9 折桜裁巳「幽霊狩りの始まり」

 なぎ黒入道くろにゅうどうと対する五分ほど前――


 裁巳たつみはスマホでお気に入りの漫画を読んでいた。ページを送りながら足を組み替えると、パイプ椅子がぎしっと音を立てる。


 彼女がいるのは近くの喫茶店――ではなく、笹垣ビルの警備室だった。


「ふう、とても面白かったですが、あらかた読み終えてしまいましたね。そろそろ一時間経ったでしょうか?」


「まだでしょ。セットしたタイマーなってないじゃん」


 裁巳の呟きに、椅子の脇に置いたじゃがさが反応した。


 そうだったかな、と思ってスマホの時計を見る。すると、確かに約束した時間までまだ少し残っており、裁巳はつまらなそうに口をすぼめた。


「調査というから一時間くらいかなと思いましたが、意外と長いものですね。三十分とかにしておくんでした」


「って言うか、いいの?」


「何がです?」


「なにがって、ナギおねえちゃんとのやくそく。時間の前にもどってきてるじゃん。ずるじゃない?」


「まあ! ずるなんて人聞きの悪い」


 裁巳は傘を掴むと、顔の前に持ってきて言い聞かせる。


「あのときわたくしは『近くで時間を潰してきます』と言って外に出ただけです。誰も『時間になるまでここに戻って来ない』なんて言ってませんよ?」


「うわあ、そうだった!」


 驚くような子供の声が上がる。裁巳はその素直な反応に満足して一緒にころころと笑った。


 実際のところ、裁巳は建物から出たあと、コンビニで飲み物とつまめるお菓子をひとつずつ買ってすぐここに戻ってきていた。

 それは、凪が珍しい幽霊を逃がしてしまわないかという警戒もあったが、もうひとつ。


「あまり期待はしてませんけど、もしも今回の心霊現象の裏に『何か』が隠れていたりすれば、凪さんならきっとそれを引っ張り出すでしょうからね。もしそうなったら、それは近くで見てないと損でしょう?」


「そうだね。……でも、なにもかくれてなかったら?」


「そのときはもちろん、当初の予定通り――」


 と、そこで突然警備室の主照明が消え、薄暗い非常灯だけが点灯した。ビル全体で停電が起きたようだ。


 裁巳は慌てることなく、静かに上階の気配を探る。

 そして、くすくすと笑い始めた。


「あらら、本当にいたみたいだね」


 傘からも楽しげな声がする。


 これだけはっきりした気配なら、探知が苦手な裁巳にも感じ取ることができた。


「この間の小物よりはだいぶマシな怨霊を引き当てたみたいですね。やっぱり凪さんに調査を任せて正解でした」


 裁巳は長い髪を払いながら立ち上がると、傘を抱えるようにして持つ。それから、警備室を出て廊下へ踏み出した。停電で真っ暗になった通路に、緑色の非常灯が点々と浮かび上がっている。そのぼんやりとした光に導かれるように、裁巳は正面広間へと向かった。


 広間は思ったよりも明るく、ガラス張りの入口から漏れ入る月光がロビーを銀色に染め上げていた。その中に浮かび上がる煙状の浮遊霊たちは、中心で身を寄せ合うようにまとまり、ぴくりとも動かない。


 怯えているのだろう、と裁巳は思った。

 やはり、今現れた怨霊が、この浮遊霊たちをここに閉じ込めていると見て間違いないだろう。つまるところ、このビルはその怨霊の縄張りなのだ。


 ――しかも、最初は不在だったことを考えると、縄張りを複数持っているのかもしれませんね。


 縄張りを複数作り、巡回する。そういう余裕のある怨霊は、裁巳の経験上それなりの力を持っていることが多かった。さらに、怨霊が自分の力を高めるためにこの場を利用しているとすれば、とても凪の手に負える相手ではないはずだ。


「とはいえ、エレベーターも動かなさそうですし、ここから上に登るのは億劫ですね」


 強い気配が上階にあるのは確かだが、裁巳にはその正確な位置が掴めなかった。外から見た様子だと、このビルは十階前後の階数がある。幽霊狩りで歩き回って鍛えた体力には自信があったが、階段を上り詰めるのはどうにも気が重かった。


 だとすれば、これはもう相手の方に来てもらうしかない。


「ふふ、ちょうど近場に良いもいることですし、彼らを使って場を荒らしてみましょうか。ここが本当に怨霊の縄張りなら、真っ先に飛んでくるはずです」


 月光を背に、裁巳はゆっくりと蛇の目傘を開く。

 すると、その中から黒い霧に似た瘴気が溢れ出し、周囲に暗雲を垂らした。浮遊霊たちはそれに気づいてざわめき始めるが、ここから出られない彼らは袋の鼠だった。


「そう言えば、時間はいいの?」


「ああ、そう言えばそうでしたね」


 裁巳は思い出したように呟いて、スマホを取り出し操作する。

 そして、タイマーを切ってしまった。


「これは決して約束を破ったというわけではなく、あくまで凪さんを助けるために仕方なくするのです。同僚を助けるという正当な理由があります」


「あはは、よく言うよ。そんなこと言ってタツミ、たのしんでるじゃん」


「ふふ、否定はしません」


 口の端が自然と持ち上がってしまう。何せ、これから始まるのは、待ちに待った楽しい“狩り”なのだから。


 裁巳は高らかに言い放つ。


「じゃのめぼうず。手の届くところにいるすべての幽霊たちを八つ裂きにして、怨霊をおびき寄せなさい」


 傘の中から二本の白い剛腕が飛び出し、浮遊霊たちの群れへと突っ込む。

 辺りは一瞬で絶叫と悲鳴に満たされ、裁巳は歯を剥いて笑った。

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