一色雅美の短編集

一色雅美

第1話 境界坂

 俺、江西みのるは早川駿と仲が良かった。俺達は小学校、中学校と同じサッカークラブに所属していて、ダブルエースとして活躍していた。高校生になっても、それは変わらないはずだった…。

 高校一年の夏。俺ら二人は自転車で一緒に学校から帰っていた。今日、近々行われる県大会のレギュラーとベンチが発表され、俺達はその話題で持ちきりだった。なにせ駿だけ、一年生なのにレギュラー入りを果たしたのだ。

 編成は、駿ワントップの攻撃型。駿が選ばれたのは、フィジカルの強さからくる突破力、足の速さ、そして、強烈な右脚から放たれる無回転シュートの得点力。

 正直、俺が駿のスペックに負けてるとは思えなかった。

 だが、俺ではなく駿がレギュラーに選ばれ理由はすぐにわかった。

 コミュニケーション能力の高さだ。

 駿は、もうすでに三年生何人かと仲が良かった。

 きっと、三年生からの推薦もあったのかもしれない。

「正直、おまえがレギュラーに選ばれるとは思わなかったな」

 俺は嫉妬心からそんなことを言った。

「何いってんだ。おまえだってベンチ入ったろ。一年でこれは、結構すげーんじゃねーの」

 つまり、俺は駿がコケた時の代役ってわけだ。

「レギュラー取ったやつに言われたくねーよ。それに、使うならツートップだろ」

「仕方ねーよ。監督がワントップって言ってんだから。俺とおまえ二人レギュラーは無理だったんだよ」

 そんなこと、重々わかっていた。

 だが、俺は悔しかったんだ。

「なぁ、駿。おまえ、あの坂覚えてるか?」

「あ?ああ、覚えてる。また、登るのか」

「ああ、今から行こうぜ」

「そうだな。今日は部活が早く終わったから、運動のしがいがあるな」

 俺らは昔、近くの登り坂をダッシュして登るトレーニングをしていた。

 通称【境界坂】

 下から見ると、向こう側が見えないことから、そう呼ぶようになった。

 坂は長く、百メートルはあったと思う。何本も往復したり、ランニングの通路にして、俺らはそこで体力を培ってきた。

 自転車で坂の麓まで来ると、駿は準備運動を始めた。俺も釣られて、準備運動をする。

「今日はどうする?往復二十本か?」

「いや、ダッシュ一本勝負だ!」

 俺はニヤリと笑った。

「賭けをしようぜ。負けたほうがジュースを二本奢る」

「お、いいぜ。やろうやろう」

 彼はそう言って、笑った。

 駿は賭け事によく乗るタイプだった。

「んじゃあ、準備はいいか?」

「おう、バッチリよ」

 ようい、ドン、で俺等は一斉に坂を駆け抜けた。

 車が隣でどんどん追い越していくが、俺の競争相手は駿だけだった。

 風を切り捨てるように、どんどん脚のスピードを早める。腕振りで体幹を調整しながら、心拍数を上げることに意識を向ける。

「よっしゃあ、俺が一番」

「……」

 だと言うのに、一番は駿になる。

「はぁ、はぁ…ち、ちくしょ」

「ジュース二本な」

「もう一回!」

「賭けは?」

「やる!」

「いいぜ」

 僕らは麓まで戻り、もう一本走る。

「よっしゃぁ!」

「くそっ」

 今度は俺が勝った。

「もう一回!」

 駿が悔しそうに言う。

「オーケー」

 それから一時間、俺達は走った。

 もう、誰が何本のジュースを買うかすらわからなかった。

 途中から、俺達は数を数えるのをやめた。

「もう、帰ろうぜ。おれ、疲れたわ」

 駿が唐突に言った。

「後一本、後一本だけやろーぜ」

 俺はそう言った。

 今日だけは、駿に負けたくなかった。

「チッ、しゃーねーな、後一回だけだぜ」

 俺達は息を切らしながら、スタート地点に並んだ。

 もう、スタートの掛け声すらなかった。

 お互いに準備が出来た、そう思ったら駆け出していた。

 坂の中盤まで来て、ようやく、駿が俺の後ろを走るようになった。

 これなら勝てる。そう思った。

 坂の頂上まであと、少し。

 その時、後ろから声が聞こえた。

「おい、とまれ、ちょっと、待てって」

 後ろを向くと、駿が膝に手を当てて立ち止まっていた。

 勝った。

 そう思った。

 俺はスピードを上げる。

 ふと、気づく。

 あれ?

 頂上が見えなかった。

 横を見ると、見慣れた光景だ。

 景色は動いてる。

 前を向く。

 まだ、上がある。

 走る。走る。走る。

 脚の限界はすぐに来た。

 だが、それでも脚は止まらず動き続けた。

「え?えっなんで、なんで…っ」

 息が荒い。呼吸を整えるだけで、肺が傷んだ。

 何時間走っただろうか。もう、脚が熱くて灰にでもなりそうだった。

「はっ、はっ、はっ…」

 もうダメだ。

 そう思った時、急に脚が止まった。

「え⁉️」 

 そのまま、俺はへばりつくように地面に倒れた。

 それから俺は、何時間もそのままだった気がする。

 俺は起きる気力もわかず、いつの間にか眠りについていた。

 目が覚めた時、頭がとてもスッキリしていた。

 空気が冷たかった。霜が目の前に浮いている。早朝だった。

 脚は重たかったが、歩けないほどでもなかった。俺は早々に坂を下った。

 自転車が一台だけ、坂の下で待ち構えていた。

 駿の自転車はなかった。帰ったのだろうか。

 この時、俺の心は泥沼の底に居るみたいに、疲れ果てていた。

 何も考えず、俺は家に向かった。

「ただいまぁ~」

 鍵を開け、玄関をくぐる。当然、返事はない。

 早朝だ。みんな眠っているのだろう。

「ん?」

 居間に入ると、ちょうど階段を父さんが降りてきていた。

「父さん。おはよう」

「ああ、おはよう…って、おまえ、今帰ってきたのか?」

「あ、ああ。うん。そうだけど」

 ぼんやりとした頭で俺は答える。

 やっぱ、叱られるか。

 そんなことを軽く考えた。

「何してたんだ?彼女と一緒に居たのか?」

「んぁ?俺に彼女がいねーことぐらい知ってるだろ?」

「そうだっけか?じゃあ、何してたんだよ?母さんものすごく心配してたんだからな。警察に行こうって騒いだんだぜ。まぁ俺が止めたから良かったものを…」

「ごめん。でも、俺だって訳わかんねーのよ。駿と坂登ってたら、急に脚がとまん無くなって、止まったと思ったら寝ちまって、起きたら朝だったんだよ」

「何だそれ?夢でも見たってのか?」

「違う。全部ホントのことだ」

「まぁ、帰ってきたんならいいけど。あんまり親を心配させるなよ。後、朝帰りは高校卒業してからにしろ。それと、今日は学校いけよ」

「わかってるって」

 俺は舌打ちをした。

「飯はなに食う?」

「なんでもいいよ」

「あいよ。じゃあ、トーストエッグな」

 俺は父さんが作るトーストエッグを待つ間に、風呂に入ることにした。

 風呂から出て、トーストエッグを食べた。その間に母さんが二階から降りてきて、俺に説教した。俺は早々に説教から逃げて、二階の自室に向かった。

 今日の授業の支度をしなきゃいけない。

 脚の痛みに耐えながら、リュックに教科書類をつめていると、気がつく。

 あ、そうだ。今日朝練あんじゃん。

 急いで時計を見ると、明らかに遅刻だった。

 くっそ。駿のやつ連絡くらいくれよ。

 俺は急いで家を出て学校に向かった。

 遅かった。

 グラウンドについた頃には、もうみんなコートの片付けをしていた。

 俺はグランドの隅に立つ監督の元へ走った。

「す、すいません。遅れました」

 俺は頭を下げる。

 強面の顔が、俺を見下ろした。

「みのるか。どうして遅刻した?」

「すいません。ね、寝坊です」

 俺はすぐに嘘をついた。

 昨日の話がこの場で信じてもらえるとは、俺だって思わない。

「そうか。レギュラーになったからと言って気を緩めるなよ。お前が練習しないと、お前をレギュラーにした意味がないんだからな」

「は、はい?」

 俺は顔を上げる。

 レギュラー? 

 何のことだ?

「あ、あの、レギュラーって」

「何だ?不満か?」

「駿、駿はどうしたんですか?」

「あ、駿?駿って誰だ?」

「え?」

「馬鹿なこと言わず、練習にはちゃんと参加しろよ。俺はお前に期待してるんだからな」

 監督はそう言うと、俺の肩を軽く叩いて、グラウンドに歩いていった。

 俺は呆然と、その場に立ちすくんだ。

 それからすぐ、スマホのラインから、駿の名前を探した。

 けれど、駿のサッカーボールのアイコンがどこにも無かった。

 その日1日、俺は学校中で駿を探した。

 けど、駿は、早川駿は、この学校に在籍していないことになっていた。

 もちろん、誰も彼の事など知らなかった。

 その日から、予定通り俺は三年生、二年生らレギュラー組と練習をすることになった。

 

 季節は流れ、俺達はその年の県大会で優勝を逃した。

 監督が途中から、俺を試合に起用しなくなったからだ。

 駿が居ない。それだけで、俺のサッカーは全く面白くなくなった。そのせいで、大会の途中から俺と先輩たちで亀裂が出来ていた。その亀裂こそ、俺と駿の違いであり、今大会の結果をもたらす要因だった。俺を起用すれば、勝てたものを…。

 監督が打ち上げと言って、焼き肉屋を予約していた。だが、俺は不参加を決めた。

 俺は家に帰ると、庭に荷物を全部おいて、あの坂に向かった。

 猛烈に走りたい気分だった。

 こんなに嫌な気分はない。

 ここで優勝しておけば、俺達は高校サッカー選手権への出場切符を手に入れるはずだったんだ。

 それは俺の夢でもある。

 だが、最後の三試合、俺は試合に一試合も出れなかった。

 最悪な気分だ。だから、負けたんだ。

 坂の頂点まで来た。

 うにゃりとした下り坂が目の前にある。

 俺はその場で立ち止まって、高い位置の風を浴びた。

 息を吸って、吐く。

 目を開けると、声がした。

「おい、みのる」

 目の前に、自転車で坂を登る、早川駿が居た。

「…駿?」

「ああ、俺だ」

 駿は自転車から降りると、俺の前に立った。

 背が延びていた。

 髪の毛も、少し切っただろうか。

「駿、今までどこ行ってたんだ?」

「どこって、お前こそどこに言ってたんだよ」

 駿は目を細めて、笑いをこらえていた。

「俺は、ずっとこの街に居たよ。お前が居ない世界で、学校に通って、県大会に出た」

「やっぱりそうか。俺もこの街に居たぜ。江西みのるが居な世界でな。俺も、県大会に出たんんだ。優勝だ!」

 駿はとてもうれしそうに言った。

「やっぱ駿は違うな。俺は、準決止まりだよ」

「まじかよ。相手どこだった?」

「西木高校」

「ああ、俺達も準決であたったぜ。強かったよな」

「十五番のディフェンダーがやばかったな」

「ああ、あいつな。植村だろ。つえーよな。俺、大会の後あいつのインスタ覗いたんだけどさ、サッカーのことしか乗せてねーの。笑っちまったよ」

「そうなんか。俺もインスタやろうかなぁ」

「そういえば、お前はやってなかったんだったな」

「ああ。あんまりネットに興味が無くてさ」

「そうか。まぁ、お前らしいな」

 俺達はそれから、何気ない会話をした。

 久しぶりに、大きな声で、心の底から笑えた気がする。

 そうしていると、空の色も黒くなり始めた。

「なぁ、もう帰ろうぜ。久しぶりに飯でも食いいこ」

 俺は駿に言った。

「悪いが、それは無理だ。多分、俺とお前じゃもう住んでる世界が違う」

「は?どういうこと?」

「俺の世界に、みのるや、みのるの家族は居なかった。きっと、お前の方もそうだろ。つまり、俺はお前の世界の住人じゃなくなっちまったみたい何だよ」

「そんなこと…」

「これが現実だ。だから、悪いな。俺はそっちにはいけない」

「じゃあ、此処でお別れってことか?」

「ああ、そうだ」

「んなこと…」

「悪いな。俺だって分かれたくねーけど。しょうがないだろ」

 彼ははにかんだ。

 諦めてる顔だ。

「じゃ、じゃあ、せめてこれ持ってけよ」

 俺は急いで着ていた学校のジャージを脱いで、駿に渡した。

「何だよ。彼女じゃねーんだから」

「持ってけ。俺が居た証拠になるだろ」

「わかったよ。ありがたく受け取っとく。それじゃあ、俺からはこいつだ」

 そう言って、駿がリックの中から取り出したのは、ナイキの印が入った箱だった。

「これは?」

「スパイク」

「まじで?」

「ああ。今日、なんでかお前と会えそうだと思ったからさ。用意してたの持ってきたんだ」

「まじで嬉しい。ありがとう」

 俺は駿から箱をもらう。

 ずっしりと、深い質感が肌を伝った。

「んじゃあ、お互いサッカー頑張ろうぜ」

 唐突に、駿が拳を突き出した。

「ああ」

 俺は駿に拳を合わせる。

 駿は自転車に乗って、俺に手を振ってから坂道を降った。

 なんだか、いつもの学校帰りに分かれる時みたいだった。 


 その日以降、俺と駿は一度も合うことはなかった。

 大人になった今でも駿からもらったスパイクは戸棚に飾ってある。スパイクは嬉しいことに、駿のサイン入りだった。

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