天国行きのボウル・キック

戯男

天国行きのボウル・キック


   1



「これはなに?」

 ダイニング・テーブルに置かれたそれを指さしながら、彼女は言った。

 僕は肩をすくめてみせた。

「見てわからない?」

「わからないわ。どうしてこんなものがこの家にあるのか」

 彼女は苛立ったような口調で続けた。

「だから、ちゃんと説明して欲しいの。あなたの口から」

 僕は言った。「本だよ。マンガの」

「ねえ」と彼女は言った。「なるべく私をいらいらさせないでくれる? もしあなたがわざとやってるんじゃないならだけど」

「わかったよ」と僕は言った。「エロ本だ。僕が買った」

「どうして?」

「なにが?」

「なにがって?」と彼女は言った。「何がわからないの? 私の言いたいことが本当にわからないの?」

 僕はもう一度肩をすくめた。

「わかるよ。でも、君は根本的に少しだけ間違ってる。僕がこれを買ったのは、別に君に対して何か不満があったりするからじゃない。そういうのとは全く違うんだよ。男ってのはそういうものなんだ」

 彼女は何かを鎮めるようにゆっくりと息を吐いた。

「百歩譲ってそうだとしましょう」と彼女は言った。「男ってのは根本的にそうなんだってことに。でも、もしそうだとしても、一緒に住んでる私に対する気遣いはあるべきじゃない?」

 僕は何も言い返せなかった。

 彼女は汚らしそうにその本——先週僕がブックオフで買ったエロマンガ本——を僕の方に押しやると、テーブルに肘をついて指を組み合わせ、そこに額を押しつけた。

 僕は立ったまま、彼女のつむじを見下ろしていた。

「悪いけど、しばらく出ていってくれる?」

 長い沈黙の後、彼女は言った。

「しばらくって?」

「わからない。でもとにかく、今はあなたの顔を見ていたくないの」

「わかった」と僕は言った。

「ごめんなさい」

「あやまることなんてないよ。もともと君の部屋だ」

 僕はダイニングを出て廊下を玄関まで戻り、つい数分前に脱いだばかりのバスケットボール・シューズを履いた。

 玄関のドアを閉める時、テーブルの上にエロマンガを置きっぱなしにしてきたことに気が付いた。取りに戻ろうかと思ったが、やめておいた。きっと彼女が処分してくれるだろう。



   2



「ボブズ・バー」の重い扉を肩で押し開けると、カウンターの向こうのボブと目が合った。彼は手を止めることなくグラスを拭き続けた。

「やどなしになっちゃったよ」

 いつもと同じカウンターに座った僕の前に、ボブは黙ってビールの瓶とグラスを置いた。

 グラスを一息で空にすると、ボブが毛むくじゃらの腕を伸ばして二杯目を注いでくれた。

「彼女にエロ本が見つかっちゃったんだ」と僕は言った。

「無理に話さなくたっていいよ」とボブは言った。「別にこっちも無理に聞いたりしない」

「いや、僕はたぶん誰かに聞いて欲しいんだな」

「だったら好きにするといい」

「好きにするさ」

 店の中は客たちが吐いた煙草の煙でむっとしていた。

 ボブが僕の前に皿を二つ並べた。

「今日は一人だよ。突き出しはひとつでいい」

「客が少なくてね」とボブは言った。「フライド・ポテトが余りそうなんだ。ゴミ箱に捨てるより、あんたの腹の中に捨てたほうがいくらかましだからね」

 僕は追加でいわしの酢漬けとレバーのパテを頼み、テレビの野球中継を見ながら、何本かのビールと一緒に喉に流し込んだ。



   3



 二年前で、彼女は二十七歳、僕は二十八歳だった。我々は電通大の脇を通って深大寺まで歩き、植物園近くのコーヒー・ショップに入ってドーナツをかじった。やけに甘ったるいドーナツだった。

「ねえ」テーブルに肘をついて彼女が言った。「この先、もし私が浮気をしたとするでしょう」

 僕は指についた砂糖を落としてから首を振った。「考えたくないな」

「でも、仮にそういうことがあったとするじゃない?」

「わかったよ」僕はしぶしぶうなずいた。「仮にね」

「そんな事になったとしたら、あなたは私を許してくれる?」

 僕は少し間をおいて言った。「場合によるとしか言えないよ」

「私は泣いてあなたに懇願するの」組み合わせた指に顎を載せて彼女は言った。「その相手とはもう二度と会わない、二度と他の男と寝たりしない、だから今度だけは許して頂戴って、泣きながらあなたの脚を抱いて、膝に何度も口づけをするの。そうしたらあなたは、私のことを許してくれる?」

「許すよ」僕は言った。

「そう」彼女はつまらなさそうに言った。「私は許さないわ。たとえあなたが足の指の間を綺麗に舐めてくれたってね」

「じゃあどうするんだ?」

「殺すのよ」

 彼女は言って、自分の言葉を確かめるようにゆっくり肯いた。「殺すの」



   4



 電話が鳴った。

 ベルを四回やりすごしてから、僕は立ち上がって受話器を取った。

「もしもし」彼女だった。「そっちに戻ってると思ったわ」

「うん」

 沈黙。

「私があなたを殺したがってると思う?」

「思うよ」

「本当に?」

「本当に」

 彼女が溜め息をついて、受話器を持ち替えたらしい音が聞こえた。

「あなたを許すわ」

「ありがとう」

「でも、ひとつだけ条件があるの」

「条件?」

「ええ。あなたのきんたまを思いきり蹴り上げさせて欲しいの」

 僕は左手を顔の前で広げて爪の伸び具合を確認した。薬指だけが他よりほんの少し長く、カーブの具合もいびつだった。

「もう一度だけ言ってもらえるかな?」

「あなたのきんたまを思いきり蹴り上げたいの」

 僕はしばらく考えてから言った。「いいよ。わかった」

「本当?」

「でも、少し時間が欲しいな。なんというか、準備をするための」

「いいわ」と彼女は言った。「じゃあ、用意ができたら部屋に来てくれる?来る前に電話して頂戴ね」

「わかった」

 そして僕は受話器を置いた。



   5



 小学生の頃、近所の子とよくキャッチ・ボールをした。なんの目的も意味もなく、C号の軟球を行ったり来たりさせるだけの時間潰しだ。

 僕も相手も無表情だった。僕たちは機械的といっていいくらいに淡々と、捕球と投球をひたすら繰り返した。

 捕球・投球・捕球・投球……。

 ある時、その子がキャッチャー・ミットを持っていつもの空き地にやって来た。中学生の兄から借りてきたということだった。

 ひとまわり大きいグローブを手にはめた彼は、隣接する民家の塀の前にしゃがんで嬉しそうに言った。「ばっちこい」

 その一球目だった。いつもよりグローブの位置が低かったせいで狙いを誤ったのだ。僕の投げた球は彼より五十センチ手前で地面に落ち、そして跳ね上がった。

 大変なことをしてしまったとすぐに気が付いた。キャッチャー・ミット投げ捨てた彼は両手を股の間に挟んで体をくねらせていた。

 僕は駆け寄って「しっかりしろ」と腰のあたりを何度か叩いた。そうするのがいいとどこかで読んだ気がしたのだ。

 彼はきつく唇を噛み、目をつぶったまま弱々しくうなずいた。

 しばらくしてから彼は言った。

「大丈夫」

 そしてその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。「大丈夫大丈夫……」

 それは僕に向けて発した言葉ではないようだった。彼はかたく目をつむり、呪文のように何度も繰り返した。

「大丈夫大丈夫。大丈夫。こんなのは何でもないんだ。どうってことはないんだ。大丈夫大丈夫大丈夫……」

 彼は飛び跳ね続けた。僕は黙ってそれを見ていた。



   6



 エレベーターからきっちり十六歩歩いて、僕はインターフォンを押した。彼女は八秒後にドアを開けた。

「食事時に邪魔しちゃったかな」

 テーブルの上を見て僕は言った。いんげんのサラダが沖縄ガラスのボウルに盛られ、ロースト・ビーフの皿が置かれていた。

 彼女は首を振った。「あなたと食べようと思って用意したのよ」

 僕は上着のボタンを外し、ネクタイをゆるめた。

「でも、先に済ませてからね」

「わかってる」

「一応断っておくけど」と彼女は言った。「手加減するつもりはないわよ。思いっきり蹴るつもりだから。たとえそれであなたのきんたまが片方、いえ、両方潰れることになったとしても、それはそれで仕方がないと思ってるわ」

「わかってるよ」と僕は言った。「そうしてくれないと意味がない」

 彼女の唇の端が少しだけほころんだ。

「その後で、もしあなたが無事だったら、そしてまだその気があったとしたら」

 と彼女は言った。

「一緒に夕食を食べましょう。ワインがよく冷えてるわ」

「嬉しいね」

 僕は一歩下がって両足を開いた。ズボンをベルトごと少し引き上げて、彼女に場所がわかりやすいようにした。

 彼女が半身になって右足を構えた。

「あの本はどうしたの?」と僕は聞いた。

 彼女は眉間に小さく皺を寄せた。「捨てたわ。他の二冊と一緒に。駄目だった?」

「いや、それでいい」

「いくわよ」と彼女は言った。

「オーケー」

 僕は肯いて目をつむった。そして心の中で「大丈夫大丈夫」と繰り返した。こんなのは何でもないんだ。どうってことはないんだ……。

 やがて小さく息を吐く音が聞こえ、彼女の足の甲が僕の股間にめり込んだ。

 やれやれ。

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