第20話

「話がありますのでね」


 話? と首を傾げる。しんようは一瞬、フッと鼻で笑うと、いつもの傲慢ごうまんな声で言い放ったのだ。


「来週、わたくしには縁談があります。これが成功したら、誰の正室か……分かりますね?」


 目の前が、真っ暗になった気がした。


 秦芙蓉は楊明ようめいさんの正室候補。他の女性を寄せ付けないほどのそうっぷり。もはや正室になるのは確定の状況。

 そんな状態で、秦芙蓉が誰の正室になるか……分からない人間の頭脳は、猿以下だ。


「秦芙蓉、あなたは……」

「せいぜいお幸せに」


 秦芙蓉はわたしの言葉をさえぎってそう言うと、きびすを返して出て行った。

 ……本当に何なんだ? あの態度は。

 私は呆然ぼうぜんと立ち尽くしていたが、ハッと我に返る。


 * * *


「……というわけなんです」


 私はちょうこうさんとお茶を飲んでいた。

 わずかに雪の降る庭園はひどく冷え込んでいて、手もかじかむ。

 私のきょうも山あいの集落だったが、雪は降らなかった。

 季節風という雪を降らせる風が、手前の山々で遮られ、残った乾いた風が吹いてくるせいだ。


「……得をするのは秦家の人間だけですね」


 そりゃ、令嬢が太守たいしゅの正室になれば更なる昇格も望めるし、もしかしたら中央で皇帝こうていに何かかけられるかもしれない。太守を踏み台にして飛躍する。

 しかし、得をするのは秦家? 楊明さんは?


「秦芙蓉様が落ちぶれることを望んでしまう私がいます。玉蘭様にきちんと幸せになってもらいたいです。それに、後宮での芙蓉様の態度はよくはありません。解雇にならぬよう、今まで僅かに黙っていましたが……」

「いえ、お気遣いありがとうございます」


 張功さんは微笑むと、少し考え込んだ。そして言った。

「玉蘭様、もし芙蓉様が楊明様の正室になったら……どうするおつもりですか?」

「……え?」


 私は首を傾げたが、すぐに首を振った。そんなこと考えるまでもない。


「秦芙蓉は嫌いですが……だからといって私が楊明様に害をすのは許せません」


 ああそうだ。私が望むのはそれだけなんだ。でも……本当にそれだけなのか? いや違う……違う気がする。

 私は、もっとたくさんのことを望んでいる気がする。

 ……何を望んでいるんだろう? でも、故郷は裕福ゆうふくにしたい。楊明さんと秦芙蓉が結ばれてでも……。


 ズキッ。

 え? 胸……今、ズキッと痛んだ?


「玉蘭様?」

「あ、いえ。何でもありません」


 私はあわてて首を振った。そしてお茶を一口飲むが……その味はよく分からなかった。

 そんな私を見て、張功さんは言った。


「玉蘭様、お悩みの時は誰かにお話しください」

「……はい」


 でも、この胸の痛みは……一体?


 * * *


 翌朝。楊明さんと秦芙蓉の縁談まで、残り六日。


 ここに来てかなりの週数が経ったが、家族は来ない。

 理由をたずねると、準備は整っているが、雪道が続く上気温が低いので、送迎に手こずっていて大幅に遅れている……とのこと。

 仕方ない。私が来た秋でさえ、あの道を歩くのは勇気がいる。

 でも、私は別に家族に期待していない。楊明さんと秦芙蓉が結ばれるのを、見たくはないけれど……仕方がないとも思っている。


 ただ……何かが引っかかるのだ。何が引っかかっているのかも分からないけど。

 そんなモヤモヤを抱えていたある日のこと。私がいつものように楊明さんの部屋に入ると、彼はいた。

 しかしその表情は暗いものだったので、私も自然と表情が暗くなるのを感じた。


 * * *


 いつも通りの仕事を終えて数刻。庭園の近くで、私と仲の良い女官たちが喋っているのを見て、思わず話しかけた。


「みんなっ」

「あ、玉蘭!」


 そう言ったのは、せいちょうだ。

「お疲れ〜」

 そう言ったのは、しょうりん

「お疲れ様です、玉蘭様」

 そう言ったのは、爽やかな可愛い笑顔が素敵な私の女官、蘇菲そひ


「みんなもお疲れ様。ところで、何の話してるの?」

「あ〜それはね〜」


 花青蝶はニヤニヤしながら言った。


「玉蘭は楊明様のこと、どう思ってるのかなって」

「え?」


 私は思わず聞き返した。そして少し考える。どう思っているんだろう?


「……優しい人だと思う」

「それだけですか?」


 と蘇菲が首を傾げるので、私は慌てて付け足すように言った。


「あ、あとかっこいいと思う!」


 すると花青蝶はニヤニヤしながら言った。


「それは分かるわ〜」


 ああもうっ! 恥ずかしいからやめてよ!!

 ……でもまあ、実際かっこいいと思うんだよね。街中で私の腕を引く様子とか、太守程度には思えなかったし。

 皇帝か、その血縁か? みたいな感じだったよ本当。


「秦芙蓉じゃ不釣ふついだよ」


 馬小鈴が呟く。

 確かに、秦芙蓉に結ばれて欲しくはない……でも、ままだ、絶対。


「玉蘭はさ、楊明様の正室に誰がなると思う?」


 花青蝶がそう聞いてきたので、私は首を傾げた。


「さあ……でも秦芙蓉は確定じゃない? 後宮での態度もあまり良くないし」


 すると馬小鈴と蘇菲も頷いた。


「確かにね〜秦家の人間だから当然っちゃ当然だけどさ」

「でも、あの性格の悪さでは……」

 ああ、それは私も思うよ! 本当に腹立つよね!!

「まあ、偉い人の前では猫被ねこかぶってるから」


 本当だよ。寒気するよ。いっそ清々すがすがしい。

 お淑やかで立派なお嬢様の振りを続ける秦芙蓉にとってみれば、正室になっても後宮で猫被りを続ける状況は変わらない。

 嫁ぎ先としては最高だったのだろう。


「でもさ、秦芙蓉が楊明様の正室になったら……玉蘭はどうするの?」


 花青蝶はふとそう聞いてきた。私は少し考えてから言う。

 ズキッという胸の痛みを無視して。


「さあ? 何も変わらないよ」

「え〜なんで?」


 蘇菲も馬小鈴も不思議そうな顔をしているが、私はただ微笑むだけだった。だって本当に何も変わらないのだ。私が楊明さんに対して恋心を抱く資格はないのだから。


 * * *


 縁談まで、残り五日。

 今日は休日だ。

 楊明さんは朝から外出しているし、私は特にやることもないから部屋でボーッとしていた。そして突然扉が叩かれたので開けると、そこには見知った顔があった。


 張功さんだ! 彼は私を見ると微笑んだ。私も思わず笑顔になる。

 すると張功さんは言った。


 ……え? 今なんて言いました? 秦芙蓉が楊明さんの正室に決まったら……玉蘭様はどうする?


「え……?」


 私は思わず聞き返した。すると張功さんはもう一度言った。


「秦芙蓉様が楊明様の正室になられたなら、玉蘭様はどうするのか……と」


 それは……決まっているじゃないか。

 楊明さんが幸せになるのならそれで良い。

 でも……この胸の中のモヤモヤはなんなの? 私が黙り込むと、張功さんは続けた。


「秦芙蓉様が楊明様の正室になられるのは、もはや避けられぬ事態。玉蘭殿は知らないかもしれませんが、今宮中で最も力を握るのは、楊家ではなく秦家です。一位が秦家、二位が楊家。となれば……」


 ああ、秦芙蓉は絶対に楊明さんと結婚けっこんするんだ。私には最初から発言権、なかったのかな。

 ……でも、避けられなくなったなら、仕方ない。私は諦めるしかない。楊明さんが側室をつくるなんて期待はできない。もしくは正室が数名か。

 いずれにせよ最愛は秦芙蓉。……これで終わりか。


「けれども、善処します。当日、どうにかして私が、後宮内での秦芙蓉様の悪行をていします」

「え……?」

「楊明様は、玉蘭様に幸せにおなりになって欲しいのです。ですから……」


 私は思わず目を見開いた。そして張功さんの目を見つめ返す。

 秦芙蓉は悪行を露呈される……つまりそれは、秦家のこうな令嬢という立場を、失うということ?


 そんなことをしてまで、自分の幸せを望もうとは思わない……けど、頷きかけた自分もいる。

 秦芙蓉が幸せに楊明さんと過ごしている光景を想像するたび、吐き気もするし、何より……羨ましすぎて私が壊れそうだ。

 隣に立ちたかった、と思っていたのは私だけじゃないのに。


「玉蘭殿?」

「は、はい」


 私は慌てて返事をした。張功さんは微笑むと言った。


「ご検討ください」


 そして彼は去って行く。残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 秦芙蓉が幸せになるなんて許せないし、でも私が楊明さんを幸せにできるとも思えないし……。



 私は、どうしたらいいんだろう。

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