7 霧宮凪「黒いお月さま②」

 建物から出ようとすると警告してくるという黒い月。


 なぎは窓の奥に広がる夜空を見た。

 薄く掛かる雲の合間に大きな月が出ている。けれどその色は黄色か白に近いし、今日はいくらか欠けてもいた。


 おそらく、ミサたちを恐怖でこの場に押し留めている『黒い月』とは、空に浮かぶ月とは別物なのだろう。一応、霊能者が使う封印などの術に月に関するものもあるが、この建物にそうした人為的な結界や守護の類いが施されている様子はなかった。


 かと言って、霊たちから恐れられるような怨霊の気配も未だに感じられずにいる。今はこの場にはいない、ということなのだろうか。


 より詳しく聞きたかったが、ミサはあれから怖がって黙り込んでしまっている。


 凪は左手の腕時計を見た。裁巳たつみが指定した時刻まであまり余裕はない。


「もっと時間をかけて調べたいところだったけど――ちょっと強引に進めるしかないかな」


 声に出して言って、凪は覚悟を決める。

 調査の時間がないのなら、少し強引にでもやぶを突き、潜んでいる者を引きずり出してみるしかない。


塩野しおのさん。渡した札はちゃんと持ってますよね?」


「は、はい。ずっと握ってます」


 塩野が突き出した拳の中に札があるのを確認し、凪は奥にある窓に向けて歩き出した。


「これから窓越しに幽霊の気配を模した霊力を放出します。それで『黒い月』を誘き寄せて……この場で祓います」


「よく分かりませんけど……それってもしかして危ないことだったりします?」


「うーん、結構ヤバイかもです」


 そう返すと塩野が短く呻く。


 本来ならば、このようなことは彼を逃してからやるべきなのかもしれない。ただ、この場所に根強い繋がりを持つ塩野の場合、今から離れても目をつけられてしまう可能性があった。下手に手の届かないところに置くより、近くにいてくれたほうが万が一のときに対処がしやすい。


「絶対に札から手を離ささないように。……始めます」


 そして、凪は窓の立つと、両手を当て、一気に霊力を流し込んだ。


 途端に部屋中の霊たちから悲鳴が上がる。

 ミサも大きな声で「ダメ!」と叫ぶが、止めるわけにはいかない。なんとしても、ここで大元を祓わなければ彼らを助けられなくなってしまう。


 凪はさらに放出する霊力の出力を上げた。

 怯えた霊たちの気配が、一気に部屋の奥へと逃げていくのを感じる。


 その直後――窓の奥が真っ暗になった。


 それは、まるで突然モニターの電源が落ちたかのようだった。確かに部屋の照明も同時に落ちていたのだが、窓の外まで真っ暗になるはずがない。しかし、凪の目の前にある窓からは、月も、街の明かりも、すべてが消え失せている。


 いや、月はあった。


 凪の頭の少し上。そこに暗幕を切り裂いたような楕円形の切れ間があり、その中心に大きな『黒い満月』が浮かんでいた。


「なるほど。確かに黒い月に見えるね」


 実際のところ、それは目玉だった。


 血走った白目に浮かぶ大きな瞳が、凪のことをじっと見下ろしていた。おそらく、巨大な一つ目の黒い顔が、外からビルの中を覗き込んでいるのだろう。


「出るな」


 まるで地響きのように低く暗い声が窓の下の方から聞こえてくる。


 その瞬間、霊たちの悲鳴も、塩野の呻き声も、線が切れたかのように途絶えてしまった。凪も全身が震え、動かなくなる。


 ――ああ、どうしてあたしが突く藪にはいつも大物がいるんだろ。


黒入道くろにゅうどう』とでも呼べばいいのだろうか。それは紛うことなき怨霊だった。それもかなり強い力を持っていることが感じ取れる。


「新入りか。ほう……なかなかうまそうだ。ならば、お前は上の階に入れてやる。9階のCフロアだ。喜べ、見晴らしが良いぞ」


 黒入道が凪を見ながら大きな目を細める。餌を投げ入れたことで、凪自身も獲物として見なされたらしい。


 その発言から、閉じ込めた霊たちから力を吸い上げていることが窺える。建物の上階に新鮮な者たちを集め、吸い殻は下に掃いていく。監視カメラが捉えていた霊の行進も、その『部屋替え』の様子だったとしたら説明がつく。


 普段からここにいないことや、痕跡がまるで見当たらなかった理由までは分からないが――何にせよ、凪が一人で祓えるような相手ではないことは確かだった。


「どうした、早く行かんか」


 固まっていると、目玉が敵意のもった視線を向けてくる。凪は背筋が痺れる思いだったが、なんとか腹に力を込めて声を出した。


「ええと、行きたくない場合はどうしたら?」


 間抜けな質問だったかな、と自分でも思った。

 案の定、受けは悪いようで、


「貴様……そんなこと許されると思うか?」


 黒入道のまぶたの周りに、太い血管が浮き上がってしまう。


「あはは、ですよね」


「喰い潰すとえきが目減りしてしまうが、必要とあらばしようぞ?」


 会話もはっきりとできる。やはり相当力を蓄えているようだ。


 凪は考える素振りをしつつ、ちらりと背後を確認した。

 塩野も浮遊霊たちも固まっていてぴくりともしない。幸い、持たせた札は燃えていなかったので、塩野は大丈夫なはずだが、霊たちは逃げる隙を作ってやらなければならないだろう。


 しかし、金縛りを解いて札を取り出せるだろうか?

 そんな猶予を目の前の怨霊は与えてくれるだろうか?


 そもそも、時間稼ぎをしたところで、彼らが動いてくれなければ無意味だ。


 ――一旦従う? でもそのあと黒入道がミサちゃんたちに危害を加えないとは言い切れないし、どうしたら……。


 考えがまとまらず次第に頭の中が混濁し始める。焦りで思考が止まってしまうのは、自身も自覚する悪い癖だった。


 と、

 そこで初めて凪と黒入道以外の声が聞こえてくる。


「あち、あちち」


 それは塩野の声だった。

 困惑したような声色に凪が振り返ると――彼の持っている札が真っ赤に燃え上がっていた。

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