彼女の願い、僕の未来
古都礼奈
新たな生活の始まり
野球一筋だった僕の生活は、ある日突然終わりを迎えた。
両親は交通事故で帰らぬ人となり、僕は家もなく、天涯孤独の身になった。
周りの大人たちは「不運だ」と口々に言うけれど、そんな言葉では表しきれないほどの喪失感が僕を襲った。
学校も、野球も、もう僕にとっては何の意味もないように感じられた。
そんなとき、現れたのが彼女だった。
名前は橘 奈緒美(たちばな なおみ)。
両親の友人で、いつも微笑みを浮かべている上品な女性だった。
彼女は僕を静かに見つめ、手を差し伸べてくれた。
「翔太、私の家に来なさい。これからは私があなたを支えるわ」
その言葉に、僕は一瞬ためらった。両親を失ったばかりの僕にとって、何もかもが不安定で、誰かに頼ることが怖かったからだ。
でも、奈緒美さんの目に浮かぶ優しさと決意に触れ、僕はその手を握ることにした。
奈緒美さんの家は、僕が想像していたよりもずっと大きく、豪華だった。
広々とした庭に面した洋館は、まるで絵本の中に出てくるような立派な建物で、僕はその美しさに圧倒された。
彼女は一人暮らしで、広い家の中には、静けさが漂っていた。
「ここがあなたの新しい家よ」
奈緒美さんはそう言って、僕に部屋を案内した。
広い部屋には大きなベッドと、本棚、そして窓からは庭の美しい景色が一望できた。
正直、ここが自分の新しい居場所になるなんて、まだ実感が湧かなかった。
最初の数日は、何もかもが新鮮で、僕は奈緒美さんの指示に従いながら生活していた。
彼女はとても優しく、僕に必要なものをすべて用意してくれた。
食事も服も、何一つ不自由はなかった。
しかし、僕の心には、まだ抜けない喪失感が残っていた。
ある日、夕食の後、奈緒美さんが僕に言った。
「あなたがこれからどうしたいのか、考えてみたことはある?」
その言葉に、僕は何も答えられなかった。
両親を失ってからというもの、未来のことなんて考える余裕もなく、ただその日を生きるだけで精一杯だったからだ。
「無理に答えを出す必要はないわ。ただ、あなたにはまだこれからの人生がある。それをどう生きたいか、ゆっくり考えてみてちょうだい」
その夜、僕は久しぶりに両親のことを思い出した。
野球の試合で勝ったとき、父さんはいつも嬉しそうに僕を褒めてくれた。
母さんは、僕のユニフォームをいつもきれいに洗ってくれた。
そんな思い出が、まるで昨日のことのように蘇った。
だけど、もう二度と戻らない日々だった。
翌日、奈緒美さんは僕にとあることを提案してきた。
「実はね、私はずっと娘が欲しかったの。でも、神様は私に子供を授けてくれなかった。だから、もしあなたがよければ、私の娘として生きてみない?」
その言葉を聞いた瞬間、僕の心は大きく揺れた。
娘として生きる?女の子になる?そんなこと、考えたこともなかった。
僕は野球少年で、今まで男としての人生しか知らなかったからだ。
「もちろん、無理にとは言わないわ。ただ、考えてみてほしいの。あなたがこれからどう生きたいか。その選択肢の一つとして、私の願いを考慮に入れてもらえたら嬉しいわ」
奈緒美さんの瞳には、真剣な光が宿っていた。
彼女の願いは、単なるわがままではなく、深い思いから来るものだと感じた。
彼女もまた、何かを失い、寂しさを抱えて生きてきたのだろう。
その夜、僕は自分の部屋で一人考え込んだ。
これからの人生をどう生きるべきか、そんな問いを自分に投げかけたことはなかった。
だけど、奈緒美さんが言った通り、僕にはまだこれからの人生が残っている。
それをどう生きたいか、自分の意思で決めなければならない。
翌朝、僕は奈緒美さんに向かってこう言った。
「僕、あなたの娘として生きてみます」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出てきた。
僕は彼女に感謝していたし、彼女の願いを叶えることで、自分も新しい生き方を見つけられるのではないかと思ったからだ。
奈緒美さんは、驚いた表情を一瞬見せたあと、微笑んで僕の手を握った。
「ありがとう、あなたがそう決めてくれて嬉しいわ。これから一緒に、新しい人生を歩んでいきましょう」
こうして、僕の新しい生活が始まった。
これまでとは全く違う、彼女の願いに応えるための生活。
しかし、それはまた、僕自身の未来への一歩でもあった。
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