第4話 一杯の紅茶から始まったカフェ
エマがカフェを開きたいという夢を抱いたのは、彼女の人生に深く刻まれた経験からだった。
それは一杯の紅茶から始まった。
母を失い、自暴自棄になっていたエマに、カトリーヌはそっと寄り添い、優しく紅茶を淹れてくれた。彼女の手から差し出された温かなカップのぬくもりは、エマの心に深く沁みわたり、カトリーヌの穏やかなまなざしと共に、自分は一人ではないという安心感を与えてくれた。
その時の紅茶の優しい香りが、冷え切っていたエマの心を優しく包み込み、彼女は生きていく力を少しずつ取り戻していったのだった。
たった一杯の紅茶が人を救うことがある、とエマはこの時、実感したのだ。
いつか私が淹れる一杯の紅茶を必要としてくれる人のためにカフェを開きたい、という夢がエマの中で芽生えた瞬間だった。
そのころ修道院内にある学校に通っていたエマだったが、男爵を殺害してしまったことで、住み慣れた修道院を出ていかなければならなくなっていた。
行き場のないエマは、カトリーヌの紹介で、彼女の兄アルベールが経営するカフェのスタッフとして働き始めた。
生活は決して楽ではなかったが、男爵からのセクハラに耐えながらの大邸宅での贅沢な暮らしよりも、ずっと幸せだった。
数年間、ウェイトレスとしてカフェ業務全般を学び、ある程度資金が貯まると、自分のカフェを持つという夢についてアルベールに相談した。
エマの夢に賭ける熱い思いを知ったアルベールは、ちょうど息子と会計事務所を開く計画があったことから、エマにカフェを譲ることに決めたのだった。
「エマ、頑張って。俺もできる限り、応援するから」とカフェの会計担当者として、エマをサポートすることを約束した。
「アルベール、ありがとう。自分らしいカフェを作っていくね。」
ビジネスセンスも金銭感覚も乏しいエマにとって、アルベールの申し出はとても心強かった。
エマは、期待と不安を胸に、きれいな夕日が見える海辺にほど近い場所に、カフェをオープンさせた。
実は、元の世界でも、エマには自分のカフェを持ちたいという夢があった。趣味で描いていた絵をそのカフェに飾って、アートカフェを開くことができたらどんなに素敵だろう、と夢見ていたのだ。
しかし、その夢は叶わぬまま、エマの人生は黄昏時を迎えていた。
皮肉なことに、望まぬ転生を経てやってきた異世界で、エマは諦めつつあった念願の夢を実現することができたのだった。
異世界でも、元の世界でも、紅茶は、階級や富に関係なく、すべての人の生活に欠かせないものだった。
この街で暮らすすべての人の生活の一部として、自分のカフェも存在できたら、それがエマのささやかな願いだった。
また、カフェは上質な孤独を楽しむ場所、という位置づけも、人付き合いの苦手なエマにとっては重要なポイントだった。
喧騒を離れ、孤独の時間を求める客のために、閉店時間を夜の10時に設定し、できるだけ遅くまで営業するようにした。
エマが開いたカフェの名前「プチ・ペシェ」には、「小さな罪」という意味がある。
以前、ソフィアが「なんでカフェの名前をプチ・ペシェにしたの?」とエマに率直に尋ねたことがあった。
それに対しエマは、「好きなモノをつい食べ過ぎてしまった時に持つ罪悪感や背徳感って誰にもあるでしょう?それをユーモアを交えて表現したものよ」と楽しげに答えた。
その名前には、罪悪感や背徳感は時に人生に深みを与えてくれる、というエマの複雑な思いが込められていた。
エマにとって、このカフェは単なる夢の実現ではなく、彼女自身の過去と向き合い、未来を切り開いていくための地盤でもあった。
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