20 幸せになってね

――微睡みの中、誰かが私の手を掴んだ。


「私のナターシャは可愛いなぁ」


 懐かしい声が聞こえた。


 もうずっと、遠い日の記憶。

 日当たりの良い中庭で。姉さんは私の髪を櫛で整えながら、楽しそうに髪飾りを選んでくれたっけ。あの頃は、こんな毎日は平凡でありふれたものだと思っていて。望めばいつだって手に入るものだと信じていた。


「可愛くて、頭も良くて、ひまわり色のふわふわの髪。物語の聖女様みたいな黒目。顔立ちは私によく似てるから、美人さんに育つだろうねぇ……くくく、将来はモテモテだろうなぁ」

「別にモテたくなんてないよ、姉さん」

「そうなの? どうして?」


 私は、姉さんがニヘラと笑いながら間抜けなことを言って、呼吸もままならないほど笑い転げてしまう時間が、楽しくて仕方がなかった。


「姉さんや私は女だから。結婚したら、きっと家を出ていかなきゃいけなくなるんでしょ」

「まぁ、その可能性が高いよねぇ」

「嫌だよ。ずっとこのままがいい。モテたくなんてないし、結婚なんてしたくない。ずっとずっと、姉さんがいてくれれば、それでいいのに」


 分かっている、ただのわがままだ。

 姉さんは美人だから、きっとどこかの素敵な貴族男性のところに嫁に行って、私の知らない所で幸せになるんだろう。それで、姉さんそっくりな子どもを生んだりして、私は叔母になって。どこかのパーティーでその子を見かけたりして、静かに「あぁ、姉さんは幸せに過ごしているんだな」なんて考えるのだろう。そんな風に、私はずっと思っていた。


「ナターシャは私のことが大好きなんだね」

「……わざわざ言わせないでよぉ」

「拗ねないの。もう、真っ赤になっちゃって」


 姉さんはニヤニヤしながら、私の頬をつんつんと突く。まったくもう。そんな風にされたら、私は何も言えなくなっちゃうよ。こんな時間が……ずっとずっと、この先も続いていくんじゃないかって、思いたかったなぁ。


「ねぇ、ナターシャ。それならさぁ……もしも、私と同じ魂を持った男の子が、年頃になったナターシャの前に現れたら、どうする?」


 あれ、そんな会話したっけ。

 私は戸惑いながら、姉さんに問い返す。


「男の子?」

「そう。例えば、死んでしまった私の魂がね、時間も世界も飛び越えて。それで男の子に生まれ直したとするじゃない」

「時間も世界も飛び越えて……」


 やっぱり存在しない記憶だ。

 これは、何だろう。


「生まれ直してからも色々とあったけど……それでまた、ナターシャの想いに引かれるようにして、この世界に現れたとしたら。そうしたらナターシャは、私のことを好きになってくれるのかなぁって思って」

「何を言ってるの。姉さん」

「ふふ。あのね、これは偶然なんかじゃないんだよ。ナターシャが私のことをずっと大切に思ってくれていたから、魂が引っぱられて、そうして……早乙女朝日はこの世界にやってきた。ただそれだけの、単純な話なんだよ」


 姉さん……? それは、一体。

 私の頭はぼんやりしていて、上手く考えがまとまらない。なんだか姉さんは、すごく大事なことを話しているような気がするけど……ちゃんと理解できない。もどかしくて、息が苦しいほどだ。


「さぁ、そろそろ目覚めないと。ナターシャの大好きなアーサーが待ってるよ」

「姉さん……!」

「ほんの少しだけでも、魂の残滓があったみたいで良かった。また話せて嬉しかったよ、私のナターシャ。幸せになってね」


  ◇   ◇   ◇


「ねえさん……」


 目を開けると、私はベッドに寝かされていた。

 研究所の私の部屋。どうやらアーサーが手を握ってくれていたようで、なにやらホッとした表情を浮かべている。まだ頭がボーッとして、うまく思考が回らないけれど。


 夢の中で、姉さんに会ったような気がする。

 なんだかとても、とても温かい夢だった。


「危ないところだったけど、治癒魔法が効いてくれたらしい。良かったよ」

「アー、サー……わたし、どれくらい、ねてた?」

「一週間くらいかな。長かったね」


 それは苦労をかけたなぁ。

 アーサーの治癒魔法は、たぶん歴代聖女と同じく特別製なんだろう。そうでなければ、私は命を落としていたんじゃないかと思う。


「みんなは?」

「全員回復したよ。安心していい」


 アーサーの言葉に、ホッと息を吐く。

 見たところアーサーはピンピンしているし、たぶんフィリップも大丈夫だろう。もしかすると、私が一番長く寝てたんじゃないかな。


「ナターシャは少し、水分を取ったほうがいいと思うよ。経口補水液を用意してあるから、少しずつね」

「ありがとう……あー、もしかして……」

「日常の世話はマルゲリータちゃんが全てやってくれたから、そんな顔しなくて大丈夫だよ」


 それなら良かった。

 いや、病人の世話なんて私がやる分には何も気にしないけどね。アーサーには、あんまり積極的に見せたいものじゃないからさぁ。その、乙女的に。


「フィリップたちは、どうしてる?」

「うん。さすがに都市の中に踏み入れさせる許可は、辺境伯が出さなかったからね。少し場所を変えて、今度は衛生に気をつけて野営をしてるよ」

「それならよかった」


 そうして少しずつ話を聞いていく。

 ちなみにフィリップたちの中にも結界魔法使いはいるみたいなんだけど、どうやら体調を崩して寝込んじゃったらしくて、それで野営地が瘴気から守られてなかったとのことだった。まったく、お騒がせな騎士団だ。


「それと、皇家から正式な書状が届いた。フィリップは皇太子の地位を返上、ガイラルディア皇家から追放って話だ」

「ふーん、そっか……」

「フィリップはむしろ清々しい顔をしてたし、彼の配下たちも特にショックを受けてる様子はないんだよね。理由は分からないけど」


 そうなんだ。普通に考えたら、神輿に担いだフィリップが失脚したら落胆しそうなものだけど。ルビードラゴン騎士団、だっけ。彼らは一体どういう集団なんだろう。


「皇太子の後釜に座るのは、第二皇子のギレットっていう男らしい。なんだか彼は、ナターシャと両想いだって言い張ってるらしいんだよね。それで、聖女として妻に迎えたいとか言ってるみたいなんだけど……辺境伯はもちろんお断りしているみたいだ」


 何それ。ちょっと怖いなぁ。

 とりあえず変なことにならないように、また各方面に手紙を書いて根回ししておかなくちゃ。諦めて他の娘を聖女に選ぶのが妥当だよね。私の結婚する相手は、もう目の前にちゃんといるわけだし。


「さぁ、色々と話してしまったけど、もう少しだけ休もうか。まだ身体が疲弊しているだろうからね。大丈夫。僕がしばらく横にいるから」

「うん……ありがとう、アーサー」


 そうして、私は再び眠りに落ちた。

 また夢の中で姉さんと会えないかなぁ、なんて思いながら。

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