軍団を引き連れ、独自勢力として動き出した。
皇帝家や宮廷貴族たちが地方に干渉する余裕を失ったため、各地の領主貴族たちは名実ともに帝国への帰属を終わらせるべく動き出した。大貴族たちは帝国から独立し、他の大貴族との勢力争いに打ち勝つため。中小の貴族たちは、勝ち馬に乗って新たな時代を生き残るため。それぞれが思惑を抱えて暗躍し始めた。
本格的な動乱は冬明けから始まると目される中で、しかし早くも行動に出る貴族もいた。フルーネフェルト伯爵家もそのひとつだった。
十月末。リシュリュー伯爵領を併合し、大幅に勢力を増したフルーネフェルト伯爵ヴィルヘルムは、さらなる勢力拡大に向けて徐々に動き出していた。
最優先すべきは、直接的な力――すなわち軍事力の増強。
創設されたばかりのフルーネフェルト伯爵領軍へ、志願して入隊した新兵たちの訓練を、ヴィルヘルムは視察していた。
「皆、なかなか威勢がいいね」
ユトレヒトの郊外。騎士や兵士に指導されながら、百人ほどの新兵が戦闘訓練を行っている様を見回し、ヴィルヘルムは言った。
「威勢だけは、と言ったところでしょうか。実力に関しては素人に毛が生えた程度です」
「あはは、それは仕方ないよ。訓練を始めてまだ間もないからね。真面目に臨んでいるなら、今は十分だよ」
ため息交じりに答えたヴァーツラフに、ヴィルヘルムは苦笑を返す。
新兵のうち大半は、旧リシュリュー伯爵領の出身者。多くは継ぐべき家も農地も家業もない者たちで、市井の仕事よりも良い待遇に釣られて志願した。これからの訓練で心身ともに鍛えられ、真の軍人になることを期待されている。
そして残りが、旧フルーネフェルト男爵領の出身者。多くはノエレ村の惨劇で親類や知人友人を失い、二度と同じ悲劇を起こさないために軍人になると決意した者たち。家族を無惨に殺されながら、惨劇を伝えるために生かされたノエレ村の村民たちも入隊している。
そのため、彼らは旧リシュリュー伯爵領民と比べても士気が高く、犠牲者たちの復讐を成したヴィルヘルムに対する忠誠心も高い。将来的には、フルーネフェルト家を守る親衛隊となることが期待されている。
「予定通り、冬明けまでにはある程度の形になりそうかな?」
「はい。軍に志願するだけあって、戦闘については全員ある程度の素質はあります。頭が良い者も何人かいます。数か月あれば、一応まともに使えるようになるかと」
「それならいい。もし見込みのある者がいれば、ラクリマ突撃中隊に引き抜いても構わないよ。君が信用できる傭兵を引き入れて中隊を完成させた後は、新兵を迎えてさらに規模を拡大していくことになるからね」
旧ラクリマ傭兵団に関しては、いずれ将軍となるヴァーツラフの直轄部隊としてそのまま彼に預けることをヴィルヘルムは決めていた。彼の率いるラクリマ突撃中隊は、今後の勢力拡大に伴う戦いにおいて、勝利への突破口を開く精鋭部隊として活躍することが期待されている。
五十人弱ではいずれ規模が心許なくなるため、まずは中隊規模、百人に増員することをヴィルヘルムは目指している。手っ取り早い規模拡大のために、ヴァーツラフの伝手で信用できる傭兵を集め、正規軍人として雇い、彼の部下にするつもりでいる。
「……ラクリマの名をあらためて与えてくださったこと、心より感謝しています」
「君にとっては思い入れのある名前だろうからね。将軍となる君の名前と共に、この大陸西部に知らしめていくといい」
神妙な表情のヴァーツラフに、ヴィルヘルムは微笑を浮かべて言う。
ヴァーツラフの直轄部隊にラクリマの名を与えた時、普段あまり感情を見せない彼は、珍しく嬉しそうな様子だった。
異形の装備で顔を隠した不気味な精鋭部隊に象徴的な部隊名が合わされば、敵を畏怖させる効果を期待できる。今後のヴァーツラフたちの活躍如何では、彼らがただ戦場に並ぶだけで敵の士気を下げ、脆弱な徴集兵などは逃走させられるかもしれない。
そのような狙いも込みで、ヴィルヘルムはラクリマ突撃中隊の名をヴァーツラフたちに与えた。
「閣下。よろしければ、新兵たちにお言葉を賜りたく」
そのとき。ヴィルヘルムのもとへ歩み寄って申し出たのは、ラクリマ突撃中隊の副隊長であるアキームだった。ヴァーツラフの側近として長年傭兵たちの面倒を見てきた彼は、その面倒見の良さを買われて、新兵訓練の実務責任者に任命されている。
「構わないよ。僕としても、頑張る新兵たちを励ましてあげたいからね。皆を集めてくれ」
アキームが集合させた新兵たちに、ヴィルヘルムは訓示を行う。
その様を眺めながら、ヴァーツラフが声をかけたのは、ヴィルヘルムの護衛を務めている騎士エルヴィンだった。
「……それで、俺たちは最初よりも信用されているのか?」
問われたエルヴィンは、無言でヴァーツラフに視線を向ける。その表情はやや硬い。
それを横目で見て、ヴァーツラフはフッと笑いを零す。
「別に嫌味のつもりじゃない。いくら俺の娘を行儀見習いに出して恭順の姿勢を示しているとはいえ、俺たちの立場を考えれば、警戒されるのは当然の話だ。だが、あんたが本気で俺たちを危険視しているのか、それとも一応の用心として警戒しているのかは、俺も気になるところでな」
これまで、ヴァーツラフはエルヴィンとそれなりに言葉を交わした。仕事の役割分担などについて、特にいがみ合うこともなく話し合ってきた。
その際には多少の雑談を交えることもあったが、エルヴィンはあえてこのような話題を避けている様子だった。それでいて、当初は敵として現れ、しかし味方に変わり、臣下の列に加わったヴァーツラフたちに、どこまで気を許すべきか彼が決めかねているのは明らかだった。
なのでヴァーツラフは、あえて自分からこの話題に触れた。
「……お前の言う通り、最初よりは信用している。お前たちは閣下の勝利に貢献し、騎士として忠誠も誓った。それは事実だし、俺もお前たちの功績は認めているつもりだ。だが、お前たちは味方となってからまだ日が浅い。他の臣下たちと同じように信用するには、もっと時間が要る」
エルヴィンの言葉に、ヴァーツラフは頷いた。
「それでいい。そうあるべきだ。あんたたち譜代の騎士に警戒されながら、フルーネフェルト家の臣下として誠実に務めを果たすことで、俺たちラクリマ突撃中隊の信用は築かれていく……これからもしっかり警戒してくれ」
にやりと笑ってヴァーツラフが言うと、エルヴィンは微苦笑で応えた。
・・・・・・
新兵の視察を終えたヴィルヘルムに付き従い、エルヴィンは屋敷に戻った。
「それじゃあ、僕は夕方まで執務室に籠るよ。書類仕事が溜まっているからね」
「かしこまりました。それでは、私は自分の執務室におります」
領主執務室へ入るヴィルヘルムを見送ったエルヴィンは、従士長執務室へ移動する。
ヴィルヘルムが領都を出る際の護衛は、こうしてできるだけ自ら務めるようにしているが、平時の屋敷の警備については、他の譜代の騎士たちに任せている。
今や従士長であり、同時に領軍隊長となったエルヴィンは、ただ一騎士として主家を守り戦うだけの存在ではない。軍事に関する領主の最側近として多くの仕事を抱えている。
譜代の騎士、元傭兵、元敵軍の将兵、そして素人同然の新兵を寄せ集めて創設されたばかりの領軍が、組織として機能するよう統率する。信用のおける譜代の騎士たちだけで、領主夫妻の身辺警護と屋敷の警備が回るように采配する。そして、フルーネフェルト家のさらなる勢力拡大のため、近いうちに始まる新たな戦いに備える。
それら幾つもの重要な仕事について、主より全権を預かり、実務を手がける。これはエルヴィンだけにできる仕事だった。ヴァーツラフやティエリーといった外様の部隊長たちではなく、主より絶対の信頼を与えられた最側近の自分だけが果たすことのできる役割だった。
今日の午後には、旧リシュリュー伯爵領からティエリーの部下が来訪する。ランツや各都市の治安維持について報告を受けなければならない。
その他にも、次の戦い――冬の前にも決行される、西の小貴族領群を征服するための戦いについても準備を進めなければならない。進軍のための補給計画について、文官側の進捗報告を確認した上で必要な指示を出さなければならない。兵の徴集計画についてもあらためて見直したい。
考えをめぐらせながら、自身の執務室へ向かっていると、廊下で鉢合わせしたのは領主夫人アノーラだった。
「奥方様」
「あら、お疲れさま……相変わらず歩くのが速いのね、お兄様。今日も忙しそう」
一礼したエルヴィンに対して、アノーラは笑みを零しながら親しげに言った。
彼女は主家の夫人であると同時に、エルヴィンにとっては妹でもある。そして「お兄様」と呼んでくるときの彼女は、領主夫人ではなく妹として話したがっている。
「……まあ、そうだな。今はフルーネフェルト伯爵領軍にとって貴重な猶予だ。やることは幾らでもある。一日も、一刻たりとも無駄にはできないと思うと、歩くのも速くなるさ」
小さく嘆息しながら、エルヴィンは答えた。
「あまり根を詰めすぎないで……と言っても、今のお兄様の立場では難しいんでしょうね」
「今や、俺の仕事の出来で主家の命運や大勢の人生が左右されるからな」
そう言いながら、兄妹で苦笑を交わす。いきなり領主夫人になってしまったアノーラと同じく、エルヴィンの立場もこの一か月ほどで激変した。一か月前は、まだ一騎士に過ぎなかった。
「それじゃあ、せめて忘れないで。ヴィリーは臣下の誰よりもお兄様のことを頼りにしているってことを。お兄様こそがフルーネフェルト家の最側近で、お兄様は生前のお父様と同じだけの貢献を確かに成しているってことを」
「……何よりの励ましだ。ありがとう、アノーラ」
そう言って、エルヴィンは妹と別れ、執務室に向かう。足取りは先ほどよりも軽く、心の内には力が満ちている。
父ノルベルトは言っていた。命を捧げたいと思える主に仕えることが、騎士にとって至上の喜びであると。父はその至上の喜びを得て、最後は文字通り主に命を捧げた。
自分にとっては、エーリクが命を捧げるべき主になるはずだった。彼は親友であり、そして将来の主だった。敬愛と忠誠と命を、捧げるに足る男だった。
しかし、エーリクは死んでしまった。次期領主として強い使命感を持っていたが故に、民を守ろうとして散った。自分は彼を止めることも、一緒に死んでやることもできなかった。
そして、自分は新たに命を捧げるべき主を――ヴィルヘルム・フルーネフェルトという生涯の主を得た。
彼は示してくれた。失われた全ての者に報いる方法を。遺された全ての者を救う未来を。
彼は見せてくれた。自分たちが進むべき道を。自分が命を賭して戦う理由を。
だから、自分は絶対の忠誠を誓い、あらゆる献身を成すと決意したのだ。父が命を捧げた主の息子に。生涯その名を忘れない親友の弟に。大切な妹が永遠の愛を誓った青年に。
自分は至上の喜びを得た騎士であると、エルヴィンは確信している。
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