あなたはだあれ?

 夜が更け、窓から冷たい風が吹き込む。

 肌寒さを感じ窓辺へよると、今日も美しい月が、空から見下ろしていた。

 月に住まうという太陰星君月の女神は私の様子を見て何を思っているのだろう?


 哀れに思っている?

 嘲笑している?

 それとも、一瞥すらしてくれない?


 窓から離れ、片手を一振りする。

 すると窓はひとりでに閉じ、私は寝床へ向かった。ベッドへ入り、かけ布で体を包む。ここには私しか居ないはずなのに、白蓮バイリェンの声が、温もりが、吐息が、鮮明に思い出される。


曇月タンユェ。寝るのか?』


 鬼猫グウェイマオの声が傍に寄ってくる。


「えぇ、寝るわ。おやすみ」


『俺は一緒に居た方がいいか?』


「もう必要ないよ。私なら大丈夫。だから散歩にでも行ってらっしゃい」


『そうか……』


 後宮に来たばかりの頃は、ずっと眠れない夜が続いた。毎晩、毎晩、不安で、怖くて仕方がなかった。

 だから、いつも眠る時は、鬼猫グウェイマオがそばに居てくれた。

 されど、もう、その必要は無い。

 どうしてだろう。

 白蓮の温もりを思い出すと、自然と心が安らいだ。


『ちぇ、つまり俺は用済みかよ』


 目を閉じて、かけ布にくるまっているうちに私の意識は、夢の底へ沈んでいった。



***



 目を覚ますと、私は見知らぬ場所で倒れていた。周囲を見渡したが、人や物の類は何もない。


 どこまでも真っ黒な風景が広がっている。


 立ち上がり、少し歩いてみる。

 地面は水面のように波打っていて、私が足で触れた場所には波紋が広がった。

 アメンボにでもなった気分だ。


 しばらく歩いてみたが、一向に景色は変わらない。一歩、一歩踏み出す度に、胸の奥に潜む不安は肥大してゆく。



――怖い。寂しい。いつまで歩けばいいの?



 まさか、私はもう既に死んでいて泰山冥府へ呼ばれてしまったのか?


 それは嫌だ。だって私……まだ何も成していないから。


 養父の仇をとれていない。

 仙術の腕もまだ青二才だ。

 なにより一人ぼっちで死ぬのは嫌だ。

 

 歩いているうちに人影が見えてきた。

 襦裙を纏った、かなり小柄な女性だ。

 小さな体は、数え切れぬ程の装飾品で彩られている。もし彼女が後宮の妃嬪であれば、確実に上級妃であろう。


「貴方は誰?」


 私が話しかけると、女性は、首を動かしこちらを目視した。表情からは何の感情も読み取れず、まるで私に関心が全くないようであった。


『ゆ……ない……』


 女性が紅色の唇をわずかに動かし、何かを呟く。


「ねぇ、何と言ったの?」 


『許さ……ない……』


 本能的に危険を察知し、彼女から遠ざかろうとする。すると、今度は右腕を誰かに掴まれた。


 右腕の方へ視線を移すと、漆黒に染められた黒い袖から伸びた男性の手に掴まれていることが分かる。

 まとっている服は袞衣こんぷくであろうか。黒は縁起の悪い色として忌み嫌われているはずだが……。


「そっちに行くな」


 男性の手は、私を呼び戻すように握る力を強めた。声の主を確かめる為に振り返ろうとしたが、それより先に視界が、ぐにゃりと歪んでしまう。視界だけではない、全身から力が抜け、感覚が無くなってしまった。


(貴方は誰? 私を守ってくれたの?)



***



 背中に違和感を覚え、意識が現実世界に浮上する。気づけば猫のように、体を丸めながら眠っていた。背を誰かが、さすってくれていた。

 微睡む意識の中で、ごろんと寝返りを打つと、膝に誰かの体が衝突する。夜着をまとった男性の背中だ。

 ベッドのふちに座り、ずっと私の背をさすってくれていたらしい。


「目が覚めたようだね」


 歪んでいた視界が、段々と正常になってゆく。ベッドのふちにて私を見守っていたのは、白蓮であった……待てよ。白蓮?


 慌てて体を起こす。


「大変失礼致しました。陛下」


「俺のことは気にしなくていい。それより、君の方が心配だ。随分とうなされていたようだけど……」


「少し恐ろしい夢を見まして……」


 夢の内容を覚えている範囲で話す。

 支離滅裂な内容であるにも関わらず、白蓮は最後まで真剣に耳を傾けてくれた。

 

「それは、とても辛い思いをしたな」


 胸の中に眠る冷たい感情が暖かい熱に変わる。悔しかった。ほんの少し悔しい。

 この男には人を安心させる力がある。


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