蠱惑

雨森灯水

麗しき花の君

周りの人、みんな馬鹿みたいだ。ちっとも面白くなさそうな顔をしているのに、自分だけは立派に生きてるのだと言い張っているような、そのすました態度が気に入らない。なんだか、悪口を正面から言われた時の、腹の底から煮えてくるような、あの時の嫌悪感だけがすうっと蒸発して、ここに来ている。朝から腹立たしく思う自分にも腹が立つ。別に、彼らは何も悪いことはしていないだろう。それなのに、誰かが他の誰かを生きているだけで咎めるというのなら、私はもうとっくのとうに死なれていますよ、と誰かに語りかけているように心で唱える。

電車が来る音が聞こえる。大きな音を立ててやってくる。私は余裕ぶって階段を下りる。さっきまで遠くにいたサラリーマンは、スーツ姿で鞄を片手に階段を駆け下りていく。あっという間に私を抜かしていく。電車は到着して、私は何の問題もなく電車に乗れた。あのサラリーマンを何を目指して、あんな必死な顔で走っていたのだろう。阿呆らしいとは思わないのだろうか。

電車に揺られる中、私は腹を立てていた。電車の扉の前に荷物を置いて、堂々と立ち尽くすスーツ姿の男女が二人。邪魔ですよ、と言うほどでもなく、なんだか呆れる。そうして電車の扉が開くと、自分が一番だとでも言いたそうに、必死に電車を下りて、エレベーターを駆け上る。そんな、順位を競うようなことをして、何になるのだろうか。一体誰と、何と競っているのだろう。

学校までの道を歩く。まだまだ暑い。額に汗をかきながら、歩き続ける。途中でコンビニに寄る。朝ご飯を買うのだ。私は朝ご飯を教室で食べる。家で朝ご飯を食べられない体質になってしまったのだ。普段の寝不足が祟って、朝起きてすぐにものを食べようとすると吐き気がする。学校につくと、教室の鍵を開け、一人だけの教室に入る。意気揚々と自分の席につく。そして朝ご飯を食べて勉強を始める。そう、私は受験生。何にでも腹を立ててしまえるほど、私の精神は狂っているらしく、それを自覚しているだけに、私という存在が嫌いで仕方がない。朝からずっとこんな鬱々としていたら、こんなに綺麗な空が可哀想だろう、お前ももう少しは楽しく生きることを学んだらどうだい、なんて陽気に私に問いかけてみるけれど、だから何だ、と私の心は答えた。確かに、と丸まってしまった私が悔しい。私のくせに私に勝てないなんて、何よりもおかしい。最大の敵なのは自分じゃあないだろう。自分を敵にする必要なんてあるだろうか。私を私が励まして、やっと一歩を進められるものじゃないのだろうか。自分を敵に回してまで苦しみたくはない。

少しすると、友人が教室にやってくる。おはよう、とだけ言葉を交わす。いつもそれくらいだ。いや、むしろ私がそれに気づかずに、挨拶もせず今日を終えることもある。けれども、少なからず彼は私の友人だ__友人であってほしい、と願っているが故に。

「今日は眼鏡なんだね」

「うん。ちゃんとワケあり」

「へえ……聞かせてよ」

「やだ」

昨日の夜、私は散々泣いた。すぐそこに家族がいるというのに、涙が溢れて止まらず、呼吸をする声も大きく響いた。それが嫌でたまらなくて、自分の部屋に逃げれば今度はうめき声のようなものが出てしまうのだった。やっと寝付けた頃、空は少し明るくなっていたように思う。つまりは、私がわざわざ眼鏡をかけてきたのは、涙のおかげで目がパンパンに腫れ、寝不足で顔の調子が悪く、これでコンタクトなどつけていれば、今日はいつもと様子が違うな、と誰かに思われてしまうと思ったからだ。眼鏡をかけていれば、それも誤魔化してくれるだろう、と思った。だって、眼鏡は人の印象を変えてしまうんですもの。

昼休みの時間になると、教室は途端に騒がしくなる。私は教室の隅で一人、親が買ってきてくれたコンビニのパンを頬張る。イヤホンをつけて、騒がしかったはずの教室は無音になる。ふとした瞬間に、今ここにいるのは私だけなのではないかと思って、動画を見ていた目線をぱっと上にあげる。そうすると近くには朝の友人がいて、目が合った。それが最後、彼は私の元に寄ってくるのだ。何してんの、なんて問われても適当に答える他ない。面白くないのだ。こんな会話には意味を見いだせない。わかっていた。幸せではあるけれど、どこか足りない。ああ、嫌だ、嫌だ。どうしてわざわざ私なんかに話しかけてくるの。問いたくても問えない、透明の質問。誰にも答えられないものね。

放課後、私たちは教室の掃除を済ませ、数人だけが語り合う教室に、重い荷物を置く。自分の席に座り、静かにノートを開いた。廊下には騒がしい声が聞こえる。あ、私の大嫌いな人の声だ。途端にむしゃくしゃしてきた。馬鹿でどうしようもないくせに、自分は幸せに生きています、なんて見せつけるように私の隣を歩こうとしたあの人。吐き気がしちゃう。けれど、はやく消えてほしいなんて思ったところで、私に為す術はない。彼は無遠慮に大声で笑い散らし、私は一人で静かに勉強をする。なんだか、問題にしやすそうな、わかりやすい対比関係ね、なんて変なことを考える。シャーペンの芯が折れた。気がつけば教室も静かになっていた。廊下には、また違う人の笑い声。ああ、あの人だ。その笑い声は少しずつ遠ざかる。手を伸ばす距離にあったものが、徐々に消えていく。私はそれから遠ざかっているのだろうか。……私は私から遠ざかろうとしたりするのだろうか。なんだか、私を愛せない私なんて可哀想。私として生きている私が哀れ。

一人教室にいて、ふとした時に窓の方を見ると、変な顔をした私が映った。明るい教室の一寸先に広がる一面の闇。なんだか、落ち着く。現実と、そうでないものの境界線に立っているような感覚になる。私が生きているかどうかすら怪しくなるような、ずっと遠くを見てしまうような感覚が、私には心地良い。それくらい、私は狂っている。しかし、今は晩夏な故にこうしていられるだけで、冬なんてずっとこのままだ。さすがにそうだと、私でも怖くなる。どうせ、この闇の中を歩いて帰るというのに、なんだか無性に怖くなる。一人が怖くなる。誰かが隣にいてくれたらと思う。それでも、私の隣は誰にも渡さない。そこが空っぽになった時、温もりだけが残って寒いのだ。あの、挨拶しかしないような友人と歩いて帰った日、いつも吹きつける冷たい風がなくて、変な汗をかいた。その次の日は、一人で帰ったのだけれど、夏とは思えないくらい寒かった。おまけに土砂降り。靴が濡れて、足が重くて、それでも歩くしかなかった。立ち止まる勇気がなかった。辛かった。もうそんな思いはしたくなかった。

もう19時。先生が来る前に教室を出る。電気を消し、扉の鍵を閉める。職員室に鍵を置いて、昇降口から出る。生暖かい風が当たる。朝は暑かったのに夜はこんなに涼しくなるのか、と久しぶりにどうでも良いことを考えた。最近の私は何かおかしい。ひたすら自分を卑下している。もともと私は私に生きる価値というものを感じていなかった。周りに恵まれすぎた故、周りの優しさにたくさん触れるのだけれど、私はそれを仇で返す。うまくできないのだ。あれ、私ってこんなに阿呆だったっけ。誰にも必要とされていない私が、どうして生きているの?__生きることに意味はない。きっと誰だってそう。私たちは、生きる中でその意味を作るしかない。その辛さが信じられないようなものだから、人はさっさと死んでいく。最近の人は、長く生きすぎているくせに、結局生きている意味もわからず、苦しんで死んでいく。阿呆なんじゃあないか。今日も明日も明後日も、何一つ意味なんてない。嫌だな、と思う。だって、私は生きていたい。きっと本能だ。私は、この世界を真っ当に生きてみたい。夢で終わってもいいから、それを追いたい。無理なのはわかっているから。どうか、どうか誰もそれを咎めないで。

私を一人にしないで。

赤信号の前で立ち止まる。思わず涙が溢れてきた。こんなに苦しんで生きて、本当に何をしているんだろう。世の中の苦しみ、私が全部背負って死んでやりたい。どうか、皆が幸せな世界であってほしい。そんな手垢のついた願いに涙を零す私にも呆れて、もっと涙が溢れる。暗闇に包まれて、この世界に色が消えてしまったみたいだった。

その時、ぽんと肩を叩かれた。振り向くと、朝の友人がにっこり笑っていた。そうして私の顔を見て、驚いた様子で聞いた。

「泣いてるの」

泣いてない、と声に出してみたけれど、涙が止まらなくなってしまって、うめき声をあげることしかできなかった。友人は頭を撫でてくれた。

「昨日も泣いてただろ、どーせ」

「な、んで、わか、の」

「わかるよ。目腫れてるし、最近元気ないし」

少しずつ色づいてきた世界が、潤んだ目に映った。鮮やかだった。あなたに会えてよかったと、この世界の鮮やかさを伝えようと口を開いたけれど、止めた。彼は色盲なのだ。私が今見ている鮮やかな世界は、あなたには見えないのね。どうして私は変わってあげられないの。嬉しいのに、嬉しいことがこんなに苦しいのも久しぶりだ。どうしようもなくて、彼に頭を預ける。もう少しで、信号が青になる。

「……ごめんね」

「謝んなよ。なんかあったら俺に言えよな。俺今すごいもらい泣きしそうだけど、話はいくらでも聞いてやるし」

お願い、私に優しくしないで。また、あなたに泣かされてしまうでしょう。溢れた涙を手で覆って、彼の顔など見えない。きっといつも通り、憎らしい顔を__いや、彼は優しいからきっと優しい顔を__していてほしい。私の願望だ。

花のような彼に、泣かされてしまうほど誘惑されていた私。その鮮やかさを知らない色盲の彼。彼にこの鮮やかさを教えられる日が来たら、と思う。

どうしてかしら、私、普通の人よりずっと、生きる意味を知っていたみたいね。

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