庭
壱原 一
知人のお子さんに勉強を教えてあげてと親に頼まれ連れて行かれた。
知人さんは一人親家庭で、お子さんを学習塾に通わせる経済的余裕はないものの、こちらにお小遣い位の心付けを出すと仰っていると言う。
知人さんと親は、親が新婚の時分、知人さんが学生の頃からの付き合いらしい。
当時から現在まで家族の縁に恵まれず、世知辛い苦労が絶えないなか健気に頑張ってお子さんを育てている人だから、良ければ呼ばれてあげて欲しいとの事だった。
こちらは休日となれば、外出の稀なインドア派。せいぜいスマホに耽るだけの暇な学生の身。
今ひとつ釈然としない唐突な打診から察するに、たとえば知人さんの近況に想像に余るものがあって、こちらが別室でお子さんの勉強を見る間、親が知人さんの胸中を聞いたり、相談に乗ったり、そういった目論見があるのかも知れない。
気乗りしない。しかし気乗りしない程度と、断って気が咎める程度を比すると、それはもう前者の負担の方が軽い。
よって親の運転のもと車で運ばれて行き、小山を背にとんぼが飛び交う秋晴れの空の下、猫じゃらしやコスモスが繁茂する古びた団地の駐車場へ到着した。
*
昼食時の喧騒が落ち着いた時間帯だったからだろう。敷地内は静まり返っていた。
親に続いて各棟を結ぶ歩道を行きしな、目指す棟のベランダ側の敷地の先に、緑色のひし形の金網フェンスを垣間見る。
棟とフェンスの間は、庭とも空き地とも付かない風情で、こんもり草が湧いている。草に溺れるフェンスの向こうに小山が立ち塞がっていた。
フェンスと小山の間は、草がなく、黒々と翳る。そこへ水路が走っているらしく、こちらの歩く音に紛れて微かにせせらぎが聞き取れた。
煤けた棟内へ入り、親が呼び鈴のボタンを押すと、武骨な金属の扉からチャイムと足音が漏れて、愛想よく迎え入れられる。
知人さんは細身の女性だった。茶色の艶々した髪をヒョウ柄のシュシュで纏め、片方の肩へ流している。こちらに負けず劣らず度の強そうな銀縁眼鏡を掛け、眉がなく、肌はたっぷり潤って、お化粧をしていない。
お邪魔しますと靴を脱ぎ揃える傍から、訪問への恐縮と感謝、屋内の雑然への詫び、併せて子供の自分にさえ下へも置かぬような気遣いが示される。
狭いけど座って、□□テレビ止めて挨拶して、今日すこし暑いよねぇ洗濯物かわいて助かるけど、のど渇いたでしょ炭酸かジュース、お茶と珈琲もあるから好きなの遠慮しないで言って…
なめらかに耳当たり良く、こちらまで気分が上向くような笑顔で、知人さんは朗らかに話し続ける。
その話し振りや笑い方、服や髪や肌などの端々から、当時、何がどうでもなく、積み重ね磨き上げられたもの、接客業、会話が主の、恐らくお酒を出す職にお勤めと感じ取ったのを覚えている。
屋内は陽射しが乏しく、ずっしりと湿っていて、台所と茶の間が一続きに開け放たれていた。
茶の間のテレビの真ん前でお子さんがテレビを見ており、知人さんが呼び掛けた後も微動だにしない。
台所のシンクの横と、茶の間のテレビ台の横に、それぞれベランダへ面した掃き出し窓が据わっていて、どちらの窓のカーテンもレースのカーテンごと全開されている。
下半分は曇り硝子、全面が土埃にかすむ窓の向こうには、鎮座する小山の影と、緑色の金網のフェンス、伸び放題の草叢が鬱蒼と一望できる。
その草叢の只中に、人影が紛れていた。
見たところ中年の女性。若竹色で丸首で長袖のカットソーと、黄土色で生地が厚そうな、多分スカートを纏っている。
曇り硝子と藪で見えないが、きっとスカートはふくらはぎ丈で、足首までの白い靴下に、紺色の甲バンドのつっかけサンダルを履いている。
こちらに正対して、両腕を脇へ垂らし、さながら碑や柱の如く凝然と立ち尽くしている。
ご家族か近所の方か、目礼と会釈が半ばする曖昧な礼をしたものの、伝わらなかったらしく反応はない。
あんな草叢の中へ居たら、草や羽虫がくっ付いたり、蚊に食われたりして大変だろう。
奇妙な浮遊感を覚えた。
*
茶の間で飲み物を頂きつつ軽い雑談を交わした後、当初予想していた通り、知人さんと親は茶の間へ残り、こちらはお子さんと別室へ移る。
お子さんは表情や声色こそ平板で不活性だったが、案外いろいろ話してくれて、もっぱら算数の宿題を和やかに解き進められた。
どうして1は1なの。
1と1足すってどういうこと。
2になった1はどうなったの。
頭を搾って答えると、感想の全く分からない「ふうん」と言う相槌が返る。
どこ住んでるの。
お家ひろい?
自分の部屋ある?
お小遣いは?
見た?
庭の。
掘り下げるのが躊躇われる話題は出来るだけふんわり誤魔化したが、所詮子供の腕前である。
お子さんはつくづく算数が苦手で、同時に頗る聡い様子だった。
こちらの小手先は、ことごとく看破されていたと思う。
ふうん。
最後に言ったその時だけ、ずっと机上へ俯けていた平板で不活性の顔を上げた。
柔軟に首を捻り、真っ直ぐこちらを見て、内から滲み出るような物凄い笑みを浮かべた。
*
ぼちぼち夕方へ掛かる折に茶の間から呼ばれお子さんと戻る。
途中で台所のシンクの横の掃き出し窓が目に入り、驚いて、不安になった。
窓の片面の端の隅、下半分の曇り硝子を挟んですぐの外側で、若竹色のカットソーがこちらへ背を向け屈んでいる。
先ほど草叢の中に居た中年の女性に違いない。
窓の引き手がある辺りで、膝を曲げ腰を落とし肩を丸め背を屈めて、正にベランダから屋内へサンダルを脱ぎ上がり込もうとしている。
その背が寸分も動かない。
年の頃に相応の緩やかな弧を描く背中が、到底たもてない筈の不安定な中腰のまま、さながら碑や柱の如く窓の開け口で静止している。
腰を落とし突き出された尻が窓を越え屋内になければ甚だ不自然な体勢で、けれど屋内には何もなく、窓の間際に留まっている。
咄嗟に錯覚だと気付く。
そう言えば洗濯物かわいて助かるって言ってたから、さっき草叢で見たのも見間違いで、ほんとは干してあっただけの洗濯物がいま窓の外の籠か何かに取り込まれて縁から垂れてるとかそんなところ。
あまり見入るのも失礼なので切り替えて茶の間へ目を戻す。お子さんはテレビの前に居て、親が居らず、知人さんが笑い掛けてくる。
親はそろそろお暇すべく勉強が済むのを待ちがてら、最初に停めた駐車場からこの棟最寄りの駐車場へ車を回しに出たと言う。
今日は本当にありがとうお礼と言ってはなんだけど体形が似ている事だし若いころ着てた可愛い服を気に入れば譲るから着てみてと言う。
今。
「うちも親きびしくてね。好きな服かってもらえないし、お小遣いなんてもらえないし、自分で稼いで買ったんだぁ。これも。これも。懐かしい」
親は承知かと問うに問えず、しみじみ別室へ促され、着てみない訳にゆかなくなる。
着た服は自分でも知っている高価なブランドの意匠があり、しかし自分が着こなすには非常に無防備で能動的で意図せぬ主張に富んでいる。
カーテンが全開の台所や茶の間に気が引けて、着ていた私服を羽織って戻ると、かわいい似合うよこっち来てと、羽織った服を取り払われ、度の強い眼鏡も外され、軽い化粧まで施される。
親が遅いと焦れながらぼやけた視界で足を摺り、台所の窓を背にする玄関の全身鏡の前へほら見てどうと導かれる。
良く見えないので分からない。窓が気になって目が泳ぐ。
けれど返事は決まっていて、感嘆と礼を述べるなり、さも嬉しそうな笑みと共にじゃあ着て帰りなと言われてしまう。
親が遅いと焦り、じりじり笑顔を繕って間が持たなくなる寸前で、がちゃんと玄関の戸が開いて親が顔面を強張らせた。
*
あれほど攻撃的な親は後にも先にも見た事がない。
知人さんが喋るのに被せて、帰るよ今すぐ着替えなさいと頬を震わせて唸り、ぎらぎら目を光らせて見張る。
玄関の全身鏡の前、知人さんと親に挟まれて、背後は台所の窓だったが、願ったり叶ったりと即座に手早く脱いで着て眼鏡を取り戻して掛けた。
知人さんはせめて持って帰ってと頻りに服を抱えさせてくる。返すにしろクリーニングすべきかと腕を迷わせる横から、親が服を取り突き出して、知人さんが受け取らずにいると手放して床へ落とす。
「靴はいて。車いきなさい」
胃をぎゅうぎゅうに萎縮させ、慌てて靴を履き親の脇を抜けて玄関を出る。
その間に知人さんが是非また来てと再訪を願い、親が刺々しい険を露に二度と来ないと述べていた。
共用廊下で反転し、辞去の礼をしかけた時、屋内では暗い玄関に知人さんが佇み、足元に服が広がり、背後に全身鏡があって、横に続く台所の窓から徐々に黄味を増す午後の光が懸命に差し込んでいた。
そこで今度こそ目撃し、ずれた眼鏡を直す暇もなく、親に手を引かれて棟を出る。
当初草叢へ紛れ、先ほど窓の外で屈み、気のせいだと思ったもの。今しがた鏡に映り込んでいた不鮮明で怪訝なもの。
ぼんやりした裸眼には、這って来ていると見えた若竹色の何かは、もう他の何ものでもなく明らかに中年の女性だった。
女性は屋内へ上がり込み、這って、玄関に蹲っていた。
床へ落ちた服に乗り掛かり、猛々しく肩を聳やかせ、爪を立てて掻き毟りながら顔を差し伸ばして口を寄せ、なにか言っているようだった。
ごそごそ蠢く丸い背を分かっているのかいないのか、知人さんは動かなかった。
大きく開き切った後、のろりのろりと閉まりゆく武骨な金属の扉を前に、けたたましい音が鳴るだろうそれを受け止めて施錠しようと近付く素振りを全く見せなかった。
足元に女性を這いつくばらせ、艶々の茶髪を片方の肩へ垂らし、銀縁眼鏡の奥で目を細め、たっぷり潤った肌の、無毛の眉宇と、頬と口角を持ち上げる。
真っ直ぐこちらを見て、内から滲み出るような物凄い笑みを浮かべた。
*
金属の激しい衝突音に急き立てられ、車の助手席に駆け込み、無言の親と帰路についた。
緊張で体が縮こまり、手足が冷えて胃が痛み、喉元で心臓が鳴って視界までばくばく明滅し、こちらも喋るどころではなかった。
親がコンビニに寄ってメイク落としと温かいお茶を買って来てくれて、漸く地面に足が着き、奇妙な浮遊感から脱し、現実感を取り戻した。
親の離席中に起きたのは着替えと化粧の2点と確認して謝られ、二度と近寄らせないと請け合われる。
それ以外の点についてや、その後なにかしらがあったかどうかについてなどは、以降一切話題にならなかった。
親があれほど怒ったのは、旧来の知人が親の目を盗むように子供を着替えさせたからとか、それにより子供当人が尋常でない動揺を呈していたからとか、そうした理由だったのか。
それとも、もしや実のところ、あの時こちらを見た瞬間に問答無用で攻勢を取り、とにかく脱ぐのを急がせた、某か前提となる事情や経緯があったのか。
あれから何年も経って、親にはもう訊ねようがなく、花束を手に通い慣れた景色を見て独りでに息が漏れる。
もう何年も前の事で、すっかり忘れていたのに、先日でかけようとしたら玄関のノブに掛かっていた。
良くある白いレジ袋で、特別珍しくもないご近所からの差し入れかと、覗いたら畳まれて収まっていた。
問答無用で処分したが、遅かったようで、否、そろそろ度の合わせ時だし、乱視も酷くなって、老眼も入ってきているから、やはり見間違いかもしれない。
気にし過ぎている影響で、毎晩ゆめに見てしまい、疲れていて、眠くもあるから、奇妙な浮遊感で足がぶれ、ありもしない若竹色に躓きかけて立ち止まりそうになる。
よく見たら這いつくばって掻き毟っているだろうか。
恨みがましい罵りの言葉を吐いている?
あり得ない。そんなみっともない真似はしない。
厳しい人なんだから。
好きな服もお小遣いもくれない。
そうそう。そう言っていた。
けれど今はもう違うから。
なんだか嬉しくなってくる。
もうすぐ親のところへ着く。
さいごに挨拶したい。
終.
庭 壱原 一 @Hajime1HARA
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます