涙の夏
星空公園はぼくたちの家から、徒歩数分で行ける小規模な公園だ。
この公園は高台にあり、街灯はあるにはあるが、夜になるとベンチのほうは少々暗くなってしまう。
けれど、このデメリットは同時にメリットでもあった。
星空公園という名の公園だが、この公園のベンチで見上げる星空は、間違いなく絶景そのものだ。
穴場と呼んでも、差しつかえないだろう。
そんな星空公園のベンチに、ぼくらは腰を下ろしていた。
外の気温は高く、熱中症に気を付けなくてはいけないというのに、ぼくらが座るベンチには燦々とした陽光が降り注いでいた。
そのような暑さの中、セミたちは自分の命を削り、子孫繁栄のため、一層と鳴き声を強めていた。
捉え方を変えると、その鳴き声はセミたちが暑さにもだえ苦しんでいる悲鳴に聞こえた。
さらに捉え方を変えると、この鳴き声はセミたちが太陽による支配を祝い、喜んでいる合唱のようにも聞こえた。
どちらにせよ、夏とセミは切っても切れない関係ではないだろうか。
「翔くんがわたしのことを嫌いだっていうことは、すでに分かっているの。違うとは言わせないよ。
現に翔くん、わたしを置いて逃げ出したよね。
不可抗力とはいえ、翔くんはわたしを辱めた。ごめんなさいも言わず、その場から逃げ出した。これが明らかな証拠」
遙香さんは額から流れ落ちる汗をそのままに、ぼくを見すえて話し出した。
彼女の瞳には触れたら凍傷してしまいそうな怒りがあって、それはまるでドライアイスのようだった。
けれど、遙香さんの瞳は怒りに支配されているわけではなかった。
もう迷わない、もうためらわないという強い決意と信念。
それらが遙香さんの瞳には宿っていて、怒りに支配されるどころか、彼女の瞳は怒りを支配する側だった。
もちろんぼくは何も言わず、黙り込んでいた。
ここでぼくが何か余計な発言をすれば、きっと彼女は怒ってしまうだろう。
それだけは嫌だ。
どうしても嫌だ。
「でもね、わたしはそんな翔くんを利用してまで、やらなきゃいけないことがあるの。
それはわたしと翔くんが恋人のふりをすること、なんだけど……それを詳しく言うと、わたしたちが恋人のふりをすることによって、こちらにあす引っ越してくるわたしの知人、つまりは三日後にわたしたちの同級生になる
そうしないと、わたしのウソが夏奈にばれちゃう、っていうわけ」
「えっと……きみはどんなウソをついたんだ?」
ここでぼくは沈黙を破り、遙香さんにおずおずと訊いてみた。
一瞬、遙香さんはためらうように「んー」とうなっていたが、すぐに自分がついたウソを打ち明けてくれた。
「二〇一七年、三月三十日の星空公園で、わたしと翔くんは運命的な出会いを果たし、それ以来、恋人でいる……そういうウソだよ」
「…………」
ぼくはあきれて物も言えず、妙ちきりんな顔をすることにした。
そんなぼくを遙香さんはにらみつけると、やがて盛大にため息をついた。
「分かっているの。わたしが“くだらないウソ”をついていることくらい、わたしにだって分かる。そう、痛いほどにね。
でもね、わたしたちが再び友達になるためには、“くだらないウソ”に頼り続けなきゃいけないの。
だってわたしは四年間も、嘘に嘘を重ねたんだよ? それがウソだって知ったら、当然夏奈は怒るし、またわたしと友達になんて絶対になってくれないよ……」
その後、ぼくは遙香さんの口から、遙香さんと夏奈さんの大まかな事情を聞いた。
二人は小学校一年生からの親友だったのだが、小学校六年生の夏に絶交し、以来、夏奈さんはいじめの主犯格となり、遙香さんをいじめたそうだ。
それが原因で、遙香さんは不登校寸前の状態にまで追い詰められた。
けれど、遙香さんの両親は彼女のSOSに気付いた。
いじめ発覚後、遙香さんの両親は学校側に強く抗議。
居場所をなくした夏奈さんは、そのまま転校を余儀なくされ、夏奈さん一家は遠くの場所に引っ越した。
夏奈さんが去り、ようやく遙香さんは安心したかと思いきや、まもなくして彼女は小学校に対する不安や不信感、恐れのため、以後、卒業の日まで不登校。
見かねた遙香さんの両親は環境を変えるため、現在の家である奈蔵市内に引っ越しをした。
それからまもなくして、遙香さんは夏奈さんと電話で連絡を取り合い、夏奈さんの気を引くため、遙香さんは例のウソをつくことになるそうだ。
以後、彼女は四年間もそのウソを事実に見せかけ、夏奈さんをだまし続けているという。
これらを聞いて真っ先に思ったのが、どうして遙香さんは夏奈さんとまた友達になろう、などと思っているのか。
絶交した人間のことなど、忘れようとするのが当然であり、それが普通だ。
それなのに、どうして?
「それはきっと、夏奈と見たペルセウス座流星群がとてもきれいだったから……だから、その思い出を台無しにしたくない、そういう感情があるんだと思う。
もう二度と、わたしは夏奈と流星群を見られないのは分かっているけど、でも、でも! だからこそ、わたしはあの日の流星群の思い出を大事にしたいの。
そのためなら、わたしは夏奈にどんなウソをついてでも友達になってやるわ」
それからほどなくして、ぼくは二人が絶交した原因がその流星群にあるのだと、遙香さんから教えられた。
なんでも、二人はペルセウス座流星群の極大日の八月十二日に流星群を見るため、夜の公園で星空を見上げたそうだが、その翌日にもペルセウス座流星群を見る約束をしたという。
けれど、その約束を遙香さんは忘れていて、しかも頑固な性格の夏奈さんは二時間以上も公園で待ち、ようやく両親によって家に連れ戻された夏奈さんは、その日のうちに高熱を出してしまったそうだ。
夏休み明け、どうしてあきらめて家に帰らなかったのかと、遙香さんは夏奈さんに問い詰めたのだが、それがいけなかった。
夏奈さんは激怒し、遙香さんに絶交を言い渡した。
遙香さんが夏奈さんたち同級生からいじめられたのは、それからのことだったという。
「……そこまで聞いたらさ、ぼくはオーケーするしかないよなぁ」
ぼくは顎に手を当てながら、考える。
本当は考えるまでもないことだが、とりあえず考える。
そうして時間稼ぎをした。
遙香さんを見ると、彼女はポーカーフェースを貫いていた。
このとき、ぼくの中の悪魔が脳内にささやいた。
最初、ぼくは悪魔のささやきを無視したが、ぼくの知らぬうちにそれはとんでもない支持を得られたようだ。
悪魔は市民権を得ると、再びぼくにささやいた。
もっとも、そのささやきはすでに悪魔のささやきではなくなっていて、それはなんとぼくのささやきだった。
ぼくは考えることを放棄し、自分のささやきを承諾した。
ええい、ヤケだ!
「こういうのはどうだい? ぼくが遙香さんのお願いをオーケーする代わり、きみはぼくにキスをするっていうのは……どうかな」
なおも遙香さんは無表情だったが、明らかに彼女は動揺していた。
しばらくのあいだ、ぼくらは無言でいた。
恋の駆け引きではないが、これは紛れもなく、ある種の駆け引きだった。
やがて遙香さんはぼくのほうにすり寄ると、ぼくの顔にずいと自身の顔を近付け、密着した。
そして、
「翔くんなんて、大っ嫌い」
と吐き捨てるなり、自身の唇をぼくの唇に重ね合わせた。
ぼくは目を閉じるのも忘れ、ただ受け身に回ることだけを考えた。
めまいを引き起こしかねない快感の波が、何度もぼくの身体を襲う。
しかし向こうはドライなもので(当然である)、これで満足でしょうと言わんばかり、遙香さんは乱暴にぼくの唇を何度も吸うと、ぼくから離れた。
確かに夏は暑い。
けれど、この暑いは暑いではなく、“熱い”だった。
今のぼくはこの“熱さ”のため、全身に汗をかいていた。
それだけではなく、心臓は正常の心拍数ではなくなり、脳内は乱れに乱れ、手の震えは止まらなくなっていた。
一体、ぼくはどうしたのだろう。
興奮? 罪悪感? ……それとも、大嫌いと言われたことによるショックだろうか。
どちらにせよ、今のぼくは異常な状態だ。
今までにない異常で異質な気分を、ぼくは味わっていた。
「決まりだね」
ぼくと遙香さんはずいぶんと見つめ合っていたが、やがて遙香さんはそう言うと、ベンチから立ち上がった。
それから誰に言うともなく、彼女はこう言った。
「今年も夏が来たんだね。涙の夏が……来たんだね」
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