部屋の暑さの脅威
小沢先生が根城にしている生徒指導室は、一号館一階、職員室の隣にあった。
毎度ぼくらが恋愛反対運動にいそしむたび、ぼくらはこの部屋に連れてこられる。
生徒指導室は簡素なもので、応接セットと脚付きのホワイトボード、本やファイルなどをぎっしり詰め込んだ本棚くらいしか、物が置かれていなかった。
その部屋で、これからぼくらは説教を受けることになる。
「お前ら、早く入れ」
小沢先生は生徒指導室の扉を外側から開けるなり、部屋の中へ入るよう、ぼくらに促した。
ぼくらはぞろぞろと生徒指導室に入った。
生徒指導室に入るなり、ぼくらは互いに顔を見合わせた。
どうやら、生徒指導室には先客がいたようだ。
その先客こそ、ぼくら二年一組の担任教師であり、国語教師の
まだ歳が二十代前半のせいか、小暮先生の顔にはあどけなさが残っていて、初々しさを感じさせた。
しかしそんな初々しさとは別に、小暮先生は非行に走る生徒や素行不良のある生徒には厳しく接していて、ベテラン顔負けの強い指導力を持っていた。
非行や素行不良に厳しいということは、ぼくら――恋愛反対運動にも、当然厳しいというわけだ。
そんな小暮先生は一人掛けの応接ソファに座り、威圧的に足を組んでいた。
万事休す。
小暮先生の口が動いた。
「あなたたち、早く座りなさい。
それともあなたたちには『お座り』って、特別に命令したほうがいいかしら」
ぼくは最初、小暮先生がサドに目覚めたのかと勘違いしたが、実はそうではなかった。
先ほどの徹の演説の中には「貴様ら、それでも人間様か。ワンワンやらニャーニャーやら、うるさいぞ!」というジョークがあったのだが、小暮先生は徹のジョークに対してジョークで返した、というのが今回のオチだろう。
目には目を、歯には歯を、ジョークにはジョークを。
そのとき、ぼくらの背後で小沢先生がわざとらしい咳払いをした。
ぼくが後ろを振り返ると同時に、小沢先生は小暮先生に向けて「それでは小暮先生、あとはよろしく頼みます」と言い、ぶっきらぼうに会釈したのち、生徒指導室から出て行った。
ぼくは呆然と小沢先生の退室を見届ける。
「あなたたち、どこに視線を向けているの?
こちらを見なさい。いえ、わたしの前のソファにかけなさい。
さもないと、あなたたちのことを不良四兄妹と呼ぶわよ」
小沢先生が部屋から出て行くと、元より威圧的だった小暮先生はさらに威圧的になった。
仕方がない。
ぼくらはいつものごとく、四人で三人掛けのソファに座った。
もちろん、ぎゅうぎゅう詰めになりながら。
それを見た小暮先生は、なんとぼくらを鼻で笑った。
あろうことか彼女は、
「そのまま、あなたたちを横から串刺しにしたら、どんなに気分がいいことか」
と酷く恐ろしいことを口にする。
こうして、ようやく小暮先生の説教が始まった。
「よくもまあ、学校という神聖な場をとことん汚してくれたわね。
きょうというきょうは絶対に許しませんよ。
わたしが納得いくまで、あなたたちはここから出られないから、そのつもりでいなさい」
小暮先生はかんかんに怒っていて、とてもぼくらの言い分を受け入れてくれそうになかった。
ぼくは横目で徹を見た。
こういう場合、代表として答えるのは徹のはずだ。
頼むぞ、徹。
案の定、ぼくらの代表として答えたのは徹だった。
「小暮先生、部屋が暑いのですが、エアコンのリモコンはどこにあるのでしょうか」
徹の言葉で、ようやくぼくは部屋が暑いことに気付いた。
見ると、いつもは応接テーブルに置かれているエアコンのリモコンが、そこにはなかった。
きのうのテレビのお天気お姉さんが言うところによると、この時間帯の気温は三十度に達する見込みだという。
しかし――。
「そんなものはありません」
小暮先生は徹をきつくにらむと、エアコンのリモコンの存在を否定した。
重い沈黙が流れる。
壁時計の秒針が立てる音に合わせ、徐々にぼくの心は冷静でなくなっていく。
この部屋にはエアコンのリモコンがない、だって?
そんなこと、あるはずがない!
だって、この生徒指導室には小型だろうとなんだろうと、立派なエアコンがあるのだから、リモコンは確かにあるのだ。
リモコンは存在する。
それがないとは、一体何事か。
こめかみから、いやに冷たい汗が流れ落ちる。
暑い。
「失礼ですが……小暮先生はおれたちに体罰を加えるつもりですか?」
そう徹は笑顔で言ったが、怒りのためか、それとも恐怖のためか、口元の痙攣を起こしていた。
徹の言葉に対し、小暮先生はかぶりを振った。
「いいえ、灰原くん。断じて、これは体罰などではありません。
その証拠に……ほら、先生をよく見てください。先生も玉の汗をかいているのです。
それもですね、あなたたちがこの部屋を訪れる五分前から、この状態です。
このように、わたしはこの暑い部屋にずっといるのです。
いいですか、みなさん。教え子が苦痛に遭うときは担任教師であるこのわたしも、ともに苦痛を味わいます。
それが教師と生徒の絆というものです。
ですからみなさんは安心して、担任教師であるわたしの前で懺悔をするように。
もちろん、改心のほうも忘れずにしてもらいます」
小暮先生の狂気に満ちた言葉を聞き、ぼくは頭がクラクラするのを感じた。
小暮先生は本気だ。
本気で、ぼくら――恋愛反対運動を潰しにかかっている。
「えっと……わたしたちが熱中症で倒れたら、小暮先生はどうするつもりですか?」
徹一人では小暮先生を言い負かすことなどできない、と判断したのか、この戦争に環奈も加わった。
が、この環奈の参戦は小暮先生の闘志を刺激してしまったらしく、小暮先生はニヤリと笑った。
まずい。
「いい機会ですので、ひとつ教えてあげましょうか、小弓川さん。
あなたたちがしていることは、学校や教師に対する冒涜です。
ならばわたしたち教師は、そんなあなたたちに嫌でもムチを打たねばならないのです。
……なるほど、小弓川さん。あなたは熱中症を恐れているのですね。
熱中症になるのは、確かに恐ろしいことです。
ですが何よりも恐ろしいことは、学生の本分である勉強をおろそかにすることではありませんか?
不良のあなたたちは、それを忘れてしまった。
わたしはそんなあなたたちが恐ろしいです」
小暮先生は泣いてもいないくせに、応接テーブルにある自分のハンカチをたぐり寄せると、目元にハンカチを押し当てた。
白々しい。
そのとき、我らが英雄、茜が「小暮先生、まるで演技派女優みたいだね」と言い、なんと笑い出してしまった。
直後、小暮先生はハンカチを握りしめて拳を作ると、その拳で応接テーブルを叩いた。
ぼくは数秒のあいだ、呼吸を止めて小暮先生を凝視する。
彼女はまがまがしいオーラを放ち、ぼくらをにらんでいた。
それは教え子をにらむ目付きではなく、怨敵をにらむ目付きだった。
今や、小暮先生は大量の汗をかいていて、その汗は数秒ごとに小暮先生の顔から流れ落ちていった。
このとき、ぼくは思い付いた。
向こうが演技派女優ならば、こちらも演技派俳優で対抗すればいいだけの話。
どうやらこのぼくにも、魔王と対峙する勇者を演じるときが来たようだった。
時は満ちた。
ならば、あとはそれを演じるまでだ。
「……恐れながら、小暮先生。ぼくらは正義と敵対する悪です」
小暮先生は発言してきたぼくのほうを向くと、おっかない顔付きでこちらをにらんできた。
それでもぼくは怖気付かない。
どころか、さらにぼくは声を大きくする。
「小暮先生のやり方で、ぼくらはこれまでのことを悔い改めません。
どころか、これまでどおり、ぼくらは同じことを繰り返すでしょう。
なぜなら、ぼくらは正義の対である悪だからです。
悪は決してなくなりはしません。どうしても何も、正義と悪は対をなすものだからです。
ですから、小暮先生。悪に囚われたぼくらを、どうか救ってください。
どうか、ぼくらを悪から解放してください。
それが教師であるあなたの役割ではないのでしょうか?」
ぼくの巧みな言葉に感化されたのか、見る見るうちに小暮先生の目からは怒りが消えていく。
暑さで頭がやられた人間には、それらしいことを言っておくと、なぜだかそういう気になるのだ、諸君。
小暮舞、敗れたり。
やがて小暮先生は「ふっ」と笑うと、ライバルを見るような目付きで、ぼくをにらみつけた。
「いいでしょう、我が教え子たち。
悪に囚われ、嘆き悲しむあなたたちを救うため、担任教師のわたしは教科書というバイブルを手に持ち、立ち上がります。
そして、どうか忘れないでください。
悪がいるということ、それはつまり、正義であるわたしたち教師には、悪であるあなたたちを赦す役割があるということ……どうかそれを忘れないで」
ぼくと小暮先生はソファから立ち上がると、互いに握手を交わし、不敵にほほ笑む。
これで分かったと思うが、この世で一番恐ろしいものは熱中症でも学生の本分を忘れたぼくらでもなく、密閉された部屋の暑さだということ――どうかそれを忘れないでほしい。
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