訴えたかったもの

朝井景介

前編

 聞いてください。お願いです、聞いてください。

 あの人は、最低の人間です。悪い人なんです。もう、ぼくは限界です。早く、早く捕まえてください。


 はい、お姉さん。ちゃんと話せます。

 ぼくはずっと、母親から虐待されてきました。

 

 ぼくが今まで、あの人のために、どれだけ我慢してきたか。こっそり、庇ってきたか。誰も、それを知りません。


 あの人だって、気が付いていない。いや、違う。知っている。知っているから、尚更きつく当たるんだ。

 子どもに世話されていることを、引け目に感じている。あの人は、自分がちゃんと母親をやれているって、周りに思われたくて、仕方ないんだ。


 ばかな話だ。


 出来ないことを出来るように見せかけて、どうしようって言うんだ。それがどうなるか、子どものぼくだって知っている。


 ぼくが居なかったら、あの人は、馬鹿な弟たちと、どこかで死んでいたはずだ。なのに、ハルもアオも、あの人が良い母親だって、本気で信じている。

 毎日の家事だけじゃない。あの人の薬の管理も、酔って吐いたゲロの始末まで、ぼくが小学生からしてきたのに。あの人は勿論、弟のあいつらまで、ありがとうの一言もない。それどころか、弟たちに習い事をさせたい、なんてふざけたことを言って、ぼくが必死にやりくりする。

 

 でも、そうだ。

 ぼくはそれを、恨んでいるわけじゃないんです。

 それは、本当なんです。


 あの人は、小さな子どもみたいに無知で無力だけど、良い母親になりたいっていう気持ちは、本物なんです。

 だから、必死に節約したお金を、どんなに馬鹿みたいに使われても、的外れなことで怒られても、ぼくは、我慢が出来る。

 出来るけど。

 なら、たまには褒めてくれても良いのにって、少し、思うんです。


 昔だけど、珍しくあの人が酔っていなくて「ゆうちゃんは、いつも頑張っているね。でも、不機嫌な顔ばっかりはダメだよ。笑っていれば、良いことがたくさんあるよ。神様は、ゆうちゃんのこと、ちゃんと分かってくれているからね」そう言われて、ぼくはつい、泣いてしまった。

 違うんだ。

 ぼくは神様に分かってもらえなくても、お母さんが分かってくれるなら、それでもう、いいんだ。

 

 お母さんと一緒にいても、辛いことばかりなのは、ぼくはもう、分かっている。

 自分の可能性が、あったはずの未来が、閉じていくことが分かる。


 でも、離れられない。


 大人から施設で暮らすことも言われたけど、ぼくは行かなかった。

 お母さんがいなくなったら、ぼくは生きていけない。


 お母さんだって、そうでしょう?

 だから、ぼくがお母さんを守る。

 もっともっと大きくなって、お母さんの力になる。


 そうだ。そう伝えたかったけど、まだ小さかったぼくは、泣くしか出来なかった。

 それで、いつまでも泣き止まないぼくに、あの人はパニックになった。

 ぼくの口を塞ぎ、それに驚いたぼくはさらに悲鳴をあげて、結局、近所の人に通報されました。


 はは。

 

 あの人が褒めてくれたのは、あんなときの一度だけだ。


 ぼくは、あの人を愛している。学校の友達を捨て、助けてくれようとした人達を捨て、ずっとあの人と生きてきた。ぼくは神様を信じない。誰も、信じはしない。

 

 でも、あの人の、良い母親になりたいって思いだけは、信じたいんだ。


 弱くて、癇癪持ちで、どっちが子どもか分からないけど、あんなに純粋な人はいない。そうだ。子どもは、親を愛するものだ。

 でも、どうしてお母さんは、ぼくを愛してくれないんだろう。

 ぼくは、こんなにも頑張っているのに。

 

 ああ、くそっ。

 早く、早く捕まえてください。ぼくは、嫌われている。要らないんだ。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る