第23話 刹那の一撃

 暗闇の中、紗由は必死に逃げ続けていた。振り返ったらすぐ後ろにディルクがいるのではという恐怖と戦いながら、震える足を叱咤して階段を下りきる。


(出口がわからない……! 隠れる?)

 とにかくあの男に捕まるわけにはいかない。


 息を切らしながらどこかの部屋に飛び込む。暗がりでよく見えないが、食事室のようだ。中央に大きなテーブルがあり、白い布がかけられている。


 青白い光にハッと目を向ければ、窓から月光が室内を薄く照らしていた。


(ここから外へ出られるかも!)

 窓へ駆け寄り、錠前を外そうとするが、びくともしない。


(お願い……開いて……)

 鼓動が激しく鳴り、手が震えてうまくいかなかった。急いで室内に視線を巡らせ、テーブルの上にある燭台に手を伸ばす。


 それを思い切って窓にぶつけると、派手な音がして硝子が粉々に砕け散った。


 裸足のままの紗由は、テーブルにかけてあった白い布を引っ張ってきて窓枠にかける。そして少しでも離れた場所めがけて跳んだ。


 

「う……っ」

 膝を強打してしばらくその場から動けなかったが、なんとかゆっくりと立ち上がる。


「ここは、どこなの……?」

 周囲を見回すと、そこは四方を建物の壁に囲まれた場所だった。花壇やベンチのようなものがあるので、憩いの場所として造られた中庭なのかもしれないが、今は完全に悪手だ。


 引き返そうと思ったら、冷たい夜風が紗由の黒髪に絡んでうなじを撫でていき、ぞっと鳥肌が立つ。


「鬼ごっこは終わりだ」

 その風が過ぎると、耳元でディルクの低い声が囁きかけるように響いた。


「……っ」

 紗由の全身が硬直する。震えながら振り向くと、そこには先ほどの負傷した痛みなど、ものともしないディルクが悠然と立っていた。


 彼は、まるで獲物を狩るのを楽しむかのような余裕に満ちた笑みを浮かべている。


「いや……!」

 ディルクにきつく左手首を掴まれ、このまま引きちぎられるのではと悲鳴を上げた時だ。


 鋭く乾いた音――何か火薬が弾けた時のような音が響いて、ディルクが横に飛び退く。だが、彼の視線は何かを追い、宙に向いていた。


「なんだ、この弾の軌道は」

 ディルクは眉間にしわを寄せたが、拳でそれを叩き落とした。


「この国の人間は妙な力を持っているな」

 彼はやれやれと面倒くさそうにため息をつく。


「わざわざ殺されに来るとは、愚かな」


 再び、先ほどと同じ音が中庭に響き渡る。


 ディルクは瞬時に察知し、涼しい顔をして後ろに跳躍し、今度は足でそれを蹴り返す。


「標的に当たるまで追い続ける弾丸に驚きもしないとは、思ったより戦い甲斐がありそうですね」

 食事室の窓から姿を現したのは、加賀見だった。


 彼は右手に銃を構えながら、中庭へやってくると銃口をディルクに固定する。その冷静な目が、敵を鋭く見据えていた。


「紗由さん!」


 さらに別の声が響き、紗由の胸がぎゅっと鷲掴みにされる。


「アラン先生……!」

 

 加賀見の後からアランが駆けつけ、紗由を強く抱きしめた。


「先生……先生……!」

 紗由は彼の胸にしがみついて声を絞り出す。彼の温もりが一瞬の安心感を与えたが、すぐに顔を上げる。


「あの人が犯人……ディルクと名乗っていました!」


「ええ、知っています。詳しいことは後で。ここにいてください、紗由さん」

 アランは彼女を建物の陰に誘導し、すぐにディルクへと視線を戻す。


 一瞬に近い移動速度でディルクに近づき、その懐に入ろうとするが、相手も同じような速さで攻撃を躱した。


「“So, you are her child after all…… those pitiful eyes, just like hers.”(やはりお前はあの女の子供か……その哀れな瞳、あの女そっくりだ)」

 アランの攻撃を軽々と避けながら、ディルクは嘲るような笑みを浮かべた。


「“What are you talking about?”(何の話だ?)」

 アランが眉をひそめる。


 二人が何を話しているのか紗由にはわからなかったが、決していい内容でないことは理解できる。


「“Your mother……her blood was sweet, your father……he fell right into my trap.”(お前の母親……あの甘美な血、父親も……俺の罠にかかって死んだ)」

 ディルクは残酷な笑みを浮かべ、その鋭い牙を剥き出しにする。


「“It was you……that night……!”(お前だったのか……あの夜……!)」

 アランが声を荒らげ、ナイフを振るうとディルクの細い髪の毛先がさらりと風に吹かれていった。


「“Yes, your mother was delicious. Your father, a fool. You’ll meet the same fate.”(そうだ、お前の母親は美味だった。父親は哀れな馬鹿だったな。お前も同じ運命だ)」


 ディルクが答えた瞬間、アランの瞳が深紅に変わった。怒りのこもったその一撃が、これまでとは違う力でディルクを襲う。


「“Shut up!”(黙れ!)」


 激しい攻撃の嵐に、ディルクも次第に防御に回るしかなくなる。


 アランが一気に距離を詰めた。


 加賀見もディルクの側面から攻撃を仕掛け、二人の連携でディルクに迫る。加賀見の銃弾が再び発射されるが、ディルクは蝶のようにひらりと身軽に飛び、その攻撃は避けられてしまった。


(お願い……二人を勝たせて)

 紗由は立ち上がり、祈るように両手を合わせた。


「遅い。もう飽きた」

 ディルクは顔から笑みを消し、手のひらで純銀の弾丸を弾き返す。その隙にアランの鋭いナイフがディルクの胸元に迫ったが、彼はわずかに身を反らし、ナイフを跳ね返す。


「くっ……!」

 弾かれたナイフが離れた芝生の上に落ち、月光を受けてきらりと光った。


「無駄だ。私には勝てない」

 ディルクが冷笑し、アランの方へ鋭い爪を繰り出す。今度はアランが防戦一歩になる。


(このままじゃ……)

 紗由は、ぐっと唇を引き結ぶとナイフが落ちた場所に向かって走り出した。


「アラン先生! これ――」

 足元に転がっていたナイフを手にした瞬間――、頭の上に影がかかる。


鬱陶うっとうしい。お前のはらわたごと血を啜ってやる」

 振りかざしたディルクの長く鋭い爪に、紗由は芝生に膝をついたまま体を丸めた。


 逃げなければいけないのに、その場から動けない。目の前に迫る死の影に、ただ目を閉じて身を固くするしかできなかった。


 だが、その刹那、何かが自分を強く抱きしめる感触を感じた。同時に揺さぶられるような衝撃も――。


「――アラン先生……?」

 恐る恐る目を開けると、アランの腕に中にいた。彼は紗由を庇い、自らディルクの一撃を受け止めたのだとすぐに気がつく。


「先生!」


「大丈夫……」

 アランは笑って答えてくれたが、かすかに眉間に力が入っている。


 彼の背中に手を伸ばすと、ぼろぼろに引き裂かれた上着と、そこを濡らす温かい何かが指先に触れる。


 アランの血だ。


「これを返すのを忘れていたよ」

 アランの背後に立ったディルクが握りこぶしを掲げる。その手には純銀の簪が握られていた。


「やめて!」

 声の限り叫んだが、ディルクは無表情で、躊躇なく簪をアランの背中に突き刺した。


 アランがかすかに呻く。


「先生――!」

 自分を庇ったせいで、アランが傷ついているのにそれを見ていることしかできないなんて――紗由の心は引き裂かれるようだった。


 しかし、アランは苦しそうにしながらも微動だにしなかった。


 そして素早く紗由の手からナイフを受け取ると、空に閃く稲妻のごとく一瞬で、振り返ることなくディルクの心臓を正確に貫いた。


「……馬鹿な。私に傷をつけることなど……」

 ディルクはよろめき、狂気の笑みを浮かべたまま後退する。


 だが突然、銃声が響き、ディルクはがくりとその場に頽れた。


 加賀見が、ディルクに向かって追い打ちをかけるように引き金を引いたのだ。


「特別な存在など……いつか、消える……」

 血を吐きながらディルクは恨めしそうな声を上げたが、四肢からさらさらと灰となっていき、最期にはすべてが風にとけていった。


「どうやら、倒せたようですね」

 加賀見が安堵の息をついた。


 それは、よかった。本当によかった――のだが。


「アラン先生……」

 紗由はアランの重さを受け止め、震える手で彼の肩を掴んだ。抱きしめているというより、もたれかかっている状態に近い。


「紗由さんが無事でよかった……」

 彼は柔らかい笑みを浮かべ、優しく彼女を見つめる。


「先生! だめ……死なないで、お願い!」

 両目にいっぱいの涙を浮かべて、紗由は悲痛な声を上げた。


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