弱み

 どうにか白飯弁当を平らげたあと、ぼくは弁当箱をスクールバッグに仕舞い、教室を見回した。


 昼食を食べている者は少なく、それ以外で教室に残っている者はというと、それも少なかった。

 大半の同級生はどこかで時間を過ごしているのだろう、この時間の教室内は少し寂しく感じられた。


 それはそうと、徹たち三人は灼熱地獄と化した屋上で、ぼくを待っているのだ。

 急いで屋上に向かわないと、昼休みが終わるばかりではなく、愛しき仲間がカラカラに干からびてしまう。

 そんな事態だけは、なんとしても避けたいものだ。


 ぼくは席を立った。

 すると、隣の席に座る夏奈さんも椅子から立ち上がった。


 ぼくが夏奈さんを反射的に見ると、彼女もまたぼくを見た。

 ぼくは夏奈さんに声をかけようとしたが、彼女の様子を知ったぼくは息を呑み、そのまま言葉を失った。


 このとき、夏奈さんは何かを言いたそうな表情をしていて、そのうえ彼女は世の中の純情な男どもを魅了してしまう、そんな儚いまなざしをしていた。


 これほどまでに美しいものを、ぼくは見たことがない。

 これと同様の美しさをいつでも見られるのなら、きっとぼくは人を殺めてしまうだろう。

 それほどまでに、この美しさは危険で中毒性のあるものだった。


「…………」

「…………」


 両者、無言が続く。


 いつもは快適で涼しく感じられる冷房の風が、今は不快なまでにとても寒く感じた。

 あれほどまでにしつこく感じた夏の暑さが、今は故郷を思い出したときのように懐かしかった。


 そうか。そうだった。


 ぼくが求めたのは、快適で涼しい冷房の風ではない。

 ぼくが愛したのは、断じて人工的な涼しい風などではない。

 ぼくが求めるのは、いやらしくも男気あふれる夏の暑さだ。

 ぼくが愛するのは、太陽という友が出す光の熱だ。


 ひたすらに、ぼくは夏の暑さが恋しかった。


「……きみも屋上に行くかい?」


 無意識。

 その言葉は無意識に出た言葉だった。


 それを聞いた夏奈さんは顔をくしゃくしゃにし、嗚咽を漏らしたまま、何度もうなずいた。

 ぼくはというと、なぜ夏奈さんが泣いているのか分からず、そのまま頭が真っ白になった。

 それでも必死に考えようとするのだから、人間というものは往生際が悪い。


 そんなぼくが冷静になるよりも、夏奈さんが冷静になるほうが早かった。


 最初、嗚咽が収まった夏奈さんは放心していたが、やがて彼女はシャンとし、こんなことを言い出した。


「わたしってさ、他人に弱みを見せたくないんだよね。だから、これから言う言葉はわたしの弱み。

 この弱み、二度は言わないよ。二度も同じ弱みを言うとしたら、それは遺書を書くときだけだから、ちゃんとまじめに聞いて」


 ぼくの頭がクリアになると同時に、夏奈さんは自身の弱みを打ち明けた。

 こちらが呆然とするほど、それはもう弱々しい声で。


「わたしを仲間はずれにしないで……わたしを一人にしないで。一人は嫌だよ、寂しいよ」


 ぼくはあっけにとられたが、すぐにシャキッとなった。


「きみを一人になんてさせない。誰がなんと言おうと、きみはぼくらの仲間だ」


 ぼくは夏奈さんに向けて、力強く断言した。


 一度、夏奈さんは顔をくしゃくしゃにしたため、ぼくはヒヤリとし、思わず顔が強張ってしまった。


 しかしそれから、夏奈さんの中で何かが吹っ切れでもしたのか、それとも単に安心したのか知らないが、彼女は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうね、翔くん。きみは本当に……ううん、きみたちは本当に罪深い人間だよ」


 夏奈さんの言葉の意味はよく分からなかったが、ぼくはありったけの愛を込めて、ニコリとほほ笑んだ。


「行こう、屋上へ」


 少し照れはしたが、それでも構わず、ぼくは夏奈さんの手を引いて、彼女とともに屋上へ向かった。

 とびきり夏の匂いがする屋上へ。

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